第69話 指輪 ~伊織編~
アパートに着き、
「お茶でも飲んで待っててください。すぐに用意します」
と、お茶を入れ、佑さんにはリビングと呼べるような部屋ではないが、座って寛いでもらった。
私は旅行用の大きめのカバンを出して、着替えや化粧品などを入れていった。
「徐々に荷物運びましょうね、伊織さん」
ドキ。
「はい」
と、思わず大きな声で返事をしたが内心ドキドキだ。
「今年中に引っ越しませんか。アパート、今月までの契約ってことにして」
「え?そ、そうですね」
今年中?あと1か月くらいしかないよ。そうしたら、一緒に住むってことだよね。
「それから、来週の土曜日が大安吉日なんです」
「え?そうなんですか?」
「はい。その日に籍を入れませんか」
「え?!」
入籍?え?結婚ってこと?
「ダメでしょうか」
「い、いいえ」
「で、急で申し訳ないんですが、土曜か日曜に、父に会いに行ってもいいですか?」
「もちろんです」
また、勢いでそう答えた。でも、頭真っ白。
なんか、急展開になっている気がするんだけど。
いきなりすぎない?あ、そうだ。両親にも入籍すること言わないと。
「あ、母や父に、籍を入れること報告しておきます」
「はい」
「課長や部長にも言ったほうがいいんですよね」
「それは、僕から報告します」
「お、お願いします」
ぺこりとその場で頭を下げると、
「くす」
と笑われてしまった。
「そうだ。指輪も買いに行かないと…ですね。どうですか。明日にでも見に行きませんか」
「指輪?え?」
うひゃあ。そうか、指輪。
「結婚指輪ですか?」
「はい。エンゲージリングも一緒に見に行きましょう。あ、すみません。プロポーズする時に、用意すべきでしたよね?」
婚約指輪ってこと?
「い、いいえ。結婚指輪もエンゲージリングもいただけるんですか?」
「……はい。ダイヤでもなんでも、伊織さんが欲しいものでいいですよ」
「ダイヤだなんて…。私、あまり宝石とかわかってなくて。指輪もあまりしないので、どんなものでもいいです」
「…遠慮はいらないですよ?」
「本当です」
「じゃあ、誕生石とかにしましょうか」
「はい」
うわ~~。なんか、だんだんと結婚するって現実味を帯びてきたかも。
とうとう、とうとう…、結婚するんだ。
私が意識をどこかに飛ばしている間に、佑さんは私を抱き寄せていた。それも、ギュウって力強く。
「あ、あの?」
ドキドキドキ。何で抱きしめてきたのかな。
「ここでこのまま、押し倒してはダメですよね」
ここで?
「え?!は、はい。ダメです」
「そうですか。じゃあ、早くにマンションに戻りましょう」
びっくりした。もう。佑さんがそういうこと言うとは思ってもみなかった。ああ、まだ顔が火照ってる。
佑さんのマンションまで、また車で戻った。その間も、私の頭の中は結婚の二文字でいっぱいだった。
「私、桜川じゃなくなるんですね」
「そうですね」
魚住伊織になるんだ。きゃ~~~~~。
でも、会社だと、魚住さんが二人いたらややこしいのかな。それに、魚住さんって呼ばれるのもすごく恥ずかしい。
「会社では、桜川で通してもいいんですか?」
「はい」
「なんだか、信じられない」
いまだに、やっぱり信じられないよ。
「会社では、魚住が二人いるとみんなも紛らわしいだろうから、旧姓で通していいと思いますよ」
「は、はい」
にこりと佑さんは笑った。佑さんは余裕なのかな。私だけが舞い上がっているのかな。
マンションに戻り、お風呂も入り、あとは寝るだけ。時刻は11時10分。
ドキドキ。ドキドキ。ちょっとまだ髪が濡れている佑さんが、リビングにやってきた。今日はスエットなんだ。
「先に寝てていいですよ。仕事をしますんで」
「え?」
「一人寝、寂しいですか?」
コクンと思わず頷くと、
「じゃあ、テレビか映画でも見ていて下さい」
と、言われてしまった。
「あ、お仕事、頑張って下さい」
「はい」
にこりと微笑むと佑さんは、仕事部屋に行ってしまった。
一人寝も寂しいけど、リビングで一人も寂しい。
でも、仕事持ち帰ったんだもん。しょうがないよ。
ああ、だけど、やっぱり一人でテレビを観ていても、ただ、寂しいだけ。
