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第77話 敬語はやめよう ~佑編~

 伊織さんとマンションに帰った。帰り道、指輪をしてもらうように言ったが、そのあと、なんだか伊織さんが妙だった。何かを言いたそうにしている。


 気になって聞いてみると、岡本や塩谷には敬語じゃないのに、なんで自分には敬語を使うのか、それを気にしているようだった。


 なんでかって言われてもな。同期や年下の営業の部下なら敬語を使うこともないが、大阪でも名古屋でも、事務の子には敬語だったし、だから、自然と伊織さんにも敬語を使っていただけなんだが。


 いっとき、恋人っぽくなかった頃は、敬語だからなのかと思ったこともあった。でも、今は敬語だからとか関係なく、伊織さんとの距離はぐっと縮まっている。多分、結ばれてからだ。


 家では敬語をやめるようにすると伊織さんに言った。伊織さんも「努力します」と、真剣な目でそう訴えた。本当に、いつでも一生懸命だな。だけど、二人して結局敬語からなかなか抜け出せないでいた。


 そして翌朝、

「おはよう、伊織さん」

 すやすや寝ている伊織さんを起こしに行った。伊織さんは、目覚めてもぼんやりとしている。

「朝食、できているよ?」

「あ、はい」


 伊織さんのおでこにキスをして、僕はキッチンに戻りコーヒーを淹れた。伊織さんは、顔を洗いに行ったようだ。


 弁当も作り終え、水筒にお茶も入れてある。伊織さんは慌てたようにダイニングに来て、

「すみません。また、起こしてもらっちゃって」

と頭を下げた。こういうところが、まだまだ他人行儀だ。


「いいよ。毎朝僕が起こすから気にしないで」

 そう言って椅子に座ると、伊織さんもどこかキョトンとしながら椅子に腰かけた。

「あ、あの。敬語じゃないんですね」

「伊織さんが敬語はやめろって言うから」


「やめろっていうわけじゃなくって…。いえ、あの」

 くす。困ってる。

「伊織さんも敬語じゃなく、家では普通にしゃべって」

「え?あ、は、はい」


 そう言ったあとに、

「い、いきなりは無理かも」

とぼそぼそと呟いた。


 朝食を食べ終え、伊織さんは化粧をしに行った。その間に後片付けや洗濯物を干していると、

「私も手伝います」

と、服も着替えず、伊織さんがすっ飛んできた。


「着替え、先にしていいよ。僕はすぐに着替えられるし。あと、まだ寝癖ついているよ?」

「え?あ、そうだった」

 化粧だけ済ましてすっ飛んできたんだろうなあ。慌てて着替えをしに行ったぞ。


 そうして、いつもの出る時間になり、伊織さんはコートを羽織り、カバンを持って玄関に来た。僕もコートを羽織り、カバンを手にして、

「ゴミ捨てするから、先にエントランスから出てていいよ」

と言った後、試しに、「伊織」と呼び捨てにしてみた。すると、

「え?!うわ」

と、伊織さんは真っ赤になってしまった。


「呼び捨て、ダメかな」

「いえいえっ!大丈夫です。でも、ちょっとびっくりして」

 耳まで真っ赤だ。くす。可愛いなあ。


 にやけながら僕はゴミ置き場まで行ったが、奥様方が揃っていたので慌てて表情を消し、

「おはようございます」

と一言だけ言って、さっさとエントランスに行こうとした。


「あ、魚住さん!」

 お隣の奥さんだ。

「はい?」

 なんだよ。急いでいる感をこんなにアピールしていたのに。


「もしかして、ご結婚された?」

「……はい。すみません。また、時間がある時でいいですか?電車に間に合わなくなるので」

「引き留めてごめんなさい。ご結婚されたのね、おめでとうございます」

「はい、ありがとうございます。では」


 早口でそう言い、僕は思い切り早歩きでエントランスに行った。後ろで、「やっぱり!」とか、「奥さんどんな方?」という奥様方の大声が聞こえてきたが、そんなのは無視して伊織さんのもとに急いで行った。


「ごめん、引き留められてた」

「え?誰にですか?」

「近所の奥さんたち。結婚したのかって聞かれて」

「それで、なんて答えたんですか?」


「はいって答えたよ」

「……」

 あれ?なんか、青ざめてる?

