第72話 家では ~伊織編~
お弁当を食べ終え、真広とトイレに行った。化粧直しをなぜか今日、真広は手を抜いている。
「ねえ、家ではすっぴんなの?」
「え?私?う、うん」
「私、まだ岸和田にすっぴんってあんまり見せていないんだよね」
「お泊りしなかったっけ?」
「寝る直前に化粧を落として、朝も早くに起きて化粧したからさ。だって、眉毛薄いし、マスカラもないと、顔が貧相になるんだよね」
「そうかな。目、大きいじゃない」
「伊織はいつも、薄化粧だから、すっぴんでも変わらないか。それとも、主任なんか言う?」
すっぴん可愛いから、休みの日はすっぴんでいて下さいと言われたような…。
「特に何も」
まさか、可愛いと言われたなんて言えないよね。
「今日から岸和田出張なの。だから、気合入っていないわけ。伊織は、化粧そんなに濃くしないんだね」
だって、すっぴんが可愛いって言われたから、濃くできない。
「う、うん。なんとなく、頑張ってる感を出すのもなあって」
「ふうん」
そうか。真広は泊まると早起きなんだ。私なんて、主任より先に起きたことがあったかどうか。
1時5分前、席に着いた。今日は佑さんとなるべく顔を合わせない、近づかないと決めたので、見たいけど佑さんの方を見ないようぐっと我慢した。
だって、もし目があったら、絶対に顔が赤くなるよ。
佑さんは、今日どこにも行かないんだな。ずっとデスクにいる。あ、しまった。今日締めですぐに送らないとならない請求書があった。
請求書にハンコをもらいに、ドキドキしながら佑さんの席まで行った。
「主任、ハンコお願いします」
デスクの上に置こうかと思うと、
「ああ、はい。すぐに押せますので待ってて下さい」
と手を出してきた。
ドキドキ。また触れないようにと気を付けながら手渡して、ほんのちょっと距離を取って待っていた。
ああ、後姿も素敵!本当はYシャツ姿が好き。肩幅や肩甲骨の動きまでわかるから。でも、スーツ姿も素敵。
ドキドキする。
「はい」
ふっと後ろを向き、佑さんが書類を私に手渡した。その時、ばっちり目が合ってしまった。
きゃあ。なんか、目が合うだけでも胸がときめいちゃう。
私、変だよ。絶対に変だ。
デスクに着いてからも、私は顔を火照らせていた。すると、
「大丈夫ですか?熱でもありますか?」
と、突然耳の近くで佑さんの声がした。
「ひゃ!」
いつの間に後ろにいたの?
「だだ、大丈夫です」
「驚かせてすみません」
「いいえっ」
佑さんの顔を見てまた顔が茹で上がった。ああ、やばい。佑さんを意識しないようにしないと。
「コーヒー、入れてきます。伊織さんも飲みますか?」
「いいえっ。あ、はいっ。やっぱり、飲みます」
ドキドキしちゃうけど、一緒について行きたくなってそう言ってしまった。
でも、きっと佑さんも変だって思っているよね。やばいよね。これ以上変って思われないよう、近づかないようにしないと。
佑さんはコーヒーメーカーにコーヒーをセットし終えると、くるりとこっちを向いた。あわわ。今も背中に見惚れてた。慌てて下を向くと、
「伊織さん?どうしたんですか?」
と近づいてきた。
ダメダメ。近づいちゃ。
「伊織さん?」
一歩退くと、今度は顔を近づけてきた。うわあ。
「顔、近いです」
思わず手で佑さんの胸を押した。でも、触っちゃっただけでもっとドキドキしてしまった。
ああ、佑さんの匂いがする。ドキドキする。私、変だ。
「ダメです。今日変なんです。でも、失敗しないよう頑張っている最中で」
口からそんな言葉が勝手に出てきた。
「やっぱり、どこか具合でも悪いんですか?」
「はい。胸が」
「え?」
「ドキドキしちゃうし、疼いちゃうし」
「は?」
「佑さん、近寄ると佑さんの匂いがするんです」
「え?なんか、臭いですか?」
「いいえ。シャンプーか、石鹸の匂いだと思うんですけど。でも、それを嗅ぐと、思い出しちゃって」
「え?」
「だって、3日間、ずっとべったりだったし。その時のこと脳裏に浮かんじゃって、仕事どころじゃないし、ドキドキしちゃうし」
「そうですか…」
佑さん、呆れた?でも、ここは正直に聞いてみる?もっと呆れちゃうかな。
「わ、わ、私ってもしかして」
ドキドキ。
「変態ですか?」
「え?」
ぶぷ!
