第75話 甘えん坊 ~佑編~
ソファに座り、伊織さんの話を聞いた。伊織さんは、塩谷に傷つけられた様子もなく落ち着いている。
僕は、ほっと胸を撫で下ろし、伊織さんにキスをした。伊織さんは頬を染め、恥ずかしそうに視線を下げた。
テレビの音が静かなリビングに響いた。僕は伊織さんと手を繋ぎ、なんとなくテレビをぼんやりと眺めた。
「ドラマ、観ていたんですか?」
「いいえ。つけたけど、観ていませんでした。だから、あんまり内容もわかっていなくって」
「……そうなんですか」
「回していいですよ?」
「じゃあ、消しましょうか」
テレビをリモコンで消してから、僕は繋いでいた手を離した。伊織さんはあれ?という顔を一瞬したが、僕が頭を伊織さんの膝の上に乗せると、一気に緊張したように固まった。
可愛い。今、きっと焦りまくっているんだろうな。でも、甘えたい気持ちはもっと欲を出してきた。
「接待してきたんですけど」
「あ、はいっ」
「契約取れたんですよ」
「よかったですね」
「はい」
伊織さんの顔を引き寄せキスをする。伊織さんはまた、恥ずかしそうに顔を赤らめた。
伊織さんの膝の上は、思った以上に癒される。恥ずかしそうにしている伊織さんは、めちゃくちゃ可愛くて、もうちょっと甘えてみたくなる。
「お願いがあるんですけど」
「はい?」
そらしていた目を僕に向けた。
「契約取れたんで、ご褒美もらえますか?」
そう言うと、伊織さんはきょとんとした。僕は伊織さんの手を掴み、自分の頭の上に持っていき、
「頭…」
と、最後までは言わなかった。
まだ、きょとんとした顔をしていたが、伊織さんはまるで条件反射のように僕の頭を撫でた。ああ、ちゃんとわかってくれたか。そう思いつつ、撫でられたままでいた。
あ、伊織さんの表情が変わった。口元が緩んでいる。今、もしや、喜んでる?
一回撫でてから、しばらくの間があき、また伊織さんは僕の頭を撫でた。片手で撫で、片手は頬に手を当て、にやけるのを抑えている様子だ。
クス。可愛い。それに、気持ちいい。ああ、気持ちよすぎて寝そうだ。
「そろそろ、風呂に入らないと。このままだと、完璧寝ちゃいますね…」
「あ、は、はい。そうですね」
「でも、あと5分…」
そう甘えると、伊織さんは頭をまた撫でた。僕は目を瞑った。
あったかい空気に包まれる。ふわふわと夢心地だ。
一瞬、夢の中に入りかけ、風呂が出来た合図の音で目を開けた。伊織さんは僕の顔をじいっと見ていた。そして目が合うと、かあっと真っ赤になった。
「風呂、できた合図ですね」
「はい」
「入ってきますね…。先に入ってもいいですか?寝ちゃいそうなんで目を覚ましたいんですが」
「どうぞ」
「…あ、一緒に入りますか?」
「いいえっ。どうぞ、お先に」
「風呂、沸かしておいてくれてありがとうございます。じゃあ、お先に」
「はい」
真っ赤になったままの伊織さんの膝から頭を上げ、僕は着替えを取りに行った。
そして風呂に入り、バスタブに浸かりながら、幸せのため息をついた。
それにしても、僕は相当の甘えん坊だな。自分でもびっくりだ。なんだって、膝まくらなんてしてもらったんだろう。
癒されたかったからか。うん。それしかない。
それも、ご褒美に頭を撫でてもらうなんてなあ。今になって恥ずかしくなってきた。会社じゃ、伊織さんの仕事の出来栄えを褒めたりしているくせに、家じゃ立場が逆転だ。こんなに人に甘えたのは、下手すりゃ、ものごころついてから初じゃないか?
