第68話 お姉さん ~伊織編~
ドキン、ドキン。胸が早まる。でも、血の気は引いていく。佑さん、思い切り困ったような顔をしている。
ううん。あの顔は面倒くさいとか、そういう顔だ。
「なんか、元カノとは雰囲気違うじゃない?」
お姉さんが佑さんの耳元でそう言った。あれって、内緒話?でも、丸聞こえ。
元カノってどの元カノ?この間のあの人のこと?
なんか、もっと血の気が引いた気がする。
「わかった。ちゃんと紹介するし、話をするからこっちに座って」
佑さんはそうお姉さんに言うと、私の手を引きダイニングに行った。お姉さんもダイニングの椅子に腰かけつつ、私と佑さんをじっと見ている。
佑さんがお姉さんの前の椅子に座り、私はその隣に座った。
「桜川伊織さん、僕の部下なんだ」
「部下?部下ってだけじゃないわよね?こんな休みの日のこんな時間にいるんだから」
「…付き合っているよ。ちゃんと、結婚を前提に」
「本当だったんだ。彼女がいるって!え?今、なんて言ったの?佑」
「だから…」
あ、佑さん、言葉に詰まった。もしや、言いたくないとか?
「結婚を前提にっていうことは、結婚するの?」
お姉さんは、目を見開き、確認するように佑さんに聞いてから、また私の顔をじっと見てきた。
ああ、顔見れないよ。お姉さんって、佑さんと顔の造りが違うし、出しているオーラみたいなのも、ずっと佑さんよりも強い。
声も大きいし、迫力があるっていうか、ちょっと、いや、かなり怖いんですけど。
「結婚するよ。近いうちに籍も入れようと」
「ほんと?あんたが?結婚?!本気!?!!」
「……本気だけど。冗談でこんなこと言うわけないだろ」
お姉さんと佑さん、すんごい温度差がある。
「…だって、あんた、ずっと独身でいるって言ってたし。結婚する気なんかまったくない感じだったじゃないよ。それも、つい最近まで…。何よ、何が起きたわけ?あ!!そうか、できちゃった婚」
「違う!」
あ、佑さんも声がでかくなった。
「違うの?!じゃあ、いったいどんな心境の変化?」
「うるさいな。だから、知られたくなかったんだ。どうせ、あれこれ興味本位に聞いてくるんだろうなって」
「……」
わ。じっとお姉さん、私を見ているよね。思い切り怖い視線を感じる。
「そりゃそうでしょ。独身を通すって言ってた弟が、いきなり結婚するって言ったら、そりゃおったまげるわよ」
おったまげるって…。
「伊織さんだっけ?そうか~~~。ふ~~~ん」
怖い。なんか、見定めてる?こんな子となんで、結婚なんかって思ってる?
「なるほどね。結婚したくなるくらいの子が現れたってことか~~~。ほほ~~~~」
「うるさい。そんなにじっくりと伊織さんを見るなよ。伊織さんが困っているだろ」
「あら、あらあら」
お姉さんは、そう言ってしばらく笑い出した。
「なんだよ」
「可愛いわね、佑」
「は?!」
「そうか。伊織さんか。うん。納得したわ」
「何を?」
「べた惚れってわけね。うん。守ってあげたくなるような可愛い子だもんね」
可愛い子?!誰が?私?
「姉貴っ」
佑さんが、さらに大きな声を上げた。ちょっとびっくり。
「あ、照れた。信じられない。佑が照れるなんて!!ああ、面白いわね」
「面白がるなよな」
「母さんにもさっそく」
お姉さんが携帯電話を手にすると、
「やめろよ。母さんに言うと、式をプロデュースするとか面倒なこと言い出すから」
と、今度は佑さんは怒り出した。
「しないわよ」
「するだろ、絶対」
「しないって。さすがに自分の息子の結婚式は、自分が招待されたいって言っていたしね。ただ、そんな日が来ることはないだろうって、諦めてたけど」
「え…」
「まあ、いいわ。自分でちゃんと母さんには報告しなさい。それから、父さんにもね」
その言葉に、佑さんは俯いて黙り込んだ。
「いい機会でしょ?あんた、離婚してから一回も会っていないんだし」
「……そうだな」
「伊織さんだったら、父さんも賛成するわ」
私だったら?
