第68話 お姉さん ~佑編~
「わかった。ちゃんと紹介するし、話をするからこっちに座って」
伊織さんの手を引き、ダイニングに移動した。姉もダイニングの椅子に座り、
「桜川伊織さん、僕の部下なんだ」
と説明した。
「部下?部下ってだけじゃないわよね?こんな休みの日のこんな時間にいるんだから」
「…付き合っているよ。ちゃんと、結婚を前提に」
「本当だったんだ。彼女がいるって!え?今、なんて言ったの?佑」
「だから…」
結婚する。その言葉を姉に言うのを一瞬ためらった。
「結婚を前提にっていうことは、結婚するの?」
姉がじろじろと伊織さんを見ている。伊織さんは俯いて、小さくなっている。ここは、はっきりと姉に言って納得してもらわないと。
「結婚するよ。近いうちに籍も入れようと」
「ほんと?あんたが?結婚?!本気!?!!」
はあ?なんだってそんなことを聞くんだ。
「……本気だけど。冗談でこんなこと言うわけないだろ」
「…だって、あんた、ずっと独身でいるって言ってたし。結婚する気なんかまったくない感じだったじゃないよ。それも、つい最近まで…。何よ、何が起きたわけ?あ!!そうか、できちゃった婚」
「違う!」
「違うの?!じゃあ、いったいどんな心境の変化?」
「うるさいな。だから、知られたくなかったんだ。どうせ、あれこれ興味本位に聞いてくるんだろうなって」
「そりゃそうでしょ。独身を通すって言ってた弟が、いきなり結婚するって言ったら、そりゃおったまげるわよ」
そう言うと、姉はまた伊織さんをじっと見て、
「伊織さんだっけ?そうか~~~。ふ~~~ん」
と、見定めるように言った。
感じ悪いな。いったい、なんなんだよ。
「なるほどね。結婚したくなるくらいの子が現れたってことか~~~。ほほ~~~~」
「うるさい。そんなにじっくりと伊織さんを見るなよ。伊織さんが困っているだろ」
「あら、あらあら」
「なんだよ」
「可愛いわね、佑」
「は?!」
可愛い?
「そうか。伊織さんか。うん。納得したわ」
「何を?」
「べた惚れってわけね。うん。守ってあげたくなるような可愛い子だもんね」
べた惚れ?!
「姉貴っ」
なんだって、そんな恥ずかしいことを言うんだ。
「あ、照れた。信じられない。佑が照れるなんて!!ああ、面白いわね」
「面白がるなよな」
「母さんにもさっそく」
姉が携帯を手にした。まさか、今すぐに報告する気か?冗談じゃない。
「やめろよ。母さんに言うと、式をプロデュースするとか面倒なこと言い出すから」
「しないわよ」
「するだろ、絶対」
「しないって。さすがに自分の息子の結婚式は、自分が招待されたいって言っていたしね。ただ、そんな日が来ることはないだろうって、諦めてたけど」
「え…」
「まあ、いいわ。自分でちゃんと母さんには報告しなさい。それから、父さんにもね」
……。父さんに…。
「いい機会でしょ?あんた、離婚してから一回も会っていないんだし」
「……そうだな」
「伊織さんだったら、父さんも賛成するわ」
そうだよな。父さんにもちゃんと報告しないと…だよな。
「まあ、あんたが選んだ人なら、母さんも父さんも反対しないわ」
「……」
「伊織さん、これからも佑をよろしくね」
「あ、は、はい」
「元カノみたいなタイプだと、長続きしないだろうなって思ったのよね。でも、伊織さんなら安心だ」
元カノ元カノって言うなよ。と思いつつも、姉が伊織さんを気に入ってくれて内心ほっとした。
「姉さん…」
「何?」
伊織さんを気に入ってくれてありがとう…とはさすがに言えないよな。
「……いや。いろいろと決まったら、ちゃんと報告するよ」
「わかった。楽しみに待ってるわ」
「うん」
「じゃあ、伊織さん。お二人の邪魔して悪かったわ。またね」
姉は、どこか嬉しそうに帰って行った。そして、伊織さんは姉が帰ったあと、へなへなとしゃがみこんでしまった。
「伊織さん?大丈夫ですか?!」
「は、はい。腰が抜けちゃって」
そんなに緊張していたのか。まあ、あの姉の勢いは、さすがに伊織さんにはきついよな。
リビングに伊織さんを抱きかかえ、ソファに座らせた。
「すみませんでした。私、ろくな挨拶もできなかったし、話も出来なくて」
「いいんですよ。突然押しかけてきた姉の方が悪いんです。伊織さんにも迷惑かけてすみません」
「い、いえ」
「あんな姉ですが…、まあ、いいところもあると思うんで」
「優しいですよね」
「…は?」
「佑さんと目が似ていました」
「姉のどこが優しい?」
「え?どこがって…。目とか」
目が僕と似ていて優しい?