母にも素直に甘えられなかったし、父には甘えていたんだろうが、こういう感じでストレートに甘えたことはない。何かやって褒めてくれたが、頭を撫でられたことはなかったな。
後から伊織さんも風呂に入り、その間に明日のお弁当のためにお米を研いだり、軽くおかずも下ごしらえをした。
そして、皺になったスーツの上着やスラックスにスチームアイロンをあてたり、軽く部屋を片したりしていると、伊織さんが風呂から上がってきた。もう、ドライヤーで髪も乾かし終えていた。
「先に寝ていてもいいですよ?」
そう言うと伊織さんは、軽く首を横に振り、
「片づけをしていたんですか?」
と僕に聞いてきた。
「ああ、はい。片付けと言っても、少し散らかしていた雑誌やダイレクトメールだけです」
「……そっか。いつも片付けているから、部屋が散らからないんですね?」
「あと、必要最小限のものしか置かないとか…ですかね」
「あ、埃が…」
「え?」
伊織さんは観葉植物の葉っぱを見てそう言った。
「拭いておいてもらってもいいですか?」
「はい」
僕が頼むと伊織さんは、すごく優しく愛おしむように観葉植物の葉を拭いた。さすが、野菜を育てたり、フラワーアレンジメントをしているだけあって、愛情があるんだろうなあ。
「12時になりますね。寝ましょうか」
「はい」
先に伊織さんがベッドに潜り込んだ。僕は電気を消し、伊織さんの横に潜り込み、伊織さんを抱き寄せた。
ギュウ。なんとも言えない幸せな時間。こんなふうにきっと、特別なことをするわけでもない、日常的な毎日が幸せなんだろうな。
「伊織さん」
「はい」
「明日も仕事、頑張りますね」
「……え?」
「ん?」
なんでそこで「え?」と聞くんだ?
「あれ?私に頑張れって言っているんじゃないですよね」
「はい。僕が頑張りますと言ったんですが?」
「………」
びっくりしているのか。無言だ。
「頑張りますから、また、ご褒美お願いしますね?」
そう言うと、伊織さんは突然僕を抱きしめ、
「はい」
と思い切り頷いた。
翌日、少し寝坊した。コーヒー豆を挽いている余裕もなく、コーヒーはやめて紅茶を入れた。伊織さんのことはいつもよりも早く起こした。張り切って伊織さんは洗濯物を干し、結局時間が無くなり、着替えるのはバタバタと忙しそうだった。
「す、すみませんっ!電車間に合いそうもなかったら、先に行ってください」
「急げば間に合いますよ」
伊織さんと早歩きで駅まで行き、ギリギリでいつもの電車に飛び乗った。
「はあ、はあ…」
伊織さんは息を切らし、よたよたと吊革に掴まると、また僕に謝った。
「もう、洗濯物を干すのもしなくていいですからね?」
「ごめんなさい。もっと早く起きます」
「伊織さんの方が準備にかかるんですから、いいですよ」
息がようやく落ち着いた頃、次の駅に着いた。そして、今宮さんが乗ってきてしまった。ああ、そうか。車両を変えなかったからな。
「あ…」
明らかに僕に気が付き、伊織さんの姿も確認すると、今宮さんは思い切り僕らを無視した。ありがたい。
「……邪魔されずに済みましたね」
小声で伊織さんの耳元でそう言うと、伊織さんは苦笑いをした。
伊織さんの前髪があがり、眉毛が見えている。多分、急いで歩いているうちに髪が乱れたのだろう。その前髪を僕がおろしてあげると、今度は恥ずかしそうに俯いた。
「眉毛、見えてましたか?」
「はい」
「う…。髪、ぼさぼさですよね?」
「大丈夫ですよ?」
そう言って、少しだけはねている箇所も手で撫でて直してあげると、伊織さんはもっと照れくさそうにして、
「すみません」
と小声で謝った。
会社までは、伊織さんと幸せを満喫。会社に着き、営業2課に向かう途中で僕は切り替わる。デスクに着く時には、顔は真顔。いや、真顔を通り越し、多分他人から見たら不機嫌そうに見えるかもしれない。
「おはようございます」
課に野田さんや北畠さんが現れる。
「おはようございます」
少しだけ相手の顔を見て、すぐにPCに視線を戻す。デスクに着いた野田さんに、すぐに指示を出す。
そこに塩谷も来て、塩谷にも指示を出し、9時前から仕事を開始する。
「きゃはは!昨日のあれは傑作だったよね」
「笑えたよ~~」
隣の3課の女子社員が大笑いをしながらやってきた。デスクに着いて仕事をするわけでもなく、立ったまま、お喋りを続けようとしている。
「仕事をしている人もいるんですから、静かにしてください。せっかく早くに来たんだから、仕事の準備をしたらどうですか?」
3課の女子社員に向かってそう言うと、思い切り嫌そうな顔をして、
