第70話 一緒に暮らす ~伊織編~
夕飯の買い物もスーパーで済ませ、マンションに戻った。それから、不動産屋さんに電話をして、アパートを今月で出ることも告げた。そのあと、実家にも電話をした。
「え?来週、籍を入れる?!」
母の驚きようは想像以上だった。
「う、うん」
「どうしたの、急に」
「急じゃないよ」
「でも、仕事は?」
「仕事は来年の春まで続ける」
「赤ちゃんができたとか?」
「違うの。その…。もう、一緒に暮らすから籍も入れることになって」
「じゃあ、魚住さんのお母様にも挨拶をしないと」
「うん。ちゃんとする」
「お母さんやお父さんも、一回挨拶に行かなくっちゃ」
「え?」
佑さんのお母さんに?
佑さんは、夕飯の用意をしているところだった。なんとなく聞くに聞けず、
「佑さんと相談してみる」
と小声でそう言った。
とりあえず、報告は終わった。やっぱり、急すぎだったかな。
「お母さん、なんて言っていましたか?」
ドキ!リビングのソファでぼけっとしていると、いつの間にか佑さんが後ろに来ていた。
「あ、佑さんのお母さんに挨拶がしたいって」
「僕の母に?う~~~~ん。やっぱり、そういうの必要ですかね」
佑さんはしばらく腕組みをして考え、
「一回、母とも話してみますよ」
と、ちょっと憂鬱そうにそう答えた。
「私もっ」
「え?」
「私も、お母さんに会ったほうがいいですよね?」
「母にですか?」
あ、嫌そう。
「そうですね。あとで、僕から母に結婚すると報告しておきます。多分、会わせろと言ってくると思いますよ」
夕飯は、おでん。佑さんはノンアルコールビール。私はちょっとだけ、日本酒を飲んだ。
「美味しい」
ホワンと幸せを感じていると、目の前で佑さんが笑った。
「佑さんの作るお料理って、優しい味ですね」
「そうですか?基本、素材の味を大事にするので、それでかな」
「でも、こんなに美味しいものばっかり食べてて、私、太りそう」
「いいんじゃないですか?痩せているんだし」
「痩せてないですよ。お腹にも25過ぎてからついてきたし」
「…じゃあ、ジム行きますか?僕も最近行っていなかったし」
「行ってすぐに入会できるんですか?」
「すぐに会員になれますよ。僕の行っているジムは、土日と夜は空いています。平日の昼間は、おじいちゃん、おばあちゃん世代が多いそうですけどね」
そうなんだ。へ~~。ジムなんて、ホットヨガしか行ったことないから知らなかった。あ、でもホットヨガもおば様方が主流だったな。
「じゃあ、行ってみます。今度まず入会してみます」
「伊織さんも何かスポーツしていたんですか?」
「ホットヨガくらいです」
「ああ、あれね。あれは僕には無理です。まず、ヨガ自体が無理だな」
「体、硬いとか?」
「いえ。ああいう、ゆっくりしたのが無理なんですよ。マシンを使ってやるのはいいんですけどね」
「じゃあ、ジムではマシンだけ?」
「たまに泳いだりもします。あと、今行っているところが、スカッシュがあるので、たまにしてますよ」
「スカッシュ?難しそう」
「そんなことないですよ。今度一緒にやりましょう」
「はあ」
テニスは大学時代、かじったけれど。でも、下手だったしなあ。運動神経ないんだよね。それなのに、できるのかな。
佑さんって、運動神経もいいんだろうな。お料理も出来て、運動もできて、勉強も出来て、仕事も出来て。なんでも完璧なんて、やっぱりすごいなあ。
「佑さんは、英語とか、話せるんですか?」
夕飯も終わり片付けが済んでから、リビングに移動してそう聞いてみた。これで語学も出来たら、完璧すぎると思いながら。
「英語ですか?まあ、仕事をするのにも必要なので、その程度は」
どの程度?
「我が社も海外に支店がありますしね。転勤になってもいいように、入社後5年間英語を習いましたよ。大学時代にも、ホームステイに行ったこともあったし」
「すごい」
「別にそんなにすごくないですけど。その時は、日常会話ができるくらいしか、話せるようにならなかったし」
いやいや、すごいってば。ああ、やっぱり、完璧。
それに比べて私って、何をしてきた?会社入ってから、家庭菜園とフラワーアレンジメントくらいで、なんにもやってきてないよね。料理ですらできないし、ああ、もう、絶望的。
「伊織さん」
「はい…」
「暗くなってどうしたんですか?」
ばれた。
「ちょっと、自己嫌悪に」
「またですか」
うっわ。呆れられた!暗い女だって思われた?
