第66話 エコヒイキ ~佑編~
その日の夜、僕と野田さん、塩谷で、新たなプロジェクトを展開するために、大手の電機会社の営業を接待することとなっていた。
「甘すぎると思うんですよね」
約束の時間の20分前に店に着き、書類を見ているといきなり塩谷が言ってきた。
「この書類のどこが甘いんだ?」
「違います。主任の態度がです」
「いつだ?先方に甘すぎた態度を取っていたか?」
「だから、そうじゃなくって、桜川さんにですよ」
「いいじゃないですか。新婚なんてそんなもんですって。僕だってあの頃はラブラブで」
「野田さんには聞いていません」
ズバッと塩谷はそう言って、また僕に、
「もっと上司として仕事中は、厳しく接したらどうですか」
と意見してきた。
「……う~~~ん、そうは言ってもなあ」
「なんで、そんなあやふやな態度になっちゃうんですか。主任、いつもはビシッとしているのに」
「仕事中に厳しく接して、桜川さんが傷ついたら、それを慰めるのも僕なんだよ。なんか、それって変じゃないか?」
「慰めなかったらいいじゃないですか」
「まさか。そんなわけにはいかないだろ?彼氏なんだから」
「彼氏だからって、慰めなきゃいけないことないですよ。そんな厳しくされたくらいで凹む桜川さんは弱いんです。だいたい、そんな弱い人と一緒に仕事したくないって、主任言っていましたよね?」
「一緒に仕事をするならね。でも、恋人なら別だろ」
「恋人?」
「…婚約者と言った方がいいのか?」
「婚約者?」
「まあまあ。桜川さんに甘かろうがなんだろうが、塩谷さんには関係のないことなんだから、いいじゃないですか」
野田さんが止めに入った。でも、その言葉でさらに塩谷が怒り出した。
「関係あります。私は主任の仕事のパートナーですよ。仕事の邪魔をするような人、切り捨てたいくらいなんですから」
「塩谷、言い過ぎだ。桜川さんがいてくれるおかげで、僕は仕事を頑張れているところもあるんだからな」
「どこがですか。足手まといなだけですよ」
「塩谷。いい加減にしろよな。僕が選んだ人にそんなにケチをつけないでもいいだろ。野田さんが言うように、それこそ、塩谷には関係のないことだ」
「…でも」
「僕はいいと思いますよ、桜川さん。桜川さんといる時の主任、全然変わりますからね。表情も優しくなるし、桜川さんに癒されているんだろうなっていうのが、わかります」
「癒しって必要ですか?」
「うん。必要なんだよ、塩谷。そんなもの要らないって僕も思っていたけどね」
そこに、先方の人たちがやってきた。すぐに席を立ち、僕らは彼らを出迎えた。
接待は上々。ありがたいことに、そんなに酒が好きな人たちじゃなく、話に夢中になってくれた。話術でいったら、僕も野田さんも得意分野だし、仕事の説明は塩谷が的確に伝えていた。
接待も終わり、塩谷に飲みに行こうと誘われたが、
「帰るよ。まだ仕事も残っているし」
と断った。野田さんも、奥さんが待っているからと早々に帰って行った。
「塩谷も結婚考えたらどうだ?」
「いいですよ」
「でも、家族ができるのもいいかもしれないぞ」
「面倒なだけです。それじゃ、お疲れ様でした」
塩谷と駅で別れた。
家に帰り、持ち帰った仕事をした。それが終わると風呂に入った。風呂から出てリビングに行くと、リビングは静まり返っていた。
テレビもつけないでいると、本当に部屋は静かだ。この辺りは車も少ないし、隣近所の騒音もない。この静けさが心地よかったのに、最近はやけに寂しく感じる。
「早く一緒に住めたらな」
独り言を言いながら、寝室に移動した。ドスン。ベッドに横たわる。ベッドもやけに大きく感じる。
「一人って、寒々しいよな」
また独り言を言っていた。
サイドテーブルに置いた携帯が振動した。あ、伊織さんだ。
>佑さん、お疲れ様でした。今日はミスばかりしてすみませんでした。
気にしていたのかな。だったら、触れないでおいたほうがいいかもな。
>お疲れ様です。明日も朝、一緒に行きましょう。今夜は一人寝で寂しいですよ。
そう返すと、5分くらい返事がなかった。
>私も寂しいです。今夜は真広と一緒にご飯食べました。
やっと返事が来た。溝口さんと食べたってことは、お酒も飲んだのか?