「黙っていてもそのうちばれるだろうし。…言っちゃダメだったかな」


「い、いいえっ。でも、なんか、そのうちに話しかけられたりするのかなって思ったら緊張しちゃって」

「あはは。今から緊張しないでも…」

 そう言って笑うと、伊織さんは意外って顔をして僕を見た。


「ん?どうかした?」

「声出して笑ったから、ちょっと意外って言うか」

「あれ?そう?」

「いつも、くすって笑うから」


 そうだったかな。でも、伊織さん、なんだか嬉しそうだな。

「伊織…」

「はいっ」

 あ、びっくりしたように返事した。


「くすくす。呼び捨てでこれからは呼ぶから、慣れてね?伊織」

「う、はい」

 真っ赤だ。そんな伊織さんの手を取り、僕は歩き出した。


 会社までの道、敬語はやめて僕は話した。伊織さん、いや、伊織は真っ赤になったまま、恥ずかしそうにしていた。


 会社に着き、デスクに着く頃には僕の顔はまた無表情になる。

「おはようございます、主任」

 北畠さんや塩谷に挨拶され、

「おはようございます」

と返しながらも、パソコンの画面を見ていた。いくつか来ているメールをチェックし、席に着いた野田さんに指示を出した。


「おはよう、魚住君」

「おはようございます、課長」

「そうだ。まだ魚住君には言っていなかったが、来週から札幌支店の若手が来るからね」

「若手?」


「塚本君の代わりに部長が呼んだんだよ」

「部長が…」

「なかなかのやり手らしいよ。魚住君の部下と言うわけじゃないけど、何かあったら魚住君も彼のこと面倒見てやってくれ」

「はい」


 そうか。早くも塚本さんの後任が決まったってことか。若手…。いくつだ?僕より下か?


「おはようございます」

 伊織が静かに席に着いた。いつも目立たないから、課長とか、たまに伊織が来たことすら気づかないでいる。僕はどんなに静かに席に着いたとしても、わかってしまうが。


「桜川さん、来た早々すみませんが、コピー頼んでいいですか?」

「はい」

 すぐさま伊織は席を立ち、僕のデスクに来た。


「あ、そうだ。今日の午前中忙しいですか?」

「いいえ。そうでもないです」

「じゃあ、昨日の夜やってもらってた表を完成してもらってもいいですか?」

「はい。わかりました」


 コピー室に伊織はすっ飛んで行った。

「主任、まさか、桜川さんに家でも仕事をさせているんですか?」

「ああ、はい」

「ええ?まじっすか」


 野田さんがびっくりしている。

「僕が仕事をしている間、暇を持て余しているようだったので、お願いしたんですが」

「家でも主任は仕事をしているんですか」

「持ち帰ることは多いですけど」


「もしかして、家で桜川さんはほっぽかされているんですか?」

「……。野田さん、そういうプライベートのことは」

「一緒に住んで間もないんですから、ちゃんとかまってあげないと、かわいそうですよ」

「そうですよ、主任」


 北畠さんまで、なんで話に加わってくるんだ。

 そこに、伊織が、

「お待たせしました」

と息を弾ませ、僕の席に来た。


「ありがとうございます。それじゃ、これをお願いします」

 USBメモリーを渡すと伊織は嬉しそうに「はい」と頷いた。そして、また自分の席まで早歩きで戻って行った。


「はあ、ほんと、健気って言うか、なんて言うか」

 野田さんがそんな伊織を見て、ため息交じりにそう呟いた。


 なるべく家に早くに伊織と帰りたい。だから、最近は残業をせず家に仕事を持ち帰る。それも、かなり頑張って急いで仕事を終わらせている。その間、寂しいと言うから、昨日は仕事をしてもらった。かまってあげられないけれど、それでも、近くにいる。それだけでも、僕にとってはかなり嬉しいことだ。


 伊織は?やっぱり、寂しいのか?


