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第71話 会社では ~佑編~

 会社に着き、仕事モードに切り替えながらデスクに行った。

「おはようございます」

 北畠さんが挨拶をしてきた。最近、伊織さんと駅までのんびりと来るせいか、僕の方があとから席に着くことになる。


「おはようございます。北畠さんはいつも早いですね」

「バスがよく遅れるんですよ。だから、早めのバスに乗っているんです」

「ああ、なるほど。バスは読めないですよね」

「主任もいつも早いですね。朝起きられるのも早いんですか?」


「そうですね…。ただ、会社から近めのマンションに決めたので、ゆっくりめに出てもこの時間には来れるんですよ」

「いいですね~。私、家からだと1時間かかっちゃうから」

「大変ですね」


 北畠さん、最近は僕と話もしなかったのが、今日はやけにお喋りだな。

「コーヒー入れてこようかと思うので、主任の分もお入れしましょうか?」

「飲んできたのでいいですよ」

「そうなんですか」


 北畠さんがようやく席を立って行ってくれた。やれやれと思いつつ、PCの電源を入れる。そこに野田さんと塩谷が同時にやってきた。

「主任!私が送った報告書なんですが」

「ああ、ちゃんと見た。もうどこも訂正箇所はなかったぞ」


「主任、今日のミーティングで使う資料作ってきました」

「野田さん、すみません。全部押し付けてしまって」

「いえいえ。チェックだけお願いします」

 そんなことを言い合っていると、静かにいつの間にか伊織さんが席に座っていた。


 そして、コーヒーを入れて戻ってきた北畠さんに何やら話しかけられ、困っている様子だ。

「おはようございます、桜川さん」

 おはようございますと言うのも変だけどな。一緒に住んでいて一緒に出社しているわけだから。

「は、はい」

 それに伊織さんも、飛び上がりながら返事をするし。


「朝からすみません。これ、今日の会議で使うんで、コピーしてもらえますか?10部ずつ」

「はは、はい」

 伊織さんは、慌ててコピー室にすっ飛んで行った。


 いつものことだが、ああやってすっ飛んで行くうちにあざをこしらえるんだろうなあ。足に青あざあったもんな。


「おはよう、魚住君」

 南部課長が来た。その後ろから、顔を伏せがちにして塚本までがやってきた。

 今日から出社か?離婚はどうなったんだ。


 課のみんながいっせいに塚本を見た。塚本はバツの悪そうな顔をして椅子に腰かけ、ちらっと伊織さんのデスクに目をやった。

 伊織さん、塚本が出社して大丈夫だろうか…。


 コピーをし終え、伊織さんが戻ってきた。伊織さんも塚本がいることに気が付いたようだが、そっちを見ようともせず、僕のデスクにまっすぐに歩いてきた。


「どうぞ」

「ありがとう」

 伊織さんからコピーしてきた資料を受け取った時に、指先が伊織さんの指に触れた。と同時くらいに、

「ひゃ」

と伊織さんが手をひっこめ、資料が床に落ちてしまった。

 

「ごめんなさい」

「ああ、いいえ。僕も受け取り損ねてすみません」

 慌てて伊織さんは床にしゃがみこんで拾い出した。僕も席を立ち、伊織さんのすぐ横で一緒に拾っていると、伊織さんはちらっと僕を見て真っ赤になった。


 ?何で真っ赤なんだ?それに、さっきも指が触れただけで、なんだってあんな反応をしたんだ?


「すみません、すみません」

 そうぺこぺこ謝りながら伊織さんは拾った書類を僕のデスクの上に乗せ、自分の席に戻って行った。


 ちょっと様子がおかしい。もしや、塚本がいるから緊張しているのか。そうかもしれないな。


 9時半からミーティングだ。会議室に向かう前に、

「桜川さん、会議室にコーヒー5つお願いします」

と、伊織さんにお願いした。塚本のことが気になるなら、なるべく席を外させた方がいいよな。


 そして、ミーティングで資料の説明を野田さんがし始めた頃、伊織さんがノックをしてコーヒーを運んできた。


 静かに存在感を消しながら、伊織さんはコーヒーを置いて行く。野田さんも説明を中断することもなく、ミーティングが進んでいく。と思ったら、僕の前にコーヒーを置こうとした伊織さんの手がいきなり震えだし、コーヒーがテーブルにこぼれてしまった。


