第8話 歓迎会 ~伊織編~
月曜日の朝、なんだか会社に行くのがドキドキした。
「おはよう、伊織」
トイレで化粧直しをしていると、珍しく早くに真広がやってきた。
「あれ?どうしたの?早いね」
「うん。噂を聞いてさ、早くに出社してきたんだ」
「噂?」
「知らないの?伊織。伊織もそのために化粧直しをちゃんとしているのかと思ったよ」
そう言いながら真広は、ファンデーションを出して丁寧に塗りだした。
「え?どういうこと?」
「伊織、なんで化粧直しなんて朝からしていたの?」
ギク!主任のために…、なんて言えないし。
「今朝、あんまり化粧しないで出てきちゃったの」
ああ、苦しい言い訳になっているかもしれない。
「ふうん」
良かった。真広、たいして私のことなんか興味ないみたいだ。
「で、噂って何?」
私は話をそらそうとして、興味深そうに聞いてみた。実は、あんまり興味もないんだけど。だって、なんとなく見当はつく。真広が朝から化粧直しをしているってことは、男がらみだ。誰かが移動になって戻ってくるとか、取引先にかっこいい人でもいるとか、そんなところだろう。
「一期下の岸和田君、札幌支店から戻ってきたの。今日から本社に出社だって。それも営業1課!」
「隣の課?」
「同じ課じゃないのは残念だけど、営業部だし、席、わりと近いかも」
「…岸和田君っていったら、なんか、派手な…」
「かなりのイケメンだったよね!札幌支店の女の子の間でも人気あったらしいし。楽しみだなあ」
やっぱりね。そういうことだとは思ったけど。あれ?でも真広、顔がいいだけの男は嫌いなんじゃないっけ?この前、そんなこと言っていたよね。
「一期下でも、一浪して大学入ったらしいから、タメだよ」
「ふうん」
「ふうんって、興味ないの?あ、そっか。伊織はイケメン好きってわけでもなかったっけね」
うん。この前は真広に話を合わせてそんなこと言っちゃったけど。でも、真広もイケメン好きなら隠すこともないかな。
「そうでもない。整った顔好きだよ。でも、派手な人はあんまり好きじゃないかも」
「派手って言っても、今時のスーツ着こなして、ちょっと髪型が今時の若者って感じなだけで、別にそんな派手なわけじゃ…」
「遊びも派手だって聞いたけど」
「ああ、飲みに行ったり、ダーツに行ったり、カラオケ行ったり?そのくらいしてもいいんじゃないの?遊ばない仕事人間よりましだよ。主任みたいな仕事人はきっと趣味が仕事だよね」
そう言うと真広は、ああ、やだやだと言いながら口紅を出して塗りだした。
「きっと結婚とか考えてないよね」
「ないない!だって、仕事人間なんだから」
「主任じゃなくて、岸和田君。婚活するなら岸和田君は、ターゲットから外すかな」
「あ、そっか。まあ、そうだよね」
真広はそう言うと、口紅をポーチにしまった。
「ま、婚活は婚活。イケメンはイケメンで楽しみましょ」
どういう意味だ。
「真広の場合、結婚相手に何を求める?条件ってある?」
トイレから出て、ロッカー室に向かう間、真広にそんな質問をしてみた。
「あるよ。やっぱり、年収はいいほうがいいし、頼れる人がいいし。できれば次男。すでに家持ち。車持ち。将来有望株がいいね」
「有望株?主任とか?」
「やめてよ~~~。なんだって、そうなるわけ?ああいう堅物なんか、絶対に嫌。条件のうちの一つ、優しいっていうのに当てはまってないし」
さっきは言わなかったじゃない、優しいなんて。
「じゃ、伊織はどうなの?」
「私?」
しばらく考え込んだ。そして、ロッカー室に入ってから、
「私の女子力の無さをカバーしてくれる人かなあ」
と呟いた。
「伊織ってよくそれ言うよね。女子力ないって」
「うん。ないんだもん。料理できないし、家事全般があまり得意じゃないし」
「あるじゃない。野菜育て」
「それ、家事じゃないよね?女子力のうちに入らないでしょ?」
「まあね。それも、作った野菜、サラダにしかできないしね」
「だから、料理や家事が得意な人がいいなあ」
「主夫になってくれる人?伊織が稼ぐの?」
「それも無理。私ができることなんて、野菜づくりとアレンジくらい」
「いいじゃん。フラワーアレンジの先生」
「うん。でも、たいした稼ぎにはならないでしょ?趣味に毛が生えた程度だよ。だけど、そういうことをするのを許してくれて、家事をしてくれて、稼ぎも良くて…なんて、男の人いないかなあ。女子力なくてもいいよって言ってくれる寛大な人」
「あはは。いない、いない。そんな人いないって。男なんて、家事や料理をしてくれる人がいいに決まってるじゃん。それも、料理好きなほうがいいに決まってる。だから、妹さんはモテるんでしょ?」
「その通りで…」
「私も、料理教室通おうかと思っているし」
「まじで?真広が?」
「うん。真剣に婚活するつもりだしね」
そんなこと言ってる人が、イケメンが戻ってくるって聞いて喜んでいるのか~~?