姉の目も僕の目も優しくないだろう。僕の目がきついと言われたことなら何度もあるし、姉の目を優しいと思ったこともない。
面白いよな、伊織さんは。
伊織さんの隣に並び、
「一緒に父に、会いに行ってくれますか?」
と聞いてみた。
「はい、わ、私なんかでよければ」
私なんか?まったく。伊織さんはすぐに自分を否定的に言うよなあ。
「伊織さんじゃないとダメなんですよ?他の誰かじゃダメなんです。わかっていますか?」
「え、えっと」
「僕と結婚するのは、伊織さんなんですから」
「そうですよね。すみません」
「……早いうちに行きましょう。でないと、決心がにぶる」
「え?」
「すみません。姉が言うように、もう10年以上会っていなくて…。かなり、会いづらいんです」
あ、伊織さんの顔が沈んだ。僕が情けなく見えたのか…。
「……不甲斐ない。情けないやつ。そう思っていますか?」
「いいえ、全然!!」
「いつか会わないと…、いつか父とはちゃんと向かい合わないと…とは、思っていたんですが」
「大丈夫です。私、佑さんがたとえ情けないところを見せたとしても、そんなところも好きですから」
「え?」
「好きって言うか…。心を開いてくれているみたいで、嬉しいって言うか」
嬉しい?
「私に頼ってくれているのかなって思えるし、こんな私でも役に立てるのかなって、嬉しいし」
「…こんな私って…。伊織さんは僕にとって、もうすでにかけがえのない存在になっているわけですから、すごい存在なんですよ?」
「え?!」
「多分、姉も納得していたけど、わかったんだと思います。どうして僕が独身より結婚を選んだのか」
「……」
「伊織さんを見て、わかったんだと思いますよ」
「何をですか?」
「だから、伊織さんが僕にとって、大きな存在だってことをです」
「…で、でも、ちょっと会っただけですよね」
「それでも姉にはわかったんですよ」
僕がそう言うと、伊織さんの目は潤んだ。
「心強いです」
「え?」
「伊織さんが一緒に父と会ってくれるのはとても、心強いです」
「…わ、私、何ができるかわからないけれど、頑張ります」
頑張る?
可愛い。思わず笑いが込み上げる。
「頑張らなくてもいいですよ」
面白いよな。真剣な目で、力強い口調で言ってくるんだから。
ギュ。思わず抱きしめた。
伊織さんといると、優しくなれる。
自分が出せる。正直になれる。そして、強くなれる…。
伊織さん、今日も泊まっていってくれるよな。そう思いながら、一緒に夕飯の買い出しに行った時に聞いてみた。
「伊織さん、明日の予定は?」
「何もないです」
「じゃあ、今日も泊りでいいですね」
「え?それは、ちょっと」
「?」
何か泊まるのに困ることでもあるのか?
