第64話 昨日と違う ~佑編~
ジリリリ…。
聞きなれない音だ。何の音だ?
目を開けると、一瞬、自分がどこにいるのかわからなくなった。ただ、甘い香りがする。それに、あったかいぬくもり。
だんだんと意識がしっかりしてきた。あったかいぬくもりは、なんだか柔らかい。
ジリリリ。
ああ、伊織さんの部屋に泊まったんだったっけ。
目ざまし時計をバチンと止めた。
「朝か…」
少しだるい。でも、気持ちのいいだるさだ。
すぐ隣で寝ている伊織さんをキュッと抱きしめた。あったかい。そして柔らかい。
伊織さんの素肌を直に感じて、そのなめらかさを堪能しようとしていると、
「あの、お、おはようございます」
と僕の腕の中で、伊織さんがもそもそと動いた。
僕は抱きしめていた腕の力を緩めた。伊織さんはするりと僕の腕から離れてしまった。
「起こしちゃいましたか?すみません」
離れてしまった伊織さんの髪にキスをした。ふわっと可愛い甘い香りがした。
また抱き寄せたい。抱きしめて、そのまま伊織さんのやわらかい素肌にキスをしたい。だが、ぐっとこらえ、
「もう、僕は帰りますが、伊織さんはゆっくり寝てください。寝坊しないよう目覚ましセットしますが、7時でいいですか?」
と聞いた。
「はい」
時計をセットして、
「じゃあ、また会社で。あ、同じ電車に乗れますよね」
と聞くと、
「はい」
と、まだ布団に潜り込んだまま伊織さんがうなずいた。
「じゃあ、車両を変えましょう。いつものより一つ後ろの車両で」
「え?」
「今宮さんに邪魔されたくないですから」
「は、はい」
「寝坊はしないでくださいね」
伊織さんは、布団から顔を半分のぞかせた。可愛い。そのおでこにキスをして、僕は下着を手にして和室を出た。
隣の部屋で着替えを済ませ、洗面所に行った。顔をざっと洗い、髪を適当に手櫛でセットして、歯を磨いて、上着を羽織り、アパートを出た。
外はまだ暗い。それにかなり冷える。スーツだけだと随分と寒くなって来たな。
特にまだ、体中に伊織さんの温もりが残っていて、一気に外気に触れたからか、余計寒さを感じた。
ああ、もっと伊織さんの素肌に触れていたかった。
駅までの道、昨日の伊織さんを思い出していた。
赤くなった頬は、いつもより色っぽかった。蛍光灯に映し出された胸は、とても白くて綺麗だった。
目に焼き付いてしまったな。
柔らかくてあったかい伊織さんの身体、意外と華奢な腕や脚。
髪から香る甘い香り。柔らかくてかわいい唇や耳たぶ。
ああ、ずっと昨夜のことを頭の中で再現しているな。
マンションに帰ってから、シャワーを浴びて頭の中をすっきりさせた。コーヒーを挽いて、トーストを焼く。洗濯物を干して、スーツを着て、全身を鏡に映す。髪の乱れを直し、黙って立ってみる。
「うん。いつも通りだ」
気持ちを引き締めたまま、家を出た。ゴミ捨ての日だから、ゴミ置き場によると、隣の人が井戸端会議中だった。
「あら、おはようございます」
「おはようございます」
それだけ言って、さっさと僕は駅に向かって歩き出した。
捕まってあれこれ言われるのは嫌だからな。特に今日は、気持ちのいいまま出社したい。
いつもよりも早くに駅に着き、一番前に並んだ。伊織さん、ちゃんと車両を変えて乗っているよな。そんなことを思いつつ、早くに会いたくて電車が来るのを待ち遠しく感じる。
まいったな。忘れようとしても、ふとした瞬間に伊織さんのぬくもりや、色気のある顔を思い出す。
ホームに電車が入ってきた。ドアが開き一番に乗ると、伊織さんの可愛い顔が目に飛び込んできた。
「おはようございます」
伊織さんが僕を、とろんと色っぽい目つきで見ながらそう言った。
嘘だろ。朝から、そんな目つきをされて、伊織さんのことをまともに見れなくなった。
「ちゃんと起きれたんですね」
伊織さんのことをちらっと見ながらそう聞いた。
「寝てません。なんか、あのあと目が冴えちゃって眠れなくて」
「すみません。僕が起こしちゃったからですね」
「いえ。そういうわけじゃ」
伊織さんの隣の吊革に掴まると、伊織さんが僕にぴたっとくっついてきた。
「あ、あの。実は、佑さんが帰ってから、一気に寂しくなったと言うか」
「え?」
「恋しくなったって言うか」
ああ、何だって朝から、そんな可愛いことを言うんだ。まいったな。
それも、伊織さんの手が僕の手に触れた。思わず僕は、伊織さんと手を繋いでしまった。
「伊織さん」
「は、はい?」
「今日と明日は、一緒に帰れないですが、金曜から、泊まりに来ませんか?」
「え?」
また、嫌がられるかな。困った顔をするんだろうか。そんなことを思いながら、伊織さんを見ていると、恥ずかしそうに視線を下げ、
「はい」
と頷いた。
OKなのか。そうか。
やばいことに、僕は浮かれてにやけそうだ。伊織さんを見ていると、目じりも下がりそうなので、窓の外を見て、気持ちを必死に落ち着かせた。
