第69話 指輪 ~佑編~
マンションに戻り、伊織さんには先に風呂に入ってもらった。僕は、持ち帰った仕事をしに仕事部屋に行った。PCを開くと塩谷からメールが来ていた。
>報告書送ります。チェックをお願いします。
見てみると、明らかに間違っている箇所がある。塩谷にしては珍しい。すぐに、訂正をするようにメールを送ると、その1分後に電話が鳴った。
「もしもし」
「塩谷です。報告書なんですけど」
「ああ、塩谷にしては珍しいな。こんなケアレスミス」
「すみませんでした。すぐに直して送ります」
「そのために電話してきたのか?メールで済ませられる用事だろ」
「……主任。あの、ちょっと相談があって」
「相談?」
仕事での悩みか?
「親と喧嘩しちゃったんです」
「は?」
なんだ、それは。小学生じゃあるまいし、なんだってそんな相談を…。
「早く結婚しろって、こっちに来てからそればっかり言われて、頭に来て。結婚なんか絶対にしないって言ったら、結婚して孫の顔を見せないような子は、家を出て行けって。もう、わけわかんないです」
「なるほどな。まあ、塩谷の年じゃ、親も心配になるだろうな」
「でも、仕事に生きる女性だって、今は多いじゃないですか。うちの親、頭が固いっていうか、古いんです。それに、見合い話まで持って来て」
「いいじゃないか、してみたら」
「本気で言ってます?」
「ああ。結婚しても働けるだろ?まあ、家庭に入って欲しいってタイプの男だと無理かもしれないけどな」
「……。主任は?奥さんが働くのはOK?」
「僕のことはどうでもいいだろ?」
「参考までに教えて下さい」
「OKだよ。…でも、多分僕は、仕事に生きるタイプの女性を好きにはならない」
「じゃあ、桜川さんがそういうタイプじゃないから、結婚するんですか?」
「…そうだなあ。…いや、万が一、彼女が仕事をしたいと言ったら、賛成するとは思うけどね」
「家庭に入って欲しいんじゃないんですか?」
「別に…、そう思っているわけでもないし」
「どっちなんですかっ」
「なんで、お前がキレてるんだよ。どっちでもいいだろ」
「なんか、煮え切らないっていうか、どっちつかずの主任なんて、主任らしくないですよ」
「桜川さんがどうしたいのか、その気持ちを尊重したいっていうだけだよ。仕事をするって言うのなら、僕はきっと応援するだろうし。多分、一生懸命やるんだろうから、応援するよ」
「え~~。そういうタイプじゃないと思うけど」
「そんなことない。一生懸命だよ、彼女は」
「……やだ。なんで、のろけられているんだろ。私が相談していたのに」
「お前も見合いでもしてみたらいいじゃないか。嫌なら断ったらいいだけだ」
「…。考えてみます」
「じゃあ、もう切るぞ。そろそろ伊織さんも風呂から出てくるだろうし」
「え?!」
「なんだ?」
「一緒に暮らしているんですか?!」
「ああ。一緒に暮らすことになった。もうすぐ結婚もするんだから、別にいいだろ?」
「うそ」
塩谷の声、かなり驚いたような感じだな。
「…嘘じゃない。そんなに驚くことじゃないだろ?それじゃ、切るぞ」
「あー、はい」
生気を失ったかのような塩谷の声が少し気になったが、僕は電話を切った。それと同時くらいに、伊織さんがバスルームから出てきた。
「僕も風呂に入ってきます。あ、まだ髪濡れてますね」
「はい。リビングで乾かしてもいいですか?」
「いいですよ」
ほんのりと赤い頬と、濡れた髪で伊織さんはやけに色っぽかった。
バスタブに浸かり、伊織さんのことを思った。今日から一緒に暮らす。かなり強引に話を進めてしまったが、どう思ったんだろうな。
でも、そんな話をした時にも、籍を入れる話の時にも、伊織さん、嬉しそうにしていたし…。
ゆっくりと風呂に入っているのが勿体なくなり、さっさと出た。そして、少し髪を乾かして、すぐに残っていた仕事に取り掛かった。
伊織さんには、先に寝ててくださいと言ってみた。でも、とても寂しそうな顔をした。
「一人寝、寂しいですか?」
そう聞くと、伊織さんは黙って頷いた。その表情も、可愛らしい。
「じゃあ、テレビか映画でも見ていて下さい」
「あ、お仕事、頑張って下さい」
「はい」