むにっと鼻をつまんで、佑さんがちょっとだけ怖い顔をした。
「今度、自己嫌悪に陥った時には、イエローカードでも出しましょうか。で、3枚揃ったら」
「退場?」
「いえ」
佑さんは、グイッと私の腕を引っ張り、ソファから立ち上がらせた。
そして、いきなりお姫様抱っこをしたと思ったら、なぜか寝室に連れて行かれ、ベッドの上に私を寝かせ、
「即座に、僕に抱かれます。どうですか?このルール」
と言いつつ、いきなり着ているカーディガンを脱ぎだした。
「え?」
そして、カットソーも脱いでぽいっと放ると、私のセーターをたくし上げだした。
「ま、ま、待ってください。今、イエローカード1枚だけですよね?まだ、3枚溜まっていない」
「あ、そうか。じゃあ、ルールを変えて、イエローカードではなくレッドカードにしましょうか」
ええ?!
「1枚だけでも、即ベッド行き」
何それ。なんか、佑さんが強引過ぎる。
「仕事の前の日は抱かないって約束は?」
「ああ、そうか。そんなことも言いましたね」
そうだよ。明日また仕事中思い出して大変なことになるよ。
「そそ、そうですよ。明日仕事ですよ?」
そう言って、どうにか佑さんの腕から抜け出そうとした。でも、
「レッドカードのほうが有効です」
と、わけのわからないことを言われた。
そんな、勝手にルール作られても…。
「でも、でもでも、ほら、お風呂だってまだ入っていないんですし…」
「伊織さん」
「はい」
佑さんはじっと私の目を見ると、
「観念してくださいね」
と真顔で言った。
ええ!?
そのまま、キスをされ、結局、私は抵抗できなかった。
翌朝、ちょっとだるくてなかなか目が覚めなかった。アラームが鳴った気がしたけど、いつもの目覚ましの音と違っていて、何が鳴っているのかもわからなかった。
そのアラームもいつの間にか止まり、私はまたあったかい布団の中で丸くなった。私のおでこを優しく誰かが触った。でも、眠くてそのままにしておいた。
ふわふわ心地のいい眠りの中にいると、
「伊織さん、朝ご飯できていますよ」
という佑さんの声がして、チュ、チュと頬や唇にキスをされ、目が覚めた。
「え?」
「おはようございます。今日は月曜。会社がある日ですけど、わかってます?」
「……はい。あ、今、何時ですか?」
「もう、7時です」
うわ~~~~~~~。確か、昨日佑さんと、6時半には起きましょうとか話していたような。
「ごめんなさい。私…」
「大丈夫です。朝食もお弁当もできていますし」
お弁当?
「あれ?佑さんって、いつも外食じゃ?」
「はい。ですから、伊織さんのお弁当です」
「え~~~~~~~~~~~~?!」
私の?!
「顔洗って、朝ご飯先に食べちゃって下さいね。トースト、今焼いているところですよ」
「はは、はい」
慌ててベッドから出た。
昨日、結局寝たのは2時ごろ。夕飯後に佑さんとベッドでいちゃいちゃして、お風呂に入ったのも遅くなったし。まだ眠い。
顔を洗いなんとか目を覚ましダイニングに行くと、コーヒーのいい香りがしていて、食卓にはハムエッグ、ミニサラダ、トースト、ヨーグルトが並んでいた。
「いただきます」
それらを佑さんと一緒に食べ、食べ終わってから、化粧を慌ててした。
佑さんは洗い物をしたり、洗濯物を干したりしている。
いけない。全部家事までさせるわけにはっ!と思いながらも、鏡の中の私は髪がボサボサで、慌てて髪を濡らしてドライヤーでセットしなおした。
その間に、いつの間にか佑さんはスーツに着替えていた。
「あ、あわ、あわ」
まだ、私、着替えもしていないのにっ。
「慌てないでもいいですよ。まだ、15分もあります」
佑さんは余裕の笑みでそう言って、食卓で新聞を読んでいる。
うそうそ。15分しかないよ~~~。どうしよう。何を着ていこう。
佑さんがクローゼットの中を整理して、私の服もしまってくれた。その中からブラウスを出し、どのスカートを履こうか悩んでいると、いつの間にか佑さんもクローゼットにやってきて、
「そのブラウスなら、これがいいと思いますが」
と、そうそう会社に履いて行ったことのない、ローズ色のプリーツのスカートを佑さんは選んだ。
「え、でも、それは、お出かけ用で」
「デート用ですか?」
「え?あ、はい」
「う~~ん。でも、会社でも十分いいと思いますよ。伊織さんの優しい雰囲気と合っていますし」
うそ。そうなの?