ロッカーに化粧ポーチを仕舞い込み、私たちは席に向かった。
「いないかなあ。私の理想の人」
「いない、いない」
真広が笑いながらそう言った。
あ、主任もう来てた。ドキドキ。緊張しちゃう。そんな緊張する必要なんかないのに。
「お、おはようございます」
私は席に座る前に主任に挨拶をした。主任は涼しげに顔を上げ、
「おはようございます」
とクールに返してきた。
とっても、クールだ。
私は席に着いた。真広はとっとと挨拶もせず席に座っていた。
「あ!」
「え?何?」
席に座った途端、私は思わず声を上げ、目の前にいる真広を驚かせてしまった。
「何?伊織」
「なんでもない。ちょっと、家の鍵閉めたか気になっただけ。でも、思い出した。ちゃんと閉めてた」
そう苦しい嘘をつき、てへへと笑って誤魔化した。
「なんだ~~。驚かせないで」
真広はそう言うと、パソコンの電源を入れた。
「あるわよねえ、そういうのって。私なんて最近しょっちゅう気になっちゃって」
私の嘘を真面目に受け止め、隣の席の北畠さんがそう言った。
「あ、ありますよね?えへへ」
私もなんとか話を合わせた。
でも、私が「あ!」と叫んだ理由はそんなことではない。気が付いてしまったのだ。私の理想の旦那様。まさに、主任じゃないかって!
稼ぎもいい。料理や家事が得意。私に女子力がなくても、主任なら受け止めてくれるかもしれない。それに、私がフラワーアレンジの先生をするのだって、応援してくれそうだし、野菜なんて一緒に育ててくれるじゃないかっ!
すっご~~~~~~い!!それも、顔も姿かたちも、服のセンスまで私好みだよ?!
なんて思っていたら、ドキドキして顔が熱くなった。そしてそれからは、もっと主任のことを意識しだしてしまった。
主任の好みの女性ってどんな人かな。髪が長いほうがいい?短いほう?痩せてる人?グラマラスな人?
大人しい人?元気な人?大人な女性?可愛い子?
主任は…、結婚願望ってあるのかな。
……。なさそうだな。なんでも自分でできちゃったら、結婚する必要もないか。
なんて、勝手に自己完結して落ち込んだりもした。相当アホだな、私は。
意識して、ドキドキしながら仕事をしていた。そして、
「あああっ!」
と、大きなミスをしてしまった。
「今度は何?伊織」
「け、消しちゃった。どうしよう…。大事なデータ」
「え?」
「どうかしましたか?桜川さん」
ドキーーッ!
どうしよう。大変なミスをして、それを主任にばれてしまった。
「あ、あの。今入れたデータ、全部消してしまって」
「ああ、これですか?」
主任は私の横に来て、パソコン画面を覗いた。そして、
「ちょっといいですか?」
と、私の顔のすぐ横に顔を持ってきて、パソコンのキーを打ち出した。
か、顔、近い。近すぎる。ちょっと動いただけでも、主任の頬に私の唇が触れそうだ。
わあああ。ドキドキ、バクバク、ドキドキ、バクバク。
「はい。直りましたよ」
「え?」
「このくらいで、悲鳴あげないでくださいね、桜川さん」
「あ、は、はい。すみませんでした」
恥ずかしいやら、ときめきやらで、顔が熱い。きっと真っ赤だ。頭から湯気が上ったかもしれない。そんなことを思いつつ、ちらっと主任を見た。すると、主任の口元は緩み、くすっと笑っていた。
笑ってる。呆れた?ううん。いつもの優しい微笑だった。
バカやって、呆れたか、怒ったかと思ったのに。
ダメだ。さらに主任を意識してしまう。やばい。こんなじゃ、真広に変に思われる。落ち着いて、私。
小さく深呼吸をした。それから、
「ドジっちゃった」
と真広に言うと、
「怒られなくて良かったじゃん。でも、嫌味言われちゃったね」
と小声で真広はそう言った。
嫌味?なんか主任言ったっけ?あ、もしかして「これくらいで、悲鳴あげないでくださいね」ってやつ?でも、あれって、主任の可愛いジョークだよね。真広には嫌味に聞こえたのかな。
「それより、この席からばっちり見えちゃう。目の保養になる」
「え?」
「岸和田君よ。2年前よりさらにかっこよくなってる」
そう言って真広はうっとりとした目で私の後方を眺めた。
私も後ろを見てみた。ああ、本当だ。真広の席からばっちり見える位置にいる。でも、さらにかっこよくなってるかなあ。どう見ても、キザ男。ホストにでもなれそう。あれは絶対にナルシストだ。どうだ、俺ってかっこいいだろ…的な雰囲気を漂わせている。そんな男のどこがいいんだか。
「ね、かっこいいよね」
また真広が小声で言うと、
「私の趣味じゃないわ」