さっきの、伊織さん、寂しそうだったな。ご主人に待たされている犬みたいな…。
くす、かわいい。
仕事、さっさと終わらせよう。そう思い、ものすごく集中して仕事を終わらせた。そして、リビングに戻ると、眠そうな目で伊織さんは僕を見た。
「佑さん、お疲れ様です」
「あ、眠そうですね。くす」
「い、いいえ。そんなこと…」
「待たせてすみません。寝ましょうか」
「はい」
伊織さんは僕に手を引かれ寝室に来た。僕が先にベッドにはいり、伊織さんを呼んだ。
伊織さんは恥ずかしそうに僕の隣に寝転がる。
可愛い。
伊織さん、眠たそうだったし、このまま寝ようと思っていたんだけどな。
「伊織さん…」
「はい」
伊織さんにキスをした。やっぱり、無理だ。このまま眠るなんて…。
「明日も休みですし」
「はい」
「いいですよね?」
「……は?」
「寝坊してもいいし」
「あ、はい」
「仕事にも影響しないですし」
「………はい」
そんなことを言いつつ、僕は伊織さんのパジャマのボタンを外していった。伊織さんは、少し戸惑いながらも、じっとしている。
でも、恥らっているのが伝わってくる。可愛い。
伊織さんの前髪を上げた。可愛いおでこが見えた。頬を撫でた。そしてキスをした。
こうやって、肌を重ねるたびに、さらに愛しさが増す。きっと昨日よりも僕は、伊織さんを好きになっている。
その夜は伊織さんの方が先に眠りに着いた。僕の腕の中ですーすーと寝息を立てて。
その寝息が可愛いし愛しい。
眠るのが勿体ない。寝顔を眺め、髪を撫で頬にキスをして、背中も撫でる。伊織さんって、柔らかいよな。
ギュ。抱きしめていた腕に力を入れる。それと同時に胸の中から、何かあったかいものが溢れてくる。
これ、愛しいとか、幸せとか、そういう感情だよな。うん。こんなの、そうそう味わったことがないから、この感情をもっと噛みしめたくなる。
そして、なんとも言えないふわふわとした幸福感を味わいながら、僕はいつの間にか眠りの中に入って行った。
翌朝、寝坊した。なんとなく目が覚めると、伊織さんが僕の腕の中でもそもそと動いた。同時に目が覚めたのかもしれない。
「おはようございます」
そう声をかけると、照れくさそうな顔をして僕の顔を見た。
「お、おはようございます」
可愛い。しばらく抱きしめていたい。ぎゅっと、伊織さんを抱きしめた。伊織さんは僕の胸に顔をうずめ、じっとそのまま動かないでいる。
「伊織さん?また、寝ちゃいましたか?」
「いえ。あの、今、幸せに浸っていたところで」
なんだ。僕と同じか…。
「そうですか!」
また、ギュッと抱きしめた。そして、そのまま1時間くらい、僕らは布団の中でいちゃついていた。
午前中は、まったりとご飯を食べたり、掃除や洗濯をした。さっさと家事を済ませりゃいいのに、洗濯物を干すのを手伝ってくれる伊織さんに、キスをしたりハグをしたりしていたから、時間がかかった。
掃除の間も、つい後ろから抱き着いてみたりして、ちょっかいを出してしまった。そのたび、伊織さんは赤くなって、恥ずかしそうにしながらも、僕に抱き着かれたままになっていた。
ああ。なんて言うか…。自分でも呆れるくらい、バカップルだよな。でも、いいじゃないか。きっと世の中の新婚なんて、こんなもんだよ。と、自分を納得させた。
午後から外に出た。昼を食べてから、指輪を見に行った。
伊織さんは緊張しながらお店に入った。それに、エンゲージリングも遠慮がちに、高くないものを選ぼうとしているようだ。誕生石のガーネットの指輪を見ながら、迷っている。
「僕の勝手な考えなんですが」
「…はい」
「伊織さんの指には、可愛らしく光るダイヤの指輪が似合うと思うのですが」
「ダイヤ?」
伊織さんは目を丸くした。
「い、いいんです。そんな高価なものもらえません」
「伊織さん、もしかして、自分には高価なものは相応しくないとか思っていないですか?」
そう僕が言うと、図星のようだった。
「僕の奥さんになる人ですよ。謙遜だったらいいんですが、本気で自分を卑下しているとしたら、僕のことまで価値を下げていることになりますよ」
「え、そんな。佑さんの価値を下げるなんてことは」
「僕が選んだ人ですよ。僕がそんなに価値のない人を選ぶとでも思いますか?」
