第73話 やきもち ~佑編~
伊織さんが肩をすぼめて小さくなっている。言い合うつもりなんてなかった。
「伊織さん」
ベッドの上でちょこんと座り、小さくなっている伊織さんの手を握った。伊織さんは僕の顔を恐る恐る見た。
「塩谷は、大事な部下ですが、恋愛感情が持てません。部下以上には思えないんです。他の男性社員と同じように接してきたし、それ以上には思うことができないんです」
「……」
「最初、伊織さんに対してもそうだと思っていましたが」
「え?」
「大事な部下だから伊織さんのことが気になったり、心配になったり」
「塩谷さんと私とって、どう違いがあるんですか?」
「…違い?」
そりゃあ、伊織さんには恋愛感情をしっかりと持っている。
「ごめんなさい。変なこと聞いちゃって。でも、私にはずっと敬語だし、塩谷さんにはいつもくだけた口調だし、もっとずっと親しげっていうか、親密な感じがしてて。同じ部下でも佑さんは塩谷さんのことをずっと可愛がってて、信頼しててって、そんなふうに見えちゃって」
「僕が塩谷に対して、そう見えるんですか?」
「すみません。私が勝手にそう思っているだけかも」
「いいえ。そのとおりです」
そう言うと、伊織さんの表情がまた曇った。
「名古屋では塩谷以外にも部下がいました。でも、一番僕になついていたし、信頼してついてきてくれていたし、頑張って成果もあげてくれていました。だから、多分部下の中では一番可愛がっていたと思います」
あ、さらに顔が暗くなってる。
「でも、部下としてですよ?」
「……」
伊織さんはとうとう、俯いて無言になってしまった。きっと、塩谷のことを大事だと言って落ち込んだんだな…。
「東京に来て、伊織さんも僕のために一生懸命仕事をしてくれているのを感じて、やっぱり嬉しかったんです」
「私が?」
あ、顔を上げてくれた。
「はい。僕に好意を持ってくれていると感じて、嬉しかったですよ。特に溝口さんと比べたら…。溝口さんは僕を嫌っているのが見てわかりましたし、そりゃ、好意を持ってくれている部下の方が可愛いに決まっているじゃないですか」
「はあ」
「だから、僕も最初は、塩谷のように伊織さんも部下として可愛いんだと思っていたんです」
「……」
「風邪引いて寝込んだと聞いて、すごく心配になったり、ミスをした時にも必死でフォローしたり。そういうことをしている自分は、伊織さんが可愛い部下だからとそうしているんだと、そう思い込んでいたんです」
そう言うと伊織さんは、じっと僕を見つめてきた。
「ですが、伊織さんと塩谷とではまったく違うことがあったんです」
「違う…こと?」
「はい。塩谷が他の男と付き合ったり、デートしたりしても、ああ、良かったなと思うだけですが、伊織さんだったら、ものすごく僕はその男に嫉妬します」
「え?」
「東佐野のことも嫉妬したし、お見合いパーティで知り合ったという、あのギラついてた男のことも嫉妬しました。伊織さんの肩を抱いたりしていて、本当にムカついたんです。そういうの、多分塩谷に対しては嫉妬なんかしないと思いますよ。逆に、彼氏ができてよかったなと祝福します」
「…東佐野さんにも、嫉妬していたんですか?」
「していましたよ。勝手に見舞いに行ったり、一緒に二人で飲んだりしたり、手なんか出していないだろうなって気が気じゃなかったし」
なんで驚いた顔をしているんだ?まったく。僕が東佐野に嫉妬しているなんて思っていなかったのか。
「塩谷も男性として好きっていうよりも、自分を認めてくれた上司だから僕に好意を持っているんだと思います」
「……」
「女性として扱っていたら、あいつはこれほど僕になついていなかったと思うし、男性と同じように評価をしていたから、僕のことを信頼していると思いますよ」
「…そうか。そうですね。塩谷さんって女性扱いされるのを嫌がりそうですね」
「ずっとあいつは、男よりも仕事を頑張って認めてもらうんだと息巻いていましたからね」
「それで、佑さんは塩谷さんのことを認めているんですね」
「そうですね」
「…いいな」
いいな?塩谷を羨ましがっているのか?