 午後、昼飯を簡単にうどん屋で済ませ、会社に戻った。13時10分前にコーヒーを淹れに行くと、そこに伊織と溝口さんがやってきた。

「お疲れ様」

 そう二人に言うと、伊織は赤くなりながら「お疲れ様です」と答え、溝口さんは完全に無視をした。こいつは…。


「コーヒー、なかったから今作ったところです」

「あ、そうなんですね」

 伊織はそう言って、僕の隣に並んだ。ああ、溝口さんが邪魔だ。いなかったら、もう少し伊織に甘えられたのに。


「なんか、来週、うちの課に同期の小林君が来るって聞いたんですけど、そうなんですか?主任」

 いきなり溝口さんが、それまで無視していたのに聞いてきた。

「え?同期なんですか?」

「はい。札幌支店に行っていたけど、同期です。一回北海道にスキーを同期で行った時に、札幌を案内してもらったことがあって。ね?伊織」


「うん」

 伊織はコクンと頷いた。

「へえ、同期、仲いいんですね」

 僕がそう言うと、溝口さんは意味深な笑みを浮かべ、

「気になりますか?」

と聞いてきた。


「え?何がですか?」

「小林君って、伊織のこと気に入っていたからな~」

「え?!」

 あ、やばい。声がでかくなってしまった。


 コポコポとコーヒーメーカーの音だけが一瞬響いた。そのあと、

「何言ってんの、真広。小林君は私じゃなくって、まあちゃんのことが気に入っていたんだよ」

と、慌てたようにそう伊織が言い返した。


「まあちゃんは、同期の男子みんなが気にしていたけど、でも高嶺の花って感じもあったしね。近寄りがたい雰囲気あったじゃん」

「そうかな。すごくモテていたけどな。飲み会あると、必ずだれが送るかで揉めていたくらい」


「まあね。私や伊織にはだあれも声かけてはくれなかったけど~~。でも、小林君、けっこう伊織のことも気になっていたっぽいよ」

「嘘だ。そんなのウソです。佑さん。あ、違った。主任」

 慌てまくってるな。なんだか、怪しい。


「でも、札幌で、ツーショットで写真撮ってたよね?私が撮ってあげたよね?それに、スキーも伊織につきっきりで教えてたよね?あ、そうだ。カラオケもデュエットしてたよね?」