「まあ、あんたが選んだ人なら、母さんも父さんも反対しないわ」
「……」
「伊織さん、これからも佑をよろしくね」
「あ、は、はい」
びっくりした。思わずお姉さんの顔を見ると、佑さんがよくする優しい目をしていた。
ああ、そっくりだ。さっきは、佑さんと似ていないって思ったけど。
「元カノみたいなタイプだと、長続きしないだろうなって思ったのよね。でも、伊織さんなら安心だ」
え?
なんで?
会って間もないのにわかるの?どうして?
「じゃ、そろそろ帰るわ。お邪魔しました」
そう言うとお姉さんは立ち上がり、玄関に向かって歩き出した。
「姉さん…」
「何?」
「……いや。いろいろと決まったら、ちゃんと報告するよ」
「わかった。楽しみに待ってるわ」
「うん」
「じゃあ、伊織さん。お二人の邪魔して悪かったわ。またね」
ニコリと笑うと、お姉さんは出て行った。私はその場で頭を下げ、お姉さんが玄関のドアを閉めてから、へなへなと床に座り込んでしまった。
「伊織さん?大丈夫ですか?!」
「は、はい。腰が抜けちゃって」
佑さんに抱きかかえられながら、リビングに行った。ああ、情けない。腰が抜けるとは。
「すみませんでした。私、ろくな挨拶もできなかったし、話も出来なくて」
「いいんですよ。突然押しかけてきた姉の方が悪いんです。伊織さんにも迷惑かけてすみません」
「い、いえ」
「あんな姉ですが…、まあ、いいところもあると思うんで」
「優しいですよね」
「…は?」
「佑さんと目が似ていました」
「姉のどこが優しい?」
「え?どこがって…。目とか」
そう言っても佑さんは、納得しないという顔で私の顔を見た。
「伊織さん」
そして真面目な顔をして私の隣に座ると、
「一緒に父に、会いに行ってくれますか?」
と真剣な目で聞いてきた。
「はい、わ、私なんかでよければ」
「伊織さんじゃないとダメなんですよ?他の誰かじゃダメなんです。わかっていますか?」
「え、えっと」
「僕と結婚するのは、伊織さんなんですから」
「そうですよね。すみません」
「……早いうちに行きましょう。でないと、決心がにぶる」
「え?」
「すみません。姉が言うように、もう10年以上会っていなくて…。かなり、会いづらいんです」
ああ、そう言えば、お父さんのこと恨んでいたとか言っていたっけ。
「……不甲斐ない。情けないやつ。そう思っていますか?」
「いいえ、全然!!」
まさか、そんなこと思うわけがない。
「いつか会わないと…、いつか父とはちゃんと向かい合わないと…とは、思っていたんですが」
「……」
佑さん、ちょっとつらそうな顔…。きっと、心の中に何か抱えているものがあるんだよね。
「大丈夫です。私、佑さんがたとえ情けないところを見せたとしても、そんなところも好きですから」
「え?」
「好きって言うか…。心を開いてくれているみたいで、嬉しいって言うか」
「……」
「私に頼ってくれているのかなって思えるし、こんな私でも役に立てるのかなって、嬉しいし」
「…こんな私って…。伊織さんは僕にとって、もうすでにかけがえのない存在になっているわけですから、すごい存在なんですよ?」
「え?!」
かけがえのない、すごい存在?!