「あの、着替えがないから、その」
「ああ、そうか」
着替えか…。そうだよな。着替えとかうちにあれば、いつでも泊まれるんだよな。でも、どうせなら…。
「もう、一緒に住んじゃいましょうか」
「え?」
「すぐにでも服とか、化粧品とか、必要なものをうちに運んだらどうですか?それから、徐々に伊織さんの荷物をうちに持って来たら…」
「いいんですか?」
「もちろんです。今日からでも一緒に住みたいくらいなんですから」
そう言うと。伊織さんはうっとりと遠くを見つめて、口元を緩ませた。
「伊織さん?」
「はい?」
「大丈夫ですか?」
「え?何がですか?」
「なんか、意識がどっかに飛んでいましたよね」
「すみません。喜びに浸っていました」
「あ、ははは。そっか。どうりで」
「え?どうりでって?」
「顔、にやついていたので」
あ、真っ赤になった。それに両手で顔を隠してしまった。可愛い。
「あはは。大丈夫ですよ。僕もにやけていますから。昨日からずっとにやけていますよね?」
「いいえ。昨日からずうっと、優しい表情をしています」
「優しい?……にやついていますよね?」
「いいえ!」
「あばたもエクボってやつですね、それは…」
まったく、ただにやけているだけなのに、優しい表情をしているなんて、伊織さんも相当おかしくなっちゃっているよなあ。
スーパーからマンションに戻り、夕飯の準備に取り掛かった。伊織さんは洗濯物を取り込み、また正座をして畳んでいる。そして、畳んだものをクローゼットにしまいに行った。なんだか、すでに一緒に住んでいる…、もしくは夫婦みたいだよな。
「できましたよ、食べましょうか」
「はいっ!」
伊織さんは嬉しそうに食卓に着いた。そして、今日もまた美味しそうにご飯を食べる。
「美味しい。幸せです」
くす。本当に幸せそうに食べるもんなあ。
一人でいる食卓よりも、明るく見えるのはなんでなんだろうな。
夕飯が終わり、伊織さんのアパートまで車で行った。送るためじゃない。当面の間着る服なんかを取りに行くためだ。
アパートに着くと、伊織さんは、
「お茶でも飲んで待っててください。すぐに用意します」
と、お茶を入れてテーブルに持って来てくれた。
それから、洗面所に行ったり、隣の部屋に行ったりとバタバタし始めて、
「これと、ああ!あれもいるかな」
と、ぶつぶつ言いながら、旅行用の大きなカバンにいろいろと詰めだした。
「徐々に荷物運びましょうね、伊織さん」
お茶をすすりながらそう言うと、
「はい」
と、伊織さんは元気に返事をした。
「今年中に引っ越しませんか。アパート、今月までの契約ってことにして」
「え?そ、そうですね」
伊織さんは、カバンに洋服を入れていた手を止め、真っ赤になった。
「それから、来週の土曜日が大安吉日なんです」
「え?そうなんですか?」
「はい。その日に籍を入れませんか」
「え?!」
「ダメでしょうか」
「い、いいえ」
「で、急で申し訳ないんですが、土曜か日曜に、父に会いに行ってもいいですか?」
「もちろんです」
そう言って伊織さんは、照れくさそうに俯いた。
「……」
僕もなぜか、突然照れくさくなり黙り込んだ。しばらく二人でモジモジとした後、伊織さんは、ハッと顔を上げ、
「あ、母や父に、籍を入れること報告しておきます」
と真面目な顔をして言ってきた。
「はい」
「課長や部長にも言ったほうがいいんですよね」
「それは、僕から報告します」
「お、お願いします」
「くす」
ぺこりとお辞儀をして恥ずかしそうにしている伊織さんが、思い切り可愛く見える。
「そうだ。指輪も買いに行かないと…ですね。どうですか。明日にでも見に行きませんか」
「指輪?え?結婚指輪ですか?」
「はい。エンゲージリングも一緒に見に行きましょう。あ、すみません。プロポーズする時に、用意すべきでしたよね?」
「い、いいえ。結婚指輪もエンゲージリングもいただけるんですか?」
「……はい。ダイヤでもなんでも、伊織さんが欲しいものでいいですよ」
「ダイヤだなんて…。私、あまり宝石とわかってなくて。指輪もあまりしないので、どんなものでもいいです」
「…遠慮はいらないですよ?」
「本当です」
「じゃあ、誕生石とかにしましょうか」
「はい」
伊織さんは、コクンと頷くと、はにかんだ笑顔を見せた。
僕は思わず伊織さんに近寄り、伊織さんを抱き寄せた。
「あ、あの?」
ギュウ。抱きしめる腕に力を入れると、伊織さんは困ったように聞いてきた。
「ここでこのまま、押し倒してはダメですよね」
「え?!は、はい。ダメです」
「そうですか。じゃあ、早くにマンションに戻りましょう」
伊織さんの体を離し、残っていたお茶を飲み干してお茶碗を洗った。伊織さんも真っ赤になりながら、服などをカバンに詰め込んだ。
そして、車でまた、僕のマンションに戻った。伊織さんはずっと隣で、赤くなりながら、
「私、桜川じゃなくなるんですね」
とか、
「会社では、桜川で通してもいいんですか?」
とか、
「なんだか、信じられない」
と一人でぼそぼそと言っていた。
「会社では、魚住が二人いるとみんなも紛らわしいだろうから、旧姓で通していいと思いますよ」
「は、はい」
コクンと頷き、また真っ赤になっている。本当に面白いと言うか、可愛いと言うか。今、頭の中は入籍することでいっぱいなんだろうなあ。
隣で真っ赤になっている伊織さんを、心底可愛いと思いながら、僕も浮かれていた。
いよいよ、結婚だ。