「すみません」

 伊織さんは慌ててテーブルを拭いているが、

「ちょっと!まともにコーヒーも配れないの?」

と塩谷に怒鳴られ、一瞬手を止めた。


「塩谷!」

 本当に塩谷って、こういう時に文句を言わずにいられないんだろうか。

「大丈夫ですよ、桜川さん。あと、2課に戻ってから、塚本さんには何か話しかけられても無視していいですからね」

「え?」


 伊織さんは一瞬、何を言われたのかとキョトンとした。

「桜川さん、すまないね。今日は手続きもあって塚本君は出ているが、明日から札幌支店に異動になるから」

「え?そうなんですか?」

 課長の言葉にもまだ、首を傾げている。


「塚本さん、やっぱり移動ですか」

「まあねえ。本当なら辞職してもらってもいいくらいなんだが、離婚するので慰謝料も支払わないとならないようだし、まあ、移動ってことで部長も手を打ったんだよ」

「離婚するんですか。まあ、自業自得ってやつですね」


 塩谷と課長がそんな会話をすると、他の人も頷いた。

「そ、それじゃあ、失礼します」

「伊織さん、なんかあったら、すぐに呼びに来て下さいね」

「え?」


 しまった。伊織さんと呼んでしまった。

「ああ、すみません、桜川さん」

「はい」

 伊織さんが会議室を出て行くと、

「大丈夫ですかね、桜川さんは」

と野田さんが心配そうに言った。


「あんなことがあってから、塚本君には会いたくないだろうが…。まあ、塚本君も今日は手続きだけで帰るはずだから、大丈夫でしょう」

 課長の言葉に、なぜかムッとしながら塩谷が、

「私だったら、塚本さんの顔でも一発殴りますけど」

と、息巻いた。


「は?」

 みんなが目を点にして塩谷を見た。

「でも、桜川さんじゃあ、そんなことできないでしょうし…。絶対に顔も見たくないですよね。だって、おぞましいじゃないですか。主任、なんだったら、桜川さんも会議室の隅でミーティングに出てもらったらいいんじゃないですか?せめて塚本さんが帰るまで」


「……え?」

「え?じゃないですよ。今頃、塚本さんがまた桜川さんに言い寄っていたらどうするんですか」

「いくらなんでもそれはないでしょう」

 課長はそう言ったが、いきなり気になりだした。


「ちょっと見てきていいですか?」

 そう言うと、みんな「いいですよ」と答えてくれたので、僕は2課に行ってみた。すると、もう塚本は席にいなかった。帰ったのかもしれない。


 ほっと胸を撫で下ろし、すぐに会議室に戻った。

「塚本さん、もう帰ったようですよ」

 そう言って席に着くと、

「じゃあ、大丈夫ですね」

と、塩谷が安心したようにそう言った。


「…塩谷、ありがとうな」

「え?」

「心配してくれて」

「なんで、主任がお礼を言うんですか?私はセクハラとかする人が許せないし、そんな目に合った桜川さんが純粋に心配なだけです。主任がお礼を言うのは変でしょ?」


「……まあ、そうなんだが」

 伊織さんを嫌っているくせに、こういうことだけは心配してくれるわけだ。


 11時にはミーティングも終わった。席に戻ると、伊織さんはすっと片づけをしに行った。


「溝口さん、塚本さん、伊織さんに何もしていないですよね?」

 僕は気になり、溝口さんのデスクまで行き聞いてみた。

「謝っていましたよ」

「え?」

「謝って部屋を出て行ったきり戻ってきていないです」


「そうですか」

 伊織さん、大丈夫だろうか。話しかけられるのも嫌だったろうに。

 やっぱり、今日伊織さんが変なのは塚本のせいだったんだろうな。


 と思っていたが、どうも違っていたようだ。

 午後、特に外出する予定もないので、デスクで書類を作成していた。

「主任、ハンコお願いします」

「ああ、はい。すぐに押せますので待ってて下さい」


 伊織さんが請求書を持ってきたので、それを受け取ってすぐに確認した。その間、なぜか伊織さんは、デスクから離れて立っている。


「はい」

 ハンコを押して伊織さんの方に渡すと、手を伸ばしながら僕を見て、目が合うとなぜか真っ赤になった。

「?」

 なんでそこで、赤くなるんだ?


 そして、書類で顔を隠しながらそそくさと席に戻って行った。

 熱があるとか?


 気になり、コーヒーを入れに行くついでという感じで、伊織さんの席のほうに行き、

「大丈夫ですか?熱でもありますか?」

と、そっと耳元で聞いてみた。


「ひゃ!」

 なぜか、伊織さんは飛び跳ね、

「だだ、大丈夫です」

とさらに真っ赤になってしまった。


「驚かせてすみません」

「いいえっ」

 クルッと前を向き、伊織さんは俯いている。


 どうしたんだ?さっきから、僕の顔も見ないようにしている。何か、僕がしたのか?

「コーヒー、入れてきます。伊織さんも飲みますか?」

「いいえっ。あ、はいっ。やっぱり、飲みます」


 そう言って伊織さんは、僕の顔を見ないようにしながら立ち上がった。そして、僕の後ろから、ゆっくりとついてくる。

 これって、避けられているとかか?