と、北畠さんがなぜか答えた。
「え?イケメンじゃないですか?」
「ああいうのは、イケメンとは言わないわ。主任のほうがずっとかっこいいわよ」
北畠さん!私、同意見です!と、真広の前では言えない。だって、今、ものすっごい変顔を真広はしているし。
「北畠さんって趣味わる~~~」
ほらね。もし、私も主任のほうがかっこいいって言ってたら、真広に呆れられてたところだ。
「男見る目ないですよ」
「そうかしら。私からしてみたら、よっぽど溝口さんのほうが男見る目ないと思うけど」
わ、言っちゃったよ、北畠さん。でも、私もそう思う。
確かに、主任はけっこうきついことも言うし、細かいかもしれない。でも、仕事に関してだけだし、それだけ仕事熱心だってことなわけだし。時折見せる「くす」って笑うところとか、いろんなことに気づけるきめ細やかな性格とか、優しさとか、そういうのに触れたらきっと、真広だって主任を好きになるかもしれない。
あ、ってことは、気づかないほうがいいってことか。真広がライバルになるのは嫌だもんね。
岸和田君は、あっという間に営業部の人気者になった。主任が静なら、岸和田君は動。主任がクールなら、岸和田君はホット。そんな対照的な二人だ。
そして、主任が真面目なら、岸和田君は「不真面目」。なんだってこんな人が、たった数年で本社に戻れたのか不思議でしょうがない。
その週の金曜、フラワーアレンジ教室は休みになった。というのも、営業部で歓迎会が行われたからだ。
隣のビルの地下にあるレストランに移動して、営業部、総勢40人が集結した。営業部は1課から4課まである。今日は、主任と岸和田君の歓迎会だ。
営業部のイベントごとは、よくこのレストランの宴会場を使う。たいていが、立席パーティ形式で、会場の隅に椅子が並び、おじさん連中やお局OLはそこに座って飲んでいる。
会が始まった。まず、部長の挨拶があり、主任と岸和田君を紹介した。それから主任は、
「今後もよろしくお願いします」
と、ものすごく簡単な挨拶をして、岸和田君は、
「どうも!本社に舞い戻ってきました。営業部は社内での花型、目立つ課なので、ものすっごく張り切ってます。よろしくお願いします」
と、くだけた挨拶をかましてくれた。
「岸和田君、札幌支店にいたんだよね。向こうはどうだった?」
私を引き連れ、早速真広は岸和田君に話しかけに行った。
「冬は寒かった。やっぱ、東京がいいね。それに、本社は美人ぞろいだしね」
なんつう回答だ。寒かったって、そんな感想だけ?
「美人ぞろい?まさか、もう目につけている人がいるとか~~?」
真広はからかうように岸和田君にそう言いながら、手にしているビールをググッと飲んだ。
「あ、飲みっぷりいいね。溝口さん…だっけ?」
「あ、覚えてくれてるんだ」
「そりゃもう、綺麗な人はちゃんと覚えるよ。一期先輩。でも、同じ年だから敬語使わないでもいいよね?」
「うん。全然いいよ」
いいの?一応先輩だけど?でも、真広、「綺麗」って言われて浮かれたようだしなあ。
隣にいる私のことは無視しているなあ。きっと名前も覚えていないでしょ?まあ、いいけどね。
それより、私は主任のところに行きたい。主任はさっきから部長に掴まってる。
「あの人、若いのにもう主任になったって噂の『魚住さん』って、部長のお気に入りなわけ?」
突然、主任のほうを見ていた私に岸和田君が聞いてきた。
「え?」
びっくりした。でも、すぐに岸和田君に、
「そうなの。きっと部長にゴマすってるのよ。仕事人間で、出世を狙っているのが丸わかりだもの」
と、私と岸和田君の間に入り込み、真広がそう答えた。
「へえ。なんか、悲しいねえ。きっと仕事しか生き甲斐がないんだろうね」
「うんうん。一生独身かもね」
「俺はああはなりたくないね。人生いろいろと楽しまなくちゃ」
「だよね?」
岸和田君の言葉に真広は大きな声で返事した。そんなこと言って、真広だってそろそろ真面目に婚活するんでしょ?楽しんでいるばかりじゃないでしょ。
「岸和田君は結婚願望は?」
「30歳過ぎたら考える」
「そうなの~~?そんな先?」
「え?そんなもんじゃないの?それまでは気軽に楽しまなきゃ損だって」
「だよね~~?」
おい。真広。30まで独身でいる気?婚活する気満々だった人が何言ってるの?まったく。岸和田君に必死に話を合わせているのが見え見えだってば。
まあ、いいけどさ。岸和田君がいくつで結婚したいかなんて、私にはどうでもいい。それより、主任だ。主任はどうなの?結婚願望ある?