「9時前なんだからいいじゃん」
と小声で言い、二人とも3課から離れて行った。
「ったく…。なんだって、ああなんだろうなあ」
ぼそっとそう言うと、野田さんが苦笑しながら、
「相変わらずですね、主任」
とそう言った。
「的確な注意だと思いますよ。事務職の子は9時から仕事すればいいけど、営業はそうはいかない。第一仕事をしているのも見てわかるはずなのに、その横で大笑いをするなんて」
塩谷が僕を援護するようにそう言った。
「まったくだ。でも、僕以外の人は誰も注意をしない…」
「女子社員に嫌われたくないですからねえ」
野田さんの一言に、僕より塩谷の方が呆れたようだ。
「おはようございます」
そこに、伊織さんが来て席に着いた。最近は、席に来るのも早くなったな。
ちらり。伊織さんが僕を見た。そして恥ずかしそうに視線をそらし、赤くなった。
「おはよう。魚住君、昨日はどうだった?」
南部課長だ。
「はい。うまくいきました。早速、見積もりを出して、今日中にまた○△物産さんと一緒に行ってきます」
「うん。野田君が担当するのかな」
「はい」
「主任、私は?」
野田さんが課長に力強く頷いた横で、慌てたように塩谷が聞いてきた。
「塩谷、そろそろ東京でも一人で動いてみろ。プロジェクトの方も順調に行っているし、新規を見つけてきたらどうだ?」
「……はい。わかりました。早速今日、回ってみます」
昨日とは明らかに塩谷の顔つきは違う。仕事に打ち込んでいる方が、塩谷は生き生きとするしな。今迄は一緒に回っていたが、そろそろ一人で回り始める頃だ。
「魚住君。□□重機さんとの取引、部長にも報告するから報告書をすぐにでも頼むよ」
「はい」
「契約取れたんですね。さすがです、主任」
「ありがとうございます」
北畠さんに言われそうお礼を言うと、
「主任はこんな時でも、クールなんですねえ」
と言われた。
こんな時でもクールって言うのは、どういうことだ?
「にやついたり、喜んだり、自慢したりしないのが主任のいいところね」
小声で北畠さんが、伊織さんにそう言っているのが聞こえてきた。
「え、そうですね」
伊織さんの返答は微妙。そりゃ、そうだ。昨日は契約が取れたと言って、頭を撫でてもらうことを催促した子供みたいな男が、クールなんて言われたら、返答に困るよな。
「家でも仕事の話とかするの?主任と」
「え?!い、いいえ。…あんまり」
北畠さん、変なことを伊織さんにそれ以上聞くな。伊織さんが困り果てているだろ。
「桜川さん」
「はいっ?!」
「すみませんが、コーヒー、ブラックでお願いします」
「はい」
「…今日は主任、家でコーヒー飲まなかったのかしら。いつもコーヒー豆から挽いて、朝、飲んでくるんでしょ?」
また、北畠さんが余計なことを桜川さんに言っている。
「今日は、時間がなくて紅茶を飲んできたんですよ。それより、そろそろ仕事をされてはいかがですか」
伊織さんが返答に困っているようなので、僕がそう北畠さんに答えた。
「あ、すみません」
北畠さんはちょっと驚きながらそう言って、仕事をし始めた。
伊織さんは赤くなりながら、急いでコーヒーを入れに行った。そこにようやく、溝口さんが現れ、毎度のことながら、
「時間、ギリギリですよ」
と、僕が注意をすることになる。
「すみませんでした」
溝口さんは、僕の方を見ようともせずそう答え、パソコンを起動させた。あのでかい態度、なんとかならないものかな。
それに比べ、
「お待たせしました」
と、コーヒーを持ってきた伊織さんが、めちゃくちゃ可愛く見える。
「ありがとうございます」
「はい。あ、あの」
「?」
「お仕事頑張ってください」
微妙に照れながらそう言う伊織さん。胸がキュンっとなったぞ。まいった。
「はい。頑張りますよ。昨日言ったように」
「あ、そ、そうですよね」
赤くなりながら、伊織さんは自分の席に戻って行った。
「何よ、朝からいい雰囲気作っちゃって。もう、会社でも仲のいいところ見せつけちゃって」
「ち、違う。そういうつもりじゃないよ、真広」
「はいはい。見せつけたわけじゃなく、仲いいんだもんね~」
「もう~~」
声にならない声をだし、伊織さんが真っ赤になって両手で顔を隠している。
「ゴホン。溝口さん、からかったりしないように。伊織さんの仕事に支障が出ます」
「すみませんでした~~~~♪」
さっきとは違って、思い切り可愛らしく溝口さんは謝り、にやついた。まったく。周りの課のみんなも、にやつきながら、僕や伊織さんを見ているし。
伊織さんを見ると、PCを必死に見ているが、まだ顔が真っ赤だった。




