第66話 エコヒイキ ~伊織編~
ランチを食べ終わり、真広とコーヒーを入れてデスクに戻った。するとすぐに、
「あ、桜川さん、ちょっといいですか」
と佑さんが声をかけてきた。
「はいい?」
何?なんだろう。佑さん、声が怖いけど、また私失敗したのかな。
佑さんは自分の席を立ち、私のところまで来ると、デスクの上に発注ファイルを広げながら、
「この□△電気なんですが、工場から今月の20日じゃないかと指摘があってですね」
と、淡々と説明しだした。
「あ!!!!」
そうだよ。私、なんで来月にしてるの!?
「すみません!」
佑さんに向かって頭を下げ
「す、すぐに工場に連絡を」
と電話の受話器を持とうとした。
「しました。納期の確認もして、工場にも連絡をしたので大丈夫です」
わあ。佑さんがすでに手配してくれたんだ。
「すみませんでした。迷惑をかけて…」
ああ、失敗。きっと佑さん、ものすごく呆れてるよね。って、佑さん、なんか、顔が近いかも。
「いえ。ちゃんと今月20日には届けられるのでいいんですが」
わあ。顔、真横にある。なんで?なんでこんなに近いの?息がかかりそうだよ。
「………う」
固まっていると、佑さんがさらに私の顔スレスレまで顔を持って来て、私の顔を覗き込んだ。
「主任、顔、近いです」
「あ、すみません」
佑さんはすぐにパッと顔を離した。よかった。今、息もできないくらいだったよ。
「え~~とですね」
佑さんは咳払いをして、ちょっと困っている様子だ。
「あ、あの。これからは気を付けます」
「ああ、はい。気を付けて下さい」
「すみませんでした」
もう1度謝ると、
「今日は、いつにも増してミスが多いんじゃないの?」
と、塩谷さんがきつい口調で言ってきた。
「す、すみません」
本当だよね。自分でも呆れる。
「はあ」
え、今、佑さんため息ついた。
そりゃそうだよね。呆れるよね。でも、ショック。
「違いますよ。今のは、なんて言うか、自分に対してのため息と言うか」
「え?」
佑さんに対してっていうこと?なんで?
「……今後は気を付けます」
「は?」
なんで?
「伊織さんの仕事に支障がないよう、気を付けます」
「……え、佑さんがなんで?」
私のミスを佑さんが全部背負うってこと?佑さんの責任になっちゃうってこと?
「あ~~、ですから、そのですね」
今にも涙がボロッと出そうになっていると、佑さんがコホンと咳払いをして私のパソコンのマウスを動かし出した。そのあと、パチパチパチッと素早くインプットをして、
「これ、後で消しておいて下さい」
と、耳元で言った。
え、何これ。
『今後は、仕事のある日の前日には、伊織さんを抱かないようにします。すみませんでした』
は?
ひゃあ!!!
慌てて消した。そして佑さんを見ると、涼しい顔をして仕事をしていた。
なんでこんなこと書いちゃうの。すっごいびっくりしたよ。
っていうか、佑さんにはもろバレだったんだ。一昨日のことを意識しまくって、仕事をミスしていたのも。
恥ずかしい~~~~~!!!
いや、そんなの、もろばれちゃうに決まっているか。
あ、そうか。半分は僕の責任って、そういうこと。
ああ、顔、熱い。熱すぎる。
「大丈夫?伊織」
「え?」
「なんか、顔真っ赤だけど」
「と、トイレ行ってくる」
慌てて席を立った。みんなに顔を見られないようにしながら、トイレに駆け込んだ。そして鏡を見ると、本当に真っ赤だった。
ダメだ~~~~~~~~。免疫ない分、あんなことがあると、尾を引く。もう佑さんの顔もまともに見れないかもしれない。
「伊織?」
「真広?」
トイレのドアを開け、真広が入ってきた。
「心配で見に来ちゃったよ。さっき、主任、なんかパソコンに打ってたよね。あれ、何?」
「ななな、なんでもないよ」
「その動揺の仕方はただ事じゃないよね。嫌味でも書いてあったの?」
「まさかっ」
ブンブンと首を横に振ると、真広はさらに私に迫ってきた。
「ここじゃ話せない」
「大丈夫。個室全部空いてるってことは誰もいないから」
「…あ、あのね。実は一昨日の夜に、佑さんうちに泊まったの」
「え?!じゃあ、あげたの?」
「し~~~~。声、でかい。廊下に誰かいるかもしれない」
「ごめん。小声で話すね。で、あげちゃったの?」
コクンと頷くと、真広はにやっと笑った。