>飲みましたか?二日酔い、大丈夫ですか?
>ビール1杯だけだから、大丈夫です。
>じゃあ、ちゃんとお布団に入って寝てくださいね。風邪、ひかないように。
>はい。おやすみなさい。
>おやすみなさい。伊織さん、早くに僕のマンションに来てください。でないと、かなり寂しいです。
また少し間をおいて、
>はい。
と、それだけ返事が来た。
寂しい寂しいを連発したな。呆れたかな。
伊織さんはどう思っているんだろう。まだ、一緒に住む気はないのかな。
翌朝、淡々と行く支度をしてマンションを出た。ホームでも電車をただ待ち、来た電車に乗り込むと、一気に僕の顔が緩んだ。
「おはようございます」
「おはようございます、伊織さん」
会社までの道のりも、なんだか、足取りが軽くなる。
だが、デスクに着くと、僕の顔はまた表情をなくす。今日は、仕事に集中しようと決めていた。そして、順調に、いや、いつもよりも仕事ははかどっていた。
「溝口さん」
「はい?」
「先ほどお願いした企画書、できていますか?」
「あ、もうちょっとです」
「あと5分で仕上げて下さい」
「あと5分?」
「できますよね」
「……はい」
今、明らかにムスッとした顔をしたよな。
溝口さんは相変わらずだ。仕事は出来ると思う。ただ、やる気に欠ける。だから、いろいろと仕事を任せ、やる気を出すようにしているんだけどな。
「あんなのの、どこがいいの?」
今の、溝口さんだよな。小声で呟いたようだが、ちょうど課のみんなが電話もしていないので、聞こえてきた。
溝口さんを見ると、何やらメモみたいなのを読んで、
「けっ」
と、そのメモをデスクの上に置き、伊織さんの方を見ている。
おいおい。頼んだ仕事はどうしたんだ。そう思いつつ、静かに溝口さんの背後に行き、
「溝口さん、何をしているんですか?そんなことやっている暇ないですよね?」
と、デスクの上にあったメモを手にして読んでみた。
『かっこいいよ。クールに仕事をする佑さん、かっこいいじゃん!』
これ、伊織さんが書いたのか………。ああ、さっきの、「あんなのの、どこがいいの?」の返事か。
それにしても。伊織さん、何を仕事中に書いているんだか。危うくにやつくところだった。
伊織さんをちらっと見ると、伊織さんは下を向いて真っ赤になっていた。
「桜川さんは暇ですか?」
「え、えっと。はい。比較的、今日は…」
伊織さんは、ゆっくりと僕を見た。かなり顔が青ざめている。僕が怒っているとでも思っているんだろうか。
怒れるわけがない。今でも、にやけそうなのを抑えているくらいだ。
「じゃあ、コーヒー入れてもらってもいいですか?」
「は、はいっ」
伊織さんはコーヒーを入れに、すっ飛んで行った。
僕はメモを手にしたまま、デスクに戻った。伊織さんはすぐにコーヒーを持って来てくれた。
「ありがとうございます」
そう言って伊織さんの顔を見た。今も真っ赤だ。
「こういうのは仕事中に書かないように。困りますから」
僕はそんな伊織さんが可愛いと思いつつ、そう言ってさっきのメモを返した。
「す、すみません」
「こういうこと書かれると、仕事出来なくなるんですよ」
伊織さんが、固まった。
「集中力なくなるので、ほんと、やめてくださいね」
そう言うと、ちょっと困惑しているような顔をした。
「すみません。溝口さんの仕事の邪魔をして」
「いいえ。僕のです」
「…は?」
「僕が集中力欠けるんです。また、塩谷に幸せボケしていると怒られますので」
そう言って笑うと、伊織さんは真っ赤になってしまった。
「主任、仕事中にいちゃつかないで下さい」
いつの間にか溝口さんが僕のデスクの横に来ていた。
そして、
「頼まれてた企画書、できました」
とプリントアウトしたものをデスクの上にポンと置いた。
「5分以上かかりましたね」
嫌味も込めてそう言うと、
「これでも、頑張ったんです」
と溝口さんは鼻を膨らました。
「お疲れ様です。じゃあ、今度はこれ、エクセルで表を作って下さい。今日中でいいですよ」
「え~~~~、まだあるんですか」
ぶつぶつと言いながら、溝口さんはデスクに戻って行った。
「あの、私も何か暇なのでしますけど」