「なんでそんなに良く覚えてるの?私、忘れてたよ」


「へえ。そんなに親しくしていた同期がいるんですか」

 ちくっと嫌味っぽく言ってしまった。

「いえ。親しくなんかないんです。それに、小林君はその頃、札幌支店に彼女がいて」

「え?そうだったの?」


「そうだよ。で、何歳になったら結婚するかって話とかして、彼女との話とか聞かされてたんだもん、私」

「なんだ~~。そうだったんだ」

 なんだ。そうだったのか。僕も溝口さんと一緒に、心の中で安堵の声を上げた。


 もしかすると、すでに結婚しているかもしれないよな。そんなことを思いつつ、コーヒーをカップに注ぐと、

「あ、すみません。入れてもらって」

と、伊織は恐縮した。

「いいですよ、別にこれくらい。いつものことですし」

 なんとなしにそう言うと、溝口さんが伊織の腕をつっついていた。


「でも、伊織の薬指にはエンゲージリングが光っているし、小林君が来たとしても、大丈夫だね」

 溝口さんはなにやらにやつきながら、そんなことを言い出した。

「う…」

 伊織は赤くなって、その場で固まっている。


「休憩室でも、騒がれてたんだよね、伊織」

「え?そうなんですか?」

「伊織に似合っている可愛い指輪ですね。主任が選んだんですか?」

「いえ。二人でですが」


「へ~~~。いいなあ。私もそろそろ、おねだりしてみようかな」

 伊織は左手を右手で隠した。

「すみません。みんなにひやかされたんですか?」

「はい」


「だけど、指輪してくれてたら、主任も安心ですよね?」

 溝口さんは、時々鋭いことを言うんだよなあ。

「まあ、そうですね」

 ここは否定せず、あえて肯定しておくが。


「やっぱりね。主任に指輪をはめろって言われたって言うから、そうかなって思ったんですよねえ」

 そんなことまで、言う羽目になったってことか?悪いことをしたな。

「でもまあ、大いに見せびらかしたらいいと思うよ。みんな、婚約すると見せびらかしているんだもん。伊織もどんどんのろけて、見せびらかしたら?」


「のろけって…」

 まさか、いろいろと家でのことを話しているんじゃないよな。

「言わない」

「また~~。主任、伊織ってば、勿体つけて、全然教えてくれないんですよ。つまんないなあ」


 つまんないって…。

「そうですか、それを聞いて安心しました。じゃあ、桜川さん、今後も何を聞かれてもノーコメントでお願いします」

「え?は、はい」


 僕は先にコーヒーを持って席に戻った。いろいろとみんなにひやかされたりして、大変な思いをしているんだな、伊織は。そんなことを思いつつ、腰掛けると、

「桜川さん、さっそく婚約指輪してきましたね。ダイヤの指輪、光っていましたねえ」

と野田さんに言われた。


 そのあとは、課長をはじめ、課のみんなからも、指輪のことでひやかされた。

 ああ、ここにもひやかしてくる面々が揃っていたか。しばらくは、こんなことが続くのかもしれないな。


 少し、面倒だなとも感じたが、まあ、伊織とのことだから、ひやかされたとしても、OKとするか。みんなの声を右から左に流し、

「仕事して下さい。もう13時過ぎていますよ」

と、クールに言ってなんとかかわした。


 同じことを、仕事中に伊織が課のみんなから言われ、伊織は真っ赤になって困っていた。

「仕事中ですよ。仕事して下さいね」

と、僕が注意すると、みんながようやく伊織をひやかすのをやめたが、伊織はまだ真っ赤になってパソコンの前で固まっている。


「桜川さん」

「はい?!」

「仕事…」

「すみません。仕事、ちゃんとします」


 僕の顔を見てさらに真っ赤になり、伊織は仕事を再開した。

「みなさんも、あまり桜川さんをからかったしりないように。仕事に支障出ますから」

「すみません」

 課のみんなが小声で謝り、ようやく課に静けさが戻った。


 昼から塩谷は外回りでいないからよかったが、この場にいたらまず塩谷が苛立って、課の連中を怒っていただろうなあ。


「主任」

「はい?」

 野田さんが小声で僕を呼び、

「あまり、桜川さんに注意したりしないで下さいよ。なんか、観ていてハラハラする」

と言い出した。


「は?」

「そうだよ。優しくしてあげたまえ」

 課長まで?


 まったく、いったいなんなんだ。十分、優しくしているじゃないか。

 伊織を見た。伊織もちらっと僕を見ると、赤くなってすぐに目をそらした。あれは、目が合って恥ずかしがっているんだよなあ。


 みんなに、どうも僕が伊織に冷たくしていると誤解されているんだろうか。

「桜川さん」

「はいい?」

 慌てたように顔を上げた伊織に、

「仕事、頑張ってくださいね」

と微笑みかけた。


「はい。頑張りますっ!」

 伊織は元気よくそう答え、頬を赤くさせた。そして、嬉しそうにまたパソコンに向かった。

「桜川さん、ほんと、健気だよなあ」

 ………。


 なんだかなあ。優しい言葉をかけたつもりなんだが、よけい、僕が伊織をこき使ってる感が出てしまったのか?



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