 コーヒーは空だった。コーヒーメーカーにセットをしながら、ちらっと伊織さんを見ると、俯いたまま赤くなり、僕から距離を取って立っていた。


「伊織さん?」

「はい」

「どうしたんですか?」

 近づくと、一歩後ろに下がる。


「伊織さん?」

 顔を覗き込むと、伊織さんは逃げるように避けて、

「顔、近いです」

と、僕の胸を手で押した。


「え?」

「ダメです。今日変なんです。でも、失敗しないよう頑張っている最中で」

「やっぱり、どこか具合でも悪いんですか?」

「はい。胸が」


「え?」

「ドキドキしちゃうし、疼いちゃうし」

「は?」

「佑さん、近寄ると佑さんの匂いがするんです」


「え?なんか、臭いですか?」

「いいえ。シャンプーか、石鹸の匂いだと思うんですけど。でも、それを嗅ぐと、思い出しちゃって」

「え?」

「だって、3日間、ずっとべったりだったし。その時のこと脳裏に浮かんじゃって、仕事どころじゃないし、ドキドキしちゃうし」


「そうですか…」

「わ、わ、私ってもしかして」

 伊織さんが一歩近づいた。そして僕にそっと小声で、

「変態ですか?」

と、とんでもないことを聞いてきた。


「え?」

 ぶぷ!思わず笑ってしまった。真剣な顔をして何を聞いてくるかと思ったら。

「あはは。なんですか、それ」

「だだ、だって」


 真っ赤だ。可愛い。耳も首も真っ赤になってる。

「ああ、やばいなあ。確かに近づくとダメですね。今すぐ抱きしめたくなる」

「は?」

「伊織さん、可愛い。キスもしたくなる」


 そう言うと、伊織さんは、3歩くらい後ろに下がり、ぐるぐると首を横に振った。

「しませんよ。ここでは」

 コーヒーが出来上がり、それをカップに注いだ。その間も伊織さんは、顔を手で仰ぎながら、僕から離れたところに立っていた。


「はい。コーヒー入りましたよ」

「ありがとうございます」

 コーヒーを取りに近づいたので、僕は伊織さんの耳元にそっと近づき、

「大丈夫です。伊織さんが可愛くて抱きしめたくなったり、疼いたり僕もしていますから。僕も十分変態です」

と囁いた。


 伊織さんは、見るからに顔から湯気が出たように赤くなり、

「どどど、どうしてそんなこと、会社で言うんですか?」

と慌てまくっていた。


「あはは。先に席に戻っています。コーヒー、熱いから気を付けて下さいね」

「はひ」

 はひ?口も回らなくなっているのか?くすくす。可愛いよなあ。


 2課に戻っても顔がしまらず、野田さんに、

「何をにやけているんですか?桜川さんといちゃついていたんですか?」

と聞かれてしまった。

「すみません。仕事中に…。つい、素になりました」


 そう正直に言うと、課のみんなから笑われた。

「ははは。主任もただの男ってわけですね」

 野田さんの言葉に、北畠さんと塩谷だけは眉間に皺を寄せたが、あの溝口さんですから僕を見て、笑っていた。


 そこに真っ赤な顔をして伊織さんが戻ると、みんながニヤつきながら伊織さんを見て、

「いいねえ、幸せそうで」

と、口々に言った。


「え?」

 当の本人はきょとんとしているが、僕の方はどんな顔をしていいやらって感じだ。

「何?何?真広」

「お熱いことで。羨ましいよ。今、岸和田、出張でいなくてこっちは寂しいって言うのにさ」


 そんな溝口さんの声が聞こえてきた。

 お熱い…。そんなことをこの僕が言われるとは…。


 塩谷はムスッとしたまま。北畠さんは、みんなの手前なのか笑っているが、作り笑いだろうな。引きつっている。

 他のみんなは、にやにやしながら僕と伊織さんを見て、仕事に集中もしていない。


 あ~あ。まあ、いいか。コーヒーを飲んでる間くらい、こんな時間があったとしても。

 伊織さんを見ると、赤くなりながら溝口さんに小声で何か言い返している。可愛いよなあ。

「くす」

 そんな伊織さんを見て笑うと、周りのみんながちょっと驚いたように僕を見た。塩谷ですら、目を丸くした。


「なんですか?」

「いや~~、主任もそんな顔をなさるんですねえ」

「え?にやけているっていうことですか?」

「いいえ。桜川さんを愛しそうに優しく見ているので、ちょっとびっくりですよ」

「……」

 野田さんの言葉に、返す言葉も見つからなかった。


「ははは。微笑ましいよ。うんうん。仲よさそうで何よりだ」

 南部課長の言葉で、課の雰囲気がさらに和やかになった。塩谷が何か言いたそうにしたが、すぐにPCに向かい、仕事に集中した。


 僕はと言うと、コーヒーを飲みながら、ああ、会社でも伊織さんに癒されるなあ…なんて呑気なことを思っていた。



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