あ、笑われた。
「あはは。なんですか、それ」
「だだ、だって」
やっぱり、思い切り呆れられた。言わなきゃよかった。
「ああ、やばいなあ。確かに近づくとダメですね」
そう言うと佑さんは、ほんのちょっと後ろに下がった。もしや、変態なんて言って避けられてるの?
「今すぐ抱きしめたくなる」
「は?」
「伊織さん、可愛い。キスもしたくなる」
ドキ!!!わあ。佑さん、目が熱くなってる。呆れているんじゃないんだ。ど、どうしよう。
「しませんよ。ここでは」
私が後ろに何歩か下がると、佑さんはそう言ってコーヒーを注いだ。
えっと。ここではっていうのはあれだよね。会社ではっていうことだよね?
「はい。コーヒー入りましたよ」
「ありがとうございます」
コーヒーを取りに佑さんの方に歩み寄ると、佑さんも私のすぐ隣に来て顔を近づけてきた。
「大丈夫です。伊織さんが可愛くて抱きしめたくなったり、疼いたり僕もしていますから。僕も十分変態です」
ええ?!
ドキーーッ!!!!
「どどど、どうしてそんなこと、会社で言うんですか?」
「あはは。先に席に戻っています。コーヒー、熱いから気を付けて下さいね」
「はひ」
なんかもう、頭までクラクラする。口も回らなくなってる。
結局その日、佑さんの顔を見ることも出来ず、ひたすらPCに向かい合った。なんとなく、課のみんなが私を見てにやついていた。私がきっと赤くなったり、変だからだよね。
「はあ、疲れた」
仕事に集中しようと頑張ったので、終業時間にはすっかり疲れ果てていた。
「お疲れ様。仕事終わりましたか?」
ドキッ!いつの間にまた後ろにいたの?
「は、はい。終わりました。主任は?」
「僕も終わりましたよ。今日は外出もなかったので、集中して仕事に打ち込めました。じゃあ、帰りましょうか?」
「はい」
「お疲れ様でした~~。伊織、また明日ね」
「うん。お先にね」
真広は残業らしい。あれ?そう言えば、真広が残るのに上司である佑さんが帰っちゃっていいの?
「あの、真広を残していいんでしょうか?」
「はい。南部課長が残業するそうですよ」
「え?」
「塚本さんの引継ぎの件とか、いろいろと忙しいらしいので。南部課長が残っているから、僕は先に帰れるってわけです」
「……」
いいのかな。私のために。
「なんか、不服ですか?」
「いえ、そういうわけじゃなくて」
「僕は一緒に帰りたいんですが」
ドキ!
「そ、それは私もです」
慌ててロッカールームに行き、また小走りにエレベーターホールに行った。
エレベーターは他の社員もいたから、話もせず、ちょっと離れて乗っていた。1階に着き、駅までの道もなんとなく距離をとって歩いた。電車を待っている時にも、ちょっと隙間を開けた。
でも、電車に乗り込むと混んでいて、べったり佑さんにくっついてしまい、一気に佑さんの匂いや温もりに包まれ、また心臓が暴れ出した。
だけど、こんなに近づけて嬉しい。
「夕飯、どうしましょうか」
「え、はい」
夕飯のことなんか、すっ飛んで行ってた。それに、いつの間にか、私の腰に回している佑さんの腕が気になっちゃって。
ドキドキ。ダメだ。思わず私もベタッと佑さんに引っ付いてしまった。
ああ、幸せだ。嬉しいよ~~~。
必死に見ないようにしたり、近づかないようにしていたから、禁断症状でも出ていたんじゃない?べったりくっついて、離れられなくなったかも。
「伊織さん?」
「はい?」
ドキ。顔、覗き込んできた。
「もしかして、解禁ですか?」
「は?」
「会社から出たら、解禁なんですね?」
「え?」
「僕に近づくの…。もういいんですよね?」
「あ、えっと、はい」
ひゃあ。いきなりこんなにべったりくっついたから、そんなこと言ってきたのかな。
「それはよかった。目も合わせてくれないし、けっこう寂しかったですよ」
え?