伊織さんが、そう僕に静かに聞いてきた。
う~~ん。じゃあ、僕の横でまったりしていてくれますか?それだけで、癒されます。なんてことを頼めるわけもなく。
「桜川さんは、次の締めの請求書の作成をお願いします」
「でも、それはまだ明日でも」
「今日しておけば、明日早くに帰れますよね?」
「はい。そうですけど」
「明日は僕も早めに仕事を終えますから、帰りにデートでもしましょう」
「デート?!」
伊織さん、ものすごく驚いているな。
「はい。ですから、明日の分まで今日仕事を仕上げちゃって下さい」
にこりと笑うと、伊織さんは赤くなりながらデスクに戻って行った。可愛い。
「ちっ。自分の彼女にだけ優しくしちゃって、エコヒイキだ」
今の、溝口さんだよな。
「公私混同してる、信じらんない」
今度は塩谷だな。
ふん。なんとでも言え。エコヒイキだと言われても、小憎らしい溝口さんよりも、男勝りの塩谷よりも、伊織さんが可愛く見えるんだから、仕方ないだろ。
って、そんなことを思っている自分に驚きだ。
昼休憩は、課長に誘われ、近くの定食屋に行った。まさか、桜川さんのことで注意を受けるんだろうか。
「どうだい?色々と進んでいるかい?」
「は?」
「式の段取りとかだよ」
「まだまだです」
「仲人はどうするんだい?」
「まだわかりません」
「まあ、今は仲人もたてないで、式を挙げることも多いけどね」
「そうですね。結婚式もできたら、身内だけで…とも考えています」
「披露宴もかい?」
「そうですね。僕としてはあまり派手にしたくないですし。桜川さんの意見はまだ聞いていませんが」
「そろそろ決めて行った方がいいよね。籍はまだ入れていないんだっけ?」
「近いうちに入れたいんですが…」
「じゃあ、近いうちに一緒に住むのかな?」
「はい」
「僕はね、塩谷さんがあれこれうるさく言っているが、ちょうどいいと思うんだよ」
「ちょうど?」
「桜川さんの柔らかい雰囲気が、君の堅苦しい真面目さを和らげるからね」
堅苦しいと思っていたわけか。
「課にずっと桜川さんがいてくれたらいいのにねえ。でも、結婚して同じ課にはいられないしねえ」
「そうですね」
「君らを見ていると、新婚時代を思い出すねえ」
課長はそんなことを言い、遠い目をした。
いったい、何のために飯を誘ったのかはわからなかったが、まあ、僕らの結婚を喜んでくれているのには間違いない。
周りが祝福してくれるのはありがたいことだよな。
「桜川さんのご両親には、もう挨拶したのかな?」
「はい」
「君みたいな優秀な人なら、反対はされなかっただろう」
「ええ、まあ」
「君のご両親も賛成なんだろ?」
「まだ、報告していませんが」
「え?なんでまた?あんなにいい子なんだから、反対されないだろ?」
「そうですね。やっぱり、会わせた方がいいですよね」
「…なんで、会わせるのが嫌みたいな言い方をするんだい?」
「桜川さんに問題があるわけじゃなくて、親や姉に問題が…。桜川さん、会ったら大変な思いをするんじゃないかってそう思いまして」
「……いや、でも、いつかは会うわけだしねえ」
「そうですよね」
これを機に、親父に会いに行ってもいいしな。とは、前々から思っていたことだ。だが、なかなか決意ができないでいる。
午後、伊織さんは仕事に没頭していた。僕も、明日早くに仕事を終えられるよう、今日できることは全部片づけた。そして、6時を過ぎ、
「伊織ちゃん、明日フラワーアレンジだよね」
と、鴫野さんが聞きに来た。
「あ!そ、そうだね。金曜だね、明日」
伊織さんはそう言って僕をちらっと見た。
「鴫野ちゃん、明日、伊織ちゃんは主任とデート」
「そうそう。だから、アレンジ教室はまたお休み」
「え、そうなの?」
溝口さんと、深井さんにそう言われ、鴫野さんは僕を見た。
「すみません。先にデートの約束を入れました」
そう僕が言うと、鴫野さんは慌てたように、
「いいんです。デート楽しんで下さい」
と言って、その場を去って行った。
しん。と一瞬、部内が静かになり、そのあと、僕と伊織さんがみんなからの視線を浴びた。
「仲いいねえ」
そんな声が聞こえてきて、また伊織さんは真っ赤になっていた