「伊織さんも仕事を頑張ったのなら、ちゃんと認めますよ?退職するのをやめて、総合職になりますか?」
「無理です。そんなの」
伊織さんは慌てたように首を横に振った。
「あいつは、そろそろ独り立ちをしていかないとならない時期ですね」
「独り立ち?」
「いつまでも僕にくっついていないで、いずれあいつにも部下ができるんだから、一人でもやっていけるようにならないと」
「塩谷さん、佑さんから離れたくないんじゃ…」
「そんなこと言ってて、一人前になれないでしょう」
「でもっ。私も離れたくないし」
「は?」
何を言い出したんだ。
「一人前になれないけど、でも」
「何を言ってるんですか?」
ったく。離すわけないだろ。そう思いながら、僕は伊織さんをギュッと抱きしめた。
「伊織さんは僕の奥さんになるんです。ずっと離したりしませんよ?独り立ちをしなくてもいいし、僕の隣にずうっといて下さい」
「え?あ、は、はい」
「離れたいって言っても離しませんから」
「は、離れたいなんて言いません」
「本当に?」
「はい」
「じゃあ、もう塩谷にヤキモチ妬かないですね?」
伊織さんの目をじっと見つめそう聞いてみた。
「はい」
「じゃあ、塩谷の話はこれで打ち切りでいいですね?」
「はい」
ちょっと涙目になってる。くす、可愛い。そんな伊織さんにキスをすると、胸の鼓動が早く鳴った。やばいな。
「このまま、押し倒したいくらいなんですが」
「え?」
「明日の仕事に差し支えると困るので、なんとか我慢します」
「…は、はい」
ベッドに潜り込むと、伊織さんから僕の胸に顔をうずめてきた。小さな肩、フワフワの髪。ギュッと抱きしめると甘い香りがした。
塩谷に、やきもちを妬いていたってことだよな。
本当に全然、違うのにな。塩谷に対しての思いとは全然…。
だから、最初はものすごく戸惑っていたのに。
苦手だと思っていたのに、どんどん気になる存在になって、何かあると心配で、一緒にいるとあったかくて…。
こうやって抱きしめていると、胸が思い切り満たされて…。
知らぬ間に僕は眠っていた。そして朝になると、隣ですやすやと寝ている可愛い伊織さんの寝顔を見てほっとする。また、あったかい気持ちになる。
ああ、幸せだよなあ…と、つくづく思う。
今朝もまた、伊織さんは慌てながら支度をしていた。でも、出る時間にはしっかりと間に合い、一緒にマンションを出た。
「あの、朝、すみません。洗濯ものも干せないし、なんにも手伝えなくて」
「いいですよ。でも、あと10分くらい早く起こしたほうがいいですか?」
そう聞くと、なぜか伊織さんは真っ赤になり、
「すみません!ちゃんと自分で起きます」
と言い出した。
「え?いえ。起こしますよ?大丈夫です。そんなに気にしないでも」
「う…」
う?
「呆れてますよね、佑さん」
呆れている?いやいや。呆れてもいないし、そんなことも言っていないし。
「なんか、朝から落ち込んじゃって」
「自己嫌悪ですか?また」
「え?いえいえ。そのっ」
「レッドカードですね」
そう言うと伊織さんは、ぴくっと体を固まらせた。
「ここでは襲いませんよ?」
「そそそ、それはわかっています」
「くす」
なんだってそんなに、慌てているんだか。
おかしくて笑いながら、僕は伊織さんの手を取った。伊織さんの手は冷たかった。でも、僕と手を繋いでいる間にどんどんあったかくなっていった。
夜寝る時も、ベッドに入ってすぐだと伊織さんの足は冷たい。そして、僕の足にくっつけている間にあたたまっていく。たったそれだけのことでも、愛しく感じてしまう。
会社までの道、時々伊織さんは恥ずかしそうな顔をする。でも、嬉しそうだ。そんな伊織さんの表情が可愛い。伊織さんの表情を見逃さないように、ずっと伊織さんを見ながら僕は会社まで行った。
会社では、僕のことを見てくれなくなるし、遠ざけるもんなあ。けっこう、寂しいものがあるんだよな。
営業2課に着き、僕はいつものようにデスクに着いた。北畠さんに、
「おはようございます」
といつものように挨拶をされ、野田さんも眠たそうな顔をしてやってきて、デスクに着いた。
「ふあ~~」
ん?野田さん、本当に眠たそうだな。大あくびをしたぞ。
「眠そうですね」
「すみません。寝不足なんですよ。最近、子供が夜泣きしちゃって大変なんです」
「あ~~、夜泣きですか」
「なかなか泣き止まないから、昨日は夜中にドライブしましたよ」
「夜中に?」
「車に乗ると泣き止んで、寝てくれるんです」
うわ。そりゃ、大変だ。
「奥さんも、へとへとになっちゃっていて。二人でダウンするわけにもいかないですからね。昨日は僕が車で連れ出しました」
「子育ても、大変ですね」
「大変ですよ。体力もいりますしね。若いうちに子供作ったほうがいいですよ」
「そうですね…」
そんな会話をしているうちに、伊織さんは静かに席に着いていた。おはようございますと言う声すら聞こえてこなかった。
そのうちに、課のみんなが出社した。時刻は8時55分。最後にようやく溝口さんが来て…、いや、塩谷がまだだ。
「北畠さん、塩谷からなにか連絡入っていますか?」
「え?いいえ」
「…桜川さんも連絡受けていないですか?」
「はい」
「……」
あいつ!あんな時間まで飲んだりしているから遅刻か?それとも、まさかあのまま泊まったのか?