「それで、昨日から変なんだ、伊織」
「そうなの。今日もミスばっかりして」
「でも、それって、主任のせいでもあるわけだし」
「うん。だからさっき、半分は僕の責任って」
「あ、そういうこと」
パンと手を叩き、真広が納得したって言う顔をした。
「パソコンにはね」
さっき書いてあった文章を耳元で真広に伝えた。真広はなぜか、大笑いをしてしまった。
「これ、内緒だよ」
「わかった。誰にも言わない。でも、うける。あの主任が…」
あはははは。真広の笑いは止まらない。
「二人で席外してたら、また怒られるから戻るね」
「主任に怒られるの?」
「ううん。ほら、もっと怖い人がいるじゃん」
「ああ、塩谷ね」
真広の笑いは止まり、声のトーンが下がった。そして、
「私、本当にトイレ行きたくなったから、先戻ってて」
と、個室の中に入って行った。
顔の火照りはおさまった。とぼとぼと2課に戻り静かに席に着くと、
「怒られて泣いてたわけじゃないよね?」
と、心配そうに北畠さんが聞いてきた。
「は?いいえ」
「主任、怒ってなかったの?」
ぼそぼそとまた小声で北畠さんが言った。
「え、全然」
小声で返事をすると、
「あら、そうなんだ」
と、ちょっとつまらなさそうに北畠さんは呟いた。
私のこと心配なの?それとも、怒られた方がいいわけ?わかんないリアクションだなあ。
その後は、なるべく佑さんのことを見ないようにして仕事に集中した。でも、5時半を過ぎると、
「お疲れ様です。桜川さん、今日僕は、接待なので一緒に帰れないんですよ。残業はするんですか?」
と、私のデスクのすぐ横まで来て佑さんが聞いてきた。
「いいえ。今日はもう仕事終わったので帰ります」
「そうですか。じゃあ、気を付けて帰って下さい」
「はい。あ、主任も気を付けて…」
佑さんと目が合った。それだけで顔が火照った。
「主任、直ぐに行きますよ」
そう塩谷さんが言うと、
「おう、わかった」
と、佑さんが上着を着てカバンを手にした。
塩谷さんと一緒なんだ。あ、でも、野田さんも上着を羽織ったから、塩谷さんと二人ってわけじゃないんだよね。
ちょっとほっとした。だって、塩谷さんは佑さんのことが好き。きっと、諦められていないよね。
帰りは真広とご飯を食べに行った。和食屋で、
「ビール1杯くらいならいいよね」
と、真広に言われてグラスでビールを頼んだ。
「はあ。塩谷さんって、佑さんといつもいるよね」
ビールを一口飲んでから、そう呟いた。
「何、どうしたの、いきなり」
「塩谷さんって、佑さんのこと好きだよね」
「崇拝してるね。あれは」
真広はそう言うと、ゴクゴクっとビールを半分くらい飲み、ぷは~~っと息を吐いた。
「……」
「心配いらないよ。どう見たって主任、部下としか見ていないじゃない」
「うん。そうなんだけど。塩谷さんの言っていることも当たってるよなって」
「なんて言ってたの?」
「私みたいなのは認めないって」
「なんで、塩谷に認められないとならないわけ?関係ないじゃん。伊織のことを主任は選んだんだから、もっと自信もちなよ」
「ありがと」
何度も自信を無くした。私なんかでいいのかな、って何度も思った。
「私はどっちかっていったら、あんな主任で本当にいいの?って思っちゃう」
真広が頬杖をついて、そう聞いてきた。
「…いいの。だって、主任はすごく素敵な人だもん」
「酔ってる?」
「酔ってるかも。でも、シラフでも同じこと言えるよ」
「はいはい。のろけまくりだね、いいね」
その後は、岸和田さんの話を聞いた。のろけより、どっちかって言ったら愚痴に近い。でも、本気で真広は嫌がっているわけじゃなさそうだから、ま、いいかな。
真広と別れてから、一人寂しくアパートに帰ってお風呂に入り、出てから佑さんにメールをしてみた。もう11時だし、接待も終わっているよね。
>佑さん、お疲れ様でした。今日はミスばかりしてすみませんでした。
すると、すぐに、
>お疲れ様です。明日も朝、一緒に行きましょう。今夜は一人寝で寂しいですよ。
と、びっくりするような返事が来た。
なんか、佑さん、最近変かも。
ううん。こういうの言ってくれるの、本当は嬉しい。だけど、ものすごく照れちゃう。
>私も寂しいです。今夜は真広と一緒にご飯食べました。
>飲みましたか?二日酔い、大丈夫ですか?