ちらっと主任を見てみると、なんと、北畠さんが横にへばりついているじゃないかっ。それも、なんかラブラブオーラ出してるよ。どうしよう。
「あ、そうだ。私、今日のこと謝ってこようかな」
「何が?」
いきなり私がそう言うと、真広が不思議そうに聞いてきた。
「主任に、今日ヘマしたこと謝ってきたほうがいいよね」
「え~~?そんなのどうでもいいじゃん。主任になんだってゴマ摩らなきゃならないの?主任なんかにどう思われたっていいじゃん」
「あはは。溝口さん、もしや魚住さんが嫌いとか?」
「大っ嫌い。小姑みたいにうるさいし、会社に来るのあの人のせいで一気に嫌になったんだから」
「へえ、それは気の毒に。でも、直の上司だよね?」
「そうなのよ。最悪」
ぶつくさと真広は主任の悪口を、岸和田君に言いだした。岸和田君は、にこにこしながら真広の愚痴を聞いてあげている。
真広と岸和田君が話し込んでいるすきに、私はトイレに行った。そして、戻ってくると、主任がみんなから離れたところにぽつんと立って、静かにビールを飲んでいるのを見つけた。
北畠さんは?きょろきょろと探してみると、4課のお局OLさんに掴まっていた。
これは、チャンス!主任、目立たないところにいるし、真広がいるところから遠いし、主任と二人きりで話していても気づかれないかも。
ドキドキしながら主任に近づいた。なんて話しかけよう。やっぱり、今日のことを謝るか。あ、まずはビールのおかわりは入りますか?とか聞いてみるか。うんうん。気が利く女性だってアピールしておかないと。
いや、ここはすでに、ビールを持って行った方がいいかな。主任のグラス、あとちょっとしかビール入っていないし。と思い立ち、テーブルにあった新しいグラスにビールを注ぎ、主任に近づいた。
「あの、ビールのおかわりはどうですか?」
静かに佇んでいる主任に声をかけた。
「あ、すみません。それって、ノンアルコールビールですか?」
「いえ。普通のビールですけど」
「僕はお酒苦手なんで、ノンアルコールを飲んでいたんです」
「そうなんですか?すみません」
「いえ。いいですよ。それは桜川さんが飲んでください」
ああ。気が利くどころか、気が利かない女になっているかもしれない。
ノンアルコールビールの瓶はないかと、テーブルの上を必死に目だけで探していると、
「桜川さんは、お酒強いんですか?」
と聞かれてしまった。
「私ですか?そ、そうでもないです」
「あ、そうなんですか?昼間っからビール飲んでいたし、強いのかと思いました」
う…。主任には私は呑兵衛ってイメージがついちゃっているんだな。ショック。
「そんなにいっつも飲んでいるわけじゃないんです」
と言ってから、あれ?でも、ほとんど毎日夜はビールひと缶開けていることを思い出し、嘘をついているような気分になり気が引けた。
「そうですか」
主任はただそれだけ言って、黙り込んでしまった。ああ、話題。話題を変えよう。あ、そうだった。
「今日はすみませんでした。ミスしてしまって」
「ああ、あんなの、すぐに直せるし大丈夫ですよ。もう、へましても一人で直せますよね?」
「はい。すみません。大げさに騒いだりして」
「いいえ」
主任は一言そう言うと、また黙り込んでしまった。
気まずい。思わず手にしていたビールをゴクゴクと飲んだ。
もしかして、私、邪魔?主任、一人でいたかった?
なんとなく気まずい空気の中、私はただひたすらビールを飲んだ。