でも、ものは考えようだよ、私。同じ部屋にいないとはいえ、すぐそこに佑さんがいるんだよ。ここで待っていたら、あと何十分かしたら、佑さんの顔が見れるんだから。
家で一人ぼっちでいるのとは違う。
そんなことを思いつつ、ぼけっとテレビを観ていると、バタンとドアが閉まる音がして、佑さんがリビングにやってきた。
「佑さん、お疲れ様です」
「あ、眠そうですね。くす」
「い、いいえ。そんなこと…」
「待たせてすみません。寝ましょうか」
「はい」
時刻は、12時5分。もう、寝る時間だよね。
電気をつけず、佑さんはベッドの掛け布団を持ち上げると、
「どうぞ」
と手招きをした。
ドキン。ね、寝るだけだよね。
「はい」
ベッドの上にもそもそと乗っかり、寝転がると佑さんもその隣に寝転がった。
「伊織さん…」
「はい」
うわ。優しい目で見てる。ドキドキ。そして、キスをしてきた。
佑さんのキスって、優しい。
それから、抱き寄せられた。ギュッと力強く抱きしめてきて、チュッとおでこにキスをしてきた。
ドキドキ。これじゃ、寝れそうもないよ。
「明日も休みですし」
「はい」
「いいですよね?」
「……は?」
「寝坊してもいいし」
「あ、はい」
「仕事にも影響しないですし」
「………はい」
ドキ。ドキ。あ!パジャマのボタン、外してる。きゃあ。
髪を優しく撫でられた。そして、また優しくキスをしてきた。
あ~~~~~~~~~~~。幸せだよ~~~~~~~~~~。
昨日も、佑さんの腕の中で寝た。今日も佑さんの腕の中で眠りに着く。
佑さんのぬくもりをいっぱい感じながら。
佑さん、優しい。なんでこんなに優しいんだろう。私に触れる指も見つめる眼差しもキスも全部。
明日、仕事がないから大丈夫ですよね、と言われたけど、明後日の仕事が、ちゃんとできるか心配だ。
翌日は、ゆっくりと午前中を過ごし、午後から結婚指輪を見に行った。お昼は外で食べた。街を歩く時には、佑さんは私の手を握ってくれる。
その手も優しくって、あったかくって、顔がにやけてしまう。
これから、もっと寒くなるけど、こうやって手を繋いでいたらあったかいし、夜寝る時だって寒さを感じないですむんだな。
昨日の晩も、ベタッと佑さんの足に足をくっつけて寝た。あったかかった。佑さんの体温ってあったかい。
あ~~~。ただ、街を歩いているだけなのに、何、この充足感。それも、これから結婚指輪を見に行くんだよ?!なんか、信じられないよ。私の人生にこんなことが起きちゃうだなんて!
ジュエリーショップに入り、ドキドキしながら指輪の入っているショーケースを覗いて見た。
「どれがいいですかね」
私の隣から、佑さんが顔をくっつけて聞いてきた。
ドキン。
「え、えっと」
戸惑っていると、
「いらっしゃいませ。エンゲージリングをお探しですか?」
と、店員さんが聞いてきた。
「はい」
佑さんはなんのためらいもなく、店員さんに答えている。私なんて、お店に踏み込んだ時からドキドキで、クラクラしているというのに。男性に指輪を買ってもらった経験もないし、こんなお店に入った経験もないよ。
「伊織さんは、どんな指輪がいいですか?」
「え?!」
あ、やばい。声、裏返っちゃった。
「わ、私は、えっと、誕生石…とかで」
「何月生まれですか?」
店員さんに聞かれた。1月ですと答えると
「誕生石はガーネットですね」
と、教えてくれた。
ガーネット。見てみると、あまり、これといったものがない。
「僕の勝手な考えなんですが」
「…はい」
「伊織さんの指には、可愛らしく光るダイヤの指輪が似合うと思うのですが」
「ダイヤ?」
そんな高い指輪。
「い、いいんです。そんな高価なものもらえません」
「伊織さん、もしかして、自分には高価なものは相応しくないとか思っていないですか?」
なんでわかったの?
「僕の奥さんになる人ですよ。謙遜だったらいいんですが、本気で自分を卑下しているとしたら、僕のことまで価値を下げていることになりますよ」
「え、そんな。佑さんの価値を下げるなんてことは」
なんで?ダイヤの指輪を選ばないと、そうなっちゃうの?