「え?」
「他の誰よりもすごい人です。この僕が結婚したいと思ったくらいなんですから。わかっていますか?その辺のこと」
そう伊織さんに言ったあと、店員の視線を感じ、やっと今いる状況を思い出した。
「あ、しまった。すみません。えっと。ダイヤの指輪を見たいんですが」
「はい。では、可愛らしいデザインのものを選んできますからお待ちくださいね」
店員がその場を離れた隙に、
「つい、店員がいるのを忘れて、すごい発言をしてしまいましたよ」
と、伊織さんに照れ隠しにそう小声で言った。
「そ、そうですね」
あ、伊織さん、真っ赤。
「顔、あつ…」
そう言って手で顔を扇いでいるし。くす、可愛い。
そして、店員が持ってきた指輪を何点か伊織さんは指にはめた。その中でも、繊細で可愛らしいデザインの指輪が伊織さんに似合っていた。僕がそれを勧めると、
「はい。私も、これ、いいなって思いました」
と伊織さんもそう言った。
「じゃあ、これにしましょう。あと、結婚指輪も見たいんですが」
「はい」
結婚指輪も意見がすぐに一致して、実にシンプルなものを選んだ。こういうのも、伊織さんとは気が合うのかもしれない。
そのあと、前から気になっていたカフェに入った。出てきたコーヒーを飲み、
「…うん。旨いな」
と、味わっていると、伊織さんが目の前で何やらそわそわし始めた。
「あの、指輪なんですけど」
あ、そうか。買ったはいいけど、ちゃんと渡さないとな。
「はい。いつ渡しましょうか?…今、ここでもいいですか?」
「いえ、あのっ」
なんだ?困ったような表情をしているぞ。まさか、やっぱり結婚はやめますとか言い出すんじゃ…。
「その…、ダイヤだし、高かったんじゃ…」
そっちの心配か。一瞬焦った。
「相場がよくわからないんですが。でも、気にしないでいいですよ?」
そうほっとしながら言うと、伊織さんはさらに顔を曇らせた。
「そんなわけには」
「僕が今までかけてたものは、車くらいですから。それも、そんなに高い車ってわけでもないし」
「え?」
「金、あまり使わないんですよ。趣味も映画鑑賞くらいで、あとは仕事ばかりしていたもので」
「…」
「結婚する気はなかったので、結婚資金に貯めていたわけではないんですが…。まあ、独身貴族を十分に楽しめるようにと、けっこう貯金していましたし」
「それを指輪に使ったりしたら、申し訳ない」
申し訳ない?なんでそういう発想になるんだ。まったく。素直にこういう時には喜んでほしいんだけどな。
「そんな気遣いは無用です。はい、伊織さん、左手出して下さい」
「え?はい」
強引にそう言って、僕は伊織さんの指に指輪をはめた。
「……似合ってますよ?」
「……あ、ありがとうございます」
「くす。涙目になってる…」
なんなんだ。申し訳ないとか言いつつ、本当は喜んでくれていたんだ。
左手の薬指を伊織さんは見つめた。それを僕もしばらく黙って見ていた。
「不思議な感覚になりますね」
「え?」
「指輪です。女性に贈ったのは初めてですが…。なんていうのかな。こう…」
「……」
「伊織さんは、僕のものだ…みたいな、そういう独占欲っていうのかな」
そう言うと、伊織さんはちょっと目を丸くした。
「すみません。いい表現じゃないですね。でも、どこかで安心感があるっていうか、ほっとした気持ちになったっていうか」
「……」
伊織さんは首を傾げた。
「………。嬉しいんですよ。単純に、ああ、僕の伊織さんなんだなあって思えて」
ああ、また僕はあほなことを言っている。自分で呆れる…。
「こんなこと言っている自分も、指輪を贈っている自分も、伊織さんを目の前にして幸せに浸っている自分も、なんだか、信じられないですけどね」
「え?」
「数年前の僕が今の僕を見たら、ものすごく驚くと思いますよ」
結婚なんてしないと決めていた僕が、一人でいるのに幸せを感じていた僕が、まさか、一人の女性にこんなに夢中になって、指輪を贈って喜んでいるなんてなあ。
でも、一人でいた時よりも、ずうっと幸せなんだから…。
ふと、塩谷の顔が浮かんだ。塩谷も、心底惚れる男が現れたら、僕の今の気持ちも理解できるのかもしれないな。