>ビール1杯だけだから、大丈夫です。
>じゃあ、ちゃんとお布団に入って寝てくださいね。風邪、ひかないように。
>はい。おやすみなさい。
>おやすみなさい。伊織さん、早くに僕のマンションに来てください。でないと、かなり寂しいです。
ひゃあ!まただ。なんて返そう。でも、ここは素直に。
>はい。
ああ、それだけになっちゃった。
布団に携帯を持って潜り込み、もう1度佑さんからのメールを読み返した。
嬉しい。でも、照れる。でも、やっぱり、すっごく嬉しい。
「今すぐにでも、飛んでいきたいよ~~~~」
ジタバタと足を動かし、もう一度読み返した。そんなことを繰り返し、寝たのは2時過ぎだった。
翌日も、佑さんと一緒に会社に行った。佑さんは電車に乗ってきた時から表情が優しく、私の話を聞いて「くす」とよく笑っていた。
でも、オフィスに着き、自分のデスクに座るとクールな顔つきになる。電話をしていても、PCを打っていても、野田さんや塩谷さんに何か指示を出している時も、クールな顔つきのまま。たまに、眉間に皺を寄せ考え込んでいる時もあれば、ものすごく集中して、仕事に打ちこんでいる時もある。
そして、
「今は休憩中じゃないですよ。私語は控えてください」
と、隣の課の女性たちを注意することもある。隣の課の女性陣は、ものすごく嫌そうな顔をして佑さんを睨んでいた。ああ、また佑さん、嫌われたかも。
「溝口さん」
「はい?」
「先ほどお願いした企画書、できていますか?」
「あ、もうちょっとです」
「あと5分で仕上げて下さい」
「あと5分?」
「できますよね」
「……はい」
厳しい表情でそう言われ、真広はむすっとした顔で頷いた。そして私の顔を見て、
「偉そうに。何様?」
と、口だけ動かした。それから、
「あんなのの、どこがいいの?」
と、小声で呟いた。
「かっこいいよ。クールに仕事をする佑さん、かっこいいじゃん!」
私は、口にするのは恥ずかしいので、メモに書いて真広に渡した。
「けっ」
真広はそれを見て、鼻で笑った。
酷い!
「溝口さん、何をしているんですか?そんなことやっている暇ないですよね?」
知らないうちに真広の背後にいた佑さんが、そう言いながら真広の手元にあったメモを手にした。
わ~~!佑さんに見られた!!!
「……」
佑さんはメモを読み、私の顔を見た。ひゃあ。私は慌てて下を向き、仕事をしているふりをした。
「桜川さんは暇ですか?」
ドキーッ!!
「え、えっと。はい。比較的、今日は…」
もしや怒ってる?恐る恐る顔を上げると、佑さんは優しい表情をしていた。おや?
「じゃあ、コーヒー入れてもらってもいいですか?」
「は、はいっ」
私はコーヒーを入れに、すっ飛んで行った。
良かった。呆れたり、怒られたりするのかと思った。
佑さんにコーヒーを入れ、それを佑さんのデスクまで持って行くと、
「ありがとうございます」
と、佑さんはにこりと笑い、そのあとに、
「あ、こういうのは仕事中に書かないように。困りますから」
と、さっきのメモを返してきた。
「す、すみません」
「こういうこと書かれると、仕事出来なくなるんですよ」
真広が?
「集中力なくなるので、ほんと、やめてくださいね」
怒られた。
「すみません。溝口さんの仕事の邪魔をして」
「いいえ。僕のです」
「…は?」
「僕が集中力欠けるんです。また、塩谷に幸せボケしていると怒られますので」
そう言って佑さんはニコリと笑った。
え?
「主任、仕事中にいちゃつかないで下さい」
そこに真広がやってきて、
「頼まれてた企画書、できました」
とプリントアウトしたものを持ってきた。
いちゃつく?私と佑さんが?
その言葉で思い切り動揺していると、佑さんはすごく冷静に、
「5分以上かかりましたね」
と真広に言った。
「これでも、頑張ったんです」
「お疲れ様です。じゃあ、今度はこれ、エクセルで表を作って下さい。今日中でいいですよ」
「え~~~~、まだあるんですか」
ぶつぶつ言いながら、真広は席に戻って行った。
「あの、私も何か暇なのでしますけど」
「……」
佑さん?何で黙って私を見ているのかな。
「桜川さんは、次の締めの請求書の作成をお願いします」
「でも、それはまだ明日でも」
「今日しておけば、明日早くに帰れますよね?」
「はい。そうですけど」
「明日は僕も早めに仕事を終えますから、帰りにデートでもしましょう」
「デート?!」
私の声に、課のみんなが注目した。
「はい。ですから、明日の分まで今日仕事を仕上げちゃって下さい」
にこりと佑さんが微笑んだ。あわわ。さっきから、佑さんが微笑んでいる。仕事中はこんなに笑顔見せないのに。
「ちっ。自分の彼女にだけ優しくしちゃって、エコヒイキだ」
真広の呟きが聞こえてきた。
「公私混同してる、信じらんない」
そう言ったのは塩谷さんだ。
でも、他の男性社員はみんな、ただただニヤニヤしていた。
私は、顔を火照らせたまま、デスクに着いて仕事を始めた。
嬉しいけど、恥ずかしい。佑さん、やっぱり変わった。
ちらっと佑さんを見た。もう佑さんは厳しい表情になり、野田さんとあれこれ仕事の話をしていた。
はう。あの切り替え、すごいよなあ。
そして、昼休憩になると、ロッカールームで同じ部の女性陣に、
「何あれ、あの態度。伊織ちゃんにだけ甘い。甘すぎる」
「もしかして、主任、桜川さんにメロメロなんじゃないですか?」
「ラブラブで悔しい!」
と、騒がれた。
私はどんな反応をしていいのやら、困っていた。