バタバタという足音が聞こえ、
「すみません」
と、9時を3分過ぎ塩谷が走ってきた。息を切らし、髪が乱れ、コートの襟もひっくり返っている。
「塩谷!遅刻だ!!」
「すみませんでした」
塩谷がぺこりと謝り顔を上げると、塩谷の顔色が悪いことに課のみんなが気が付いた。
「二日酔いか?」
「いいえ。大丈夫です」
「大丈夫って顔じゃないだろ。酷い顔しているぞ」
「え?」
一瞬、塩谷の動きが止まった。コートを脱ぎかけて、
「あ、すみません。やっぱり、少し気持ち悪いのでトイレに行ってきます」
と、そそくさとコートを着たまま、トイレに行ってしまった。
「二日酔いだな、あれは」
ぼそっとそう呆れながら言うと、隣で野田さんが、
「塩谷さんの服、昨日と一緒でしたね」
と小声で僕に言ってきた。
「……そうでしたか?でも、毎日ほとんど、あのスーツですよね?あいつは」
「いえ。ブラウスですよ。ブラウスが一緒でした」
え?ブラウスが一緒かどうかなんて、そんなことまでわかるのか?そんな細かいところまで見ていないぞ、僕は。
「野田さん、そんなところまでチェックしているの?怖いわ~」
そう言ったのは北畠さんだ。いやいや、北畠さんはお泊りなんてないだろ…という顔を野田さんがした。でも、僕には北畠さんより、その隣で青ざめている伊織さんの方が気になった。
なんであんなに、びっくりした顔をしているんだ?
「女性社員の服まで見ているなんて、細かいんですね、野田さんは」
そう言ったのは、溝口さんだ。
「そうですか?見ている男性社員多いと思いますけど。それで、あ、なんか派手になってきたから彼氏出来たかなとか、男が変わったかなとか、そういうチェックを入れているんじゃないですか。多分、独身男性はさらにチェック入れていると思いますよ。ねえ?主任」
「いえ。僕はそういうのどうでもいいので、気にしていませんが」
「え?本当に?桜川さんの服が今日はいつもと違う。まさかデートか?とか、気になっていませんでしたか?」
野田さんの言葉に、僕はちらっと伊織さんを見た。あ、焦ったような顔をしている。
「別に、気にならないですよ。っていうか、今日も桜川さんの服、僕が選んだし…」
ドヨッ!!
今、明らかに課のみんながどよめいた。それに、伊織さんは真っ赤になっているし。
「そうなんですか…。あ、そうじゃなくってですね。一緒に住む前ですよ。まだ付き合う前の話ですって」
「ああ…、その頃は…」
いや。北畠さんが日に日に派手になっているのが、多少気になったが、伊織さんは、別にいつも同じ感じだったよなあ。
「別に…」
いや。待てよ。もし、同じ服なんか着てこられた日には、気が気じゃなかったかもしれないよな。なんて、そんなことを考えていると、塩谷が戻ってきた。少し落ち着いた感じで、コートを脱いで席に座った。
「塩谷、もう大丈夫なのか?」
「はい」
「仕事、ちゃんとできるんだよな?」
「はい」
塩谷の服はもう乱れていなかった。だが、どことなく襟がよれているような気がする。いつも、もっとビシッとアイロンがかかっていたよな。
あ、そうか。ブラウスが昨日と同じだからか。……っていうことは、泊りってことか?帰れって言ったのに?