「は、はい。じゃあ、それにします」
佑さんが言うなら、着ちゃう。着ちゃいますとも。
それから、佑さんが上に羽織るカーディガンも選び、その上からトレンチコートを羽織った。佑さんも、薄手のトレンチを着ると、
「じゃあ、行きましょうか」
と、ごみ袋を手にして玄関を出た。
「私、ゴミ、捨ててきます」
「いいですよ。表玄関の前で待っていて下さい。裏から出て行きますから」
「え、でも」
「ゴミ置き場、奥様達の井戸端会議の場所になっていて、伊織さんが行ったら餌食にされますよ」
「餌食?」
「僕も最初は捕まっていました。最近は上手くかわせるようになりましたが。あれは、けっこう面倒なんですよ」
「わかりました。大人しく待っています」
「はい」
にこりと笑うと、佑さんはゴミ置き場へと続くマンションの裏に出るドアから出て行った。
私はエントランスから出たすぐのところで待っていた。すると、佑さんが速足でやってきて、
「行きましょうか」
と、すっと私に手を差し出した。
うそ。手、繋いでくれるとか?きゃあ。
ドキドキしながらも、佑さんと手を繋いで歩き出した。
ああ、駅までの道のりも、超ハッピーのうっきうきだ。このスカート履いてよかった。まるで、デート気分!
嬉しい。ダメだ。嬉しすぎて顔がにやけてる。
駅に着き、改札を抜ける時に手を離した。階段を降り、ホームに並ぶとまた佑さんは私の手を取った。
「だんだんと、朝、冷えてきましたね。特にホームって寒いですよね」
「そ、そうですけど、私は今、あったかいです」
「ん?」
「手…」
「ああ、手、あったかいですか?」
「はいっ」
くすくす。と佑さんは笑った。
やばい。喜び過ぎ?声が跳ね上がっちゃったよ。
電車に乗って、隣に並んだ。佑さんのすぐ横に並ぶと、佑さんの匂いがしてきて、胸がときめいてしまう。
ああ、この週末、ずっと佑さんと一緒で幸せだった。昨日も、強引だったとはいえ、ベッドの上での佑さん、超優しかったし。
やばい。体中に佑さんの匂いも温もりも染みこんでいる。自分から佑さんの匂いがしてきそうなほどだ。
佑さんの匂いって、やっぱり、シャンプーかな。違うかな。石鹸かな。わかんないけど、ドキドキする。
は~~~。今も幸せだ。手の温もりは、大きくてあったかくって優しくって。
「伊織さん、聞いていましたか?」
「え?はい?」
「父に昨日、メールしたんです。電話はしづらかったんで」
「え?いつですか?」
「夜、寝る前に。伊織さんが風呂に入っている間です」
知らなかった。
「今、返事が来ました」
「なんて書いてありましたか?」
「今週日曜日に時間取ってくれるそうです」
「そうなんですか」
いよいよ、お父さんに会うんだ。とドキドキすると、隣で佑さんが緊張しているのが伝わってきた。
「あの、佑さん、大丈夫ですか?」
「はい。あ、家ではなく、外で会うことになります。ホテルのロビーで待ち合わせして、ホテルのカフェでいいですか?」
「はい。私は全然」
「さすがに家は、今の奥さんとお子さんがいますから」
「お子さん、おいくつなんですか?」
「高校生ですよ、まだ」
「えっと、女の子ですか?」
「いいえ。男の子です」
そうなんだ。じゃあ、佑さんの弟になるのかな。
「僕とは血のつながりはないですよ。連れ子ですから」
「そうなんですね」
そっか。
「………。すみません。今から緊張したりして」
「いいえ」
「何を話していいかもわからないです。もう、離婚してから一回も会っていないから、何年たったのかな」
そう言うと、佑さんはしばらく窓の外を見つめた。
なんだか、話しかけづらい雰囲気があって、私は黙っていた。でも、佑さんは私の手をしっかりと握りしめていて、私も佑さんの手を握り返した。
大丈夫。もし、佑さんが傷つくようなことがあっても私が守るから。そんなことを思いながら。