「家に帰ったら、もっとべったりして下さいね」
きゃ~~。耳元で囁かれてしまった。
佑さんって時々、こういうことを平気で言う。こっちが照れる。でも嬉しい。
スーパーで食材を買い、マンションまで帰った。手は繋げなかった。右手にカバン、左手にスーパーの袋を佑さんが持っていたから。
マンションに着き、冷蔵庫に食材を佑さんは入れた。私はすぐに洗濯物を取り込んだ。佑さんは、お風呂を綺麗にしに行っている。そして、リビングで洗濯物を畳んでいる私のところまで来ると、後ろから抱きしめてきた。
ドキ!スーツの上着も脱いでいるから、佑さんの温もりが背中にしっかりと感じられる。それがやけに嬉しい。でも、ドキドキする。
「離れたくないなあ」
「え?」
「このまま、しばらく伊織さんを感じていたいなあ」
ドキン。それは私だって。
「今もドキドキしていますか?」
「はい」
「でも、くっついていていいですか?」
「も、もちろんです。っていうか、私もくっついていたいです」
そう言うと、佑さんは私を抱きしめる腕に力を入れた。
「あ、あの」
「はい?」
「後ろ向いていいですか?」
「もう向いていますよ?」
「あ、そうじゃなくて。佑さんの方を向いていいですか?」
「ああ、はい」
佑さんは腕を緩めた。くるりと後ろを向き、私は佑さんの胸に顔をうずめて抱き着いた。
佑さんの胸。匂い。温もり。佑さんだ~~~~~~~~~~~。嬉しい!
佑さんも私をギュッと抱きしめてくれた。
「うん。こういうのもいいですね。こういうご褒美があるなら、会社では離れていてもいいかな」
「え?」
「帰ってきたら、これだけ甘えてくれるなら」
ドキ。
「す、すみません。甘えたりして」
離れようとすると、ギュッと佑さんは私を抱きしめ、
「伊織さんに甘えられるの好きなんです。だから、甘えていいんですよ」
と優しく耳元で囁いた。
はわわわ。幸せだ。しばらく私は佑さんの胸に顔をうずめて抱き着いていた。
お風呂が出来た合図がして、
「あ、いけない。夕飯まだだ…」
と、佑さんは私から離れ、キッチンに行ってしまった。私もダイニングに移動して、カウンター越しに佑さんを見た。
お味噌汁を作っている佑さん。お豆腐を包丁で切っている佑さんも素敵だ。あの横顔も、真剣な顔つきも、包丁を握る手も。
ああ、家だったら、佑さんを見放題だ。見惚れていたって、顔がにやけていたって、誰にもかまうことなく見ていられる。
「なんでそんなにさっきから、見ているんですか?もしかして」
ドキン。
「料理の勉強ですか?」
…見惚れていたってわかっていなかったのか。
「そ、そうです。見ていてもいいですか?」
「くす。いいですよ。でも、あんまり熱い眼で見ないで下さいね」
「え?」
「僕が疼きます」
は?
「伊織さんの目、色っぽいですからやばいんですよ」
ええ?
そんなことを言われ、じっと見ていられなくなった。なんて…。5秒視線を外したけど、やっぱり、そのあと佑さんをじ~~っと見つめてしまい、佑さんがカウンター越しに私の頭をコツンとつつきにやってきた。
「だから、見過ぎですって」
そう言って佑さんは笑った。ああ、その笑顔も最高です。