「僕が選んだ人ですよ。僕がそんなに価値のない人を選ぶとでも思いますか?」
「え?」
「他の誰よりもすごい人です。この僕が結婚したいと思ったくらいなんですから。わかっていますか?その辺のこと」
私の顔をじっと見て、佑さんはそう言った。その言葉に嬉しいやら、恥ずかしいやらで俯くと、佑さんは、
「あ、しまった。すみません。えっと。ダイヤの指輪を見たいんですが」
と、慌てたように店員さんに言った。
「はい。では、可愛らしいデザインのものを選んできますからお待ちくださいね」
店員さんはそう言うと、別のショーケースの方に行った。その間、
「つい、店員がいるのを忘れて、すごい発言をしてしまいましたよ」
と、佑さんは耳を赤くして私に呟いた。
わあ。佑さんが照れてる!
「そ、そうですね」
そう言いつつ、私もさっきの佑さんの言葉を思い出し、また赤面した。
「顔、あつ」
そう言うと、佑さんはくすっと笑った。
いくつか、店員さんが持って来てくれた指輪をはめてみた。
「これ、一番伊織さんにしっくりくると思いますが、どうですか?」
そう佑さんが言った指輪は、実は私もいいなと思っていたものだった。やっぱり、佑さんの見る目は素晴らしい。
「はい。私も、これ、いいなって思いました」
でも、待てよ。値段は?いくらなの?と、気にしていると、
「じゃあ、これにしましょう。あと、結婚指輪も見たいんですが」
と、佑さんは店員さんにあっさりとそう言っていた。
いくら?いくらだったの?私、まったくそういうことも考えず、これがいいなんて言っちゃったけど。
結婚指輪はシンプルなものに決めた。そして、お店を後にした。
「この近くに、入ってみたいカフェがあるんですよ。いいですか?そこに行っても」
「はい」
佑さんが入ったお店は、大人のムードのあるお洒落なカフェだった。そこで、コーヒーを頼んだ。
「…うん。旨いな」
佑さんはコーヒーを飲むと、納得したように頷いた。
「あの、指輪なんですけど」
「はい。いつ渡しましょうか?…今、ここでもいいですか?」
「いえ、あのっ」
どうしよう。いくらしたんだろう。会計の時もそばにいるのが悪い気がして、ちょっと離れていたからわからない。それに、カードで支払っていたみたいだし。
「その…、ダイヤだし、高かったんじゃ…」
「相場がよくわからないんですが。でも、気にしないでいいですよ?」
「そんなわけには」
「僕が今までかけてたものは、車くらいですから。それも、そんなに高い車ってわけでもないし」
「え?」
「金、あまり使わないんですよ。趣味も映画鑑賞くらいで、あとは仕事ばかりしていたもので」
「…」
それって、つまり、お金があるから心配しないでもいいってことなのかな。
「結婚する気はなかったので、結婚資金に貯めていたわけではないんですが…。まあ、独身貴族を十分に楽しめるようにと、けっこう貯金していましたし」
「それを指輪に使ったりしたら、申し訳ない」
そう慌てて言うと、佑さんがぎろりと睨んできた。
うわ。怒らせたかな。
「そんな気遣いは無用です。はい、伊織さん、左手出して下さい」
「え?はい」
左手を膝の上からテーブルの上に移動した。う、緊張で震える。
佑さんは、箱から指輪を出して優しく薬指に指輪をはめてくれた。
ドキン。指が熱を帯びた。佑さんに触れられただけで。
「……似合ってますよ?」
「……あ、ありがとうございます」
「くす。涙目になってる…」
そう言うと佑さんは優しい目をして、にこりと微笑んだ。私は感動して、目がうるうるしていたと思う。佑さんの笑顔がぼやけて見えたから。
左手の指輪を眺めた。佑さんが選んでくれた指輪…。
「不思議な感覚になりますね」
「え?」
「指輪です。女性に贈ったのは初めてですが…。なんていうのかな。こう…」
佑さんはしばらく、じっと私の指を見つめて黙り込んだ。
「……」
ドキドキ。なんだろう。指を見つめた後、私の目を見つめてきた。
「伊織さんは、僕のものだ…みたいな、そういう独占欲っていうのかな」
え?
「すみません。いい表現じゃないですね。でも、どこかで安心感があるっていうか、ほっとした気持ちになったっていうか」
ほっとした?
「………。嬉しいんですよ。単純に、ああ、僕の伊織さんなんだなあって思えて」
ドキッ。僕の伊織さん?なんか、それって、恥ずかしいような嬉しような。
「こんなこと言っている自分も、指輪を贈っている自分も、伊織さんを目の前にして幸せに浸っている自分も、なんだか、信じられないですけどね」
「え?」
「数年前の僕が今の僕を見たら、ものすごく驚くと思いますよ」
くすくすと佑さんは笑うと、またコーヒーを一口飲んだ。