「多分、姉も納得していたけど、わかったんだと思います。どうして僕が独身より結婚を選んだのか」
「……」
「伊織さんを見て、わかったんだと思いますよ」
「何をですか?」
「だから、伊織さんが僕にとって、大きな存在だってことをです」
「…で、でも、ちょっと会っただけですよね」
「それでも姉にはわかったんですよ」
そう言うと、佑さんは優しく微笑んだ。
「心強いです」
「え?」
「伊織さんが一緒に父と会ってくれるのはとても、心強いです」
「…わ、私、何ができるかわからないけれど、頑張ります」
わけもわからずそう言うと、
「ぷっ」
と佑さんは吹き出して、
「頑張らなくてもいいですよ」
と、優しく笑った。
その日、佑さんは1日優しかったし、ずっと柔らかい表情をしていた。そして時々、私の髪を撫で、優しくキスをしてきた。
そのたび、心がキュンっとした。
お昼は、佑さんがうどんを作ってくれた。美味しかった。夜は、日も傾いてきた頃、買い物に一緒に出た。私はまだ、すっぴんだった。
「すっぴんのまま、出たりしていいんでしょうか」
「え、なんでダメなんですか?可愛いのに」
可愛いをやたらと連発され、そのたびにどういう反応をしていいか困ってしまった。
スーパーまでの道のり、佑さんはすっと手を握ってきた。
ああ、なんか、これぞ恋人!って感じだよね。そう思いつつ、スキップしそうになるのを堪えた。
手を繋いで、スーパーにお買いもの。これは誰が見たって恋人か仲のいい夫婦。前までは、よそよそしくって、とても恋人に見えなかっただろうに。
「伊織さん、明日の予定は?」
「何もないです」
「じゃあ、今日も泊りでいいですね」
「え?それは、ちょっと」
「?」
佑さんが私の顔を覗き込んだ。
「あの、着替えがないから、その」
「ああ、そうか」
佑さんが無言になった。そして、しばらく黙って歩いていると、突然立ち止まり、
「もう、一緒に住んじゃいましょうか」
と、にこやかな顔で言ってきた。
「え?」
「すぐにでも服とか、化粧品とか、必要なものをうちに運んだらどうですか?それから、徐々に伊織さんの荷物をうちに持って来たら…」
「いいんですか?」
「もちろんです。今日からでも一緒に住みたいくらいなんですから」
うわあ。嬉しい。一緒に住めるんだ。
ドキドキ。そうしたら、毎日こんなふうに一緒にスーパーに行ったり、一緒にご飯食べて、夜も一緒にいて一緒に朝を迎えて…。
一緒に会社に行って、帰りも一緒。ずうっと一緒!
「伊織さん?」
「はい?」
「大丈夫ですか?」
「え?何がですか?」
「なんか、意識がどっかに飛んでいましたよね」
「すみません。喜びに浸っていました」
「あ、ははは。そっか。どうりで」
どうりで?
「え?どうりでって?」
「顔、にやついていたので」
きゃあ。恥ずかしい。顔を両手で隠すと、
「あはは。大丈夫ですよ。僕もにやけていますから。昨日からずっとにやけていますよね?」
と笑いながら佑さんが言った。
「いいえ。昨日からずうっと、優しい表情をしています」
「優しい?……にやついていますよね?」
「いいえ!」
優しくて、笑顔は素敵で、何度きゅんきゅんしたことか。
「あばたもエクボってやつですね、それは…」
私が佑さんに見惚れていると、そんなことを言われてしまった。
スーパーからマンションに戻り、佑さんは夕飯を作り出した。私は洗濯物を取り込んで畳む係り。
あ、キッチンから鼻歌が聞こえてきた。佑さん、鼻歌歌ったりするんだ。ちょっとびっくり。
洗濯物をどこにしまうかも教えてもらったので、しまいに行った。クローゼットを開けると、綺麗に整頓され、洋服や下着まで、ちゃんと綺麗にしまってある。さすがだ。
それを崩さぬように気を使いながらしまった。
そしてダイニングに行くと、なんとも美味しそうな匂いがしてきた。
ああ、なんだか、幸せすぎるくらいの幸せ。
夕飯が終わると、後片付けを佑さんはさっと済ませ、
「車で送ります…と言いたいところですが」
と、言葉を濁らせた。
「あの、電車でも帰れますよ」
忙しいのかな。あ、仕事持ち帰ってるとか。それとも具合でも悪いとか。
「いえ。伊織さん、2~3日分の服を持って、今日からもううちに寝泊まりしませんか」
「え?」
今日から一緒に住むってこと?
「えっと、2~3日分というと、会社も佑さんの家から一緒に行くってことですか?」
「無理ですか?」
ブンブン!思い切り首を横に振った。
「くす。じゃあ、車出します。行きましょう」
「…はい」
ドキドキ。なんか、急展開だ。いきなり、一緒に住むことになっちゃった。
佑さんは、車に乗り込むと、エンジンをかけ、
「ああ、やばいなあ。しまりのない顔をしているんでしょうね、僕は」
と、ちょっと照れくさそうにそう言った。
「いいえ、そんなことないですけど」
今は、照れくさそうな顔がとても可愛い。キュン。
「ずっと浮かれてて…。まあ、会社じゃないんだし、いいですよね?」
「え?はい」
車を佑さんは発進させた。アパートに帰るんじゃなくて、荷物を取りに行くだけ。今日も佑さんと一緒にいられる。
運転している佑さんを見た。あ、本当だ。なんだか、わくわくしている感じが伝わってきた。
とうとう、佑さんと一緒に住むことになってしまった。嬉しいやら恥ずかしいやらで、ドキドキだ~~~。