だが、伊織さんの視線を感じ、ちらっと伊織さんを見ると、伊織さんはまたウットリとした目で僕を見ていた。
すぐに視線を外に向けた。昨日の朝と距離感も、伊織さんの表情も態度も言動も全然違う。
多分、今の僕らは、はたから見たらかなりいちゃついているカップルだ。朝から、それも通勤途中に手なんか繋いでいるんだからな。
っていうことは、ようやく僕らは、恋人らしくなったということか。
そうか。それもそうだよな。めでたく、伊織さんを抱くことができたわけなんだから。
やばいな。一気に伊織さんとの距離が縮まっただけじゃなく、さらに独占欲と言うか、伊織さんが僕のものになった…みたいな、そんな感覚まで出てきてしまった。
そして、それがなんだか嬉しい。
会社までも僕と伊織さんは一緒に行った。エレベーターに乗ると、同期の人事部の女性が声をかけてきたが、軽くあしらった。
仲睦ましくしているんだから、遠慮くらいしてほしいものだ。
いやいや。待て。以前の僕だったら、朝っぱらから、通勤途中にいちゃつているカップルなんて、この世から排除したいくらいだったよな。それが、今じゃいちゃついている本人だし、邪魔をされてムカついているくらいだなんて、ほんと、自分でも信じられない。
エレベーターを降り、気持ちを入れ替えようと背筋を伸ばした。そして、廊下も颯爽と歩き、IDカードをかざしてドアを開くと、隣でおたおたと伊織さんがIDカードをかざしているのが視界に入ってきた。
「……」
可愛い。
先に伊織さんを部屋の中に入れると、
「ありがとうございます」
と恥ずかしそうにそう言って、僕を見た。それも、上目づかいで。
可愛い。やられた。一瞬にして、顔がほころんでしまう。
「伊織さん、じゃなくて、桜川さん。席にも早めについて下さいね」
「あ、はい」
伊織さんにはにっこりと微笑んだ。そして、くるっと伊織さんに背を向けてからは、顔を引き締めて、そのまま2課に向かった。
「おはようございます」
北畠さんが挨拶をしてきた。おや、いつもよりも早いんだな。
「いつもよりも、遅いんですね」
僕がデスクに座ろうとすると、北畠さんにそう言われた。
「あ、そうですね」
そうか歩く速度が違ったからか。
すぐに塩谷も席に着き、
「おはようございます」
と、挨拶をしてきた。
「ああ、おはよう。今日は元気だな」
「いつも元気ですけど?」
そうか?昨日はなんだか、元気なかったけどな。
PCを開き、仕事を始めた。野田さんと課長もやってきて、
「今日は出張だっけね」
と、課長が話しかけてきた。それから塩谷も呼んで、プロジェクトのことで少し話合い、
「これが、今日の出張先に渡す資料になります」
と、野田さんが数枚の用紙を渡してくれた。
「コピーがいりますね。じゃあ…」
ふっと顔を上げると、伊織さんがすでに席に座っていた。時刻は8時50分。おや、随分と早くに席に着いたんだな。
「桜川さん、今日は早かったですね」
「ははは、はい」
「来てそうそう悪いんですが、コピーお願いできますか?」
「はいっ!」
伊織さんは、いつものようにすっ飛んでコピー室に行ってしまった。そして、またいつものように、僕のデスクに舞い戻ってきて、
「どうぞ」
と、遠慮がちに僕のデスクの上にコピーを置いた。
「ありがとう」
そう小声で言うと、伊織さんは頬を赤らめ、自分のデスクに戻った。
「じゃあ、すぐに出張に行ってきますので、これで」
「頼んだよ、魚住君」
課長に見送られ、野田さんと一緒にオフィスを出た。
「桜川さんって、面白いですよね」
行きの電車で、野田さんが突然話し出した。
「面白いですか?」
「面白いですよ。主任が呼ぶと真っ赤になるし、コピーとか、すっ飛んで行くじゃないですか」
「そうですね」
「あんなこと、主任が来るまでなかったですからね」
「え?そうなんですか?」
「桜川さんと溝口さんは、わりとゆったりと仕事をしていたんです。コピーを頼まれても、は~いって感じで、ゆっくりとした動作でしたよ」
「それで、前の田子主任は何も言わなかったんですか?」
「はい、まあ、急ぎの時には、急ぎだから早めにと、前もって言っていましたし」
「なるほど」
「男性社員もですが、魚住主任が来るまでは、課、全体がゆるかったんですよ」
「そう言えば、着任してすぐの頃は、そんな感じでしたね」
「桜川さんは、緩いところとか、ちょっと抜けてるところが、みんなを癒していましたよ。何年か前は、嫌味な社員がいて、そういう桜川さんが気に食わなかったのか、かなりいじめてましたけど…っていう話は前にもしましたよね」
「はい」
「ちょっと、魚住主任が来てすぐの頃は、僕ら、心配していたんです。また、あの時みたいに桜川さん、体調悪くしないかって…」
「僕がいじめてですか?」
「はい。でも、まったく大丈夫でしたね~~。それにしても、桜川さんは魚住主任のどこが好きになったんですかね。今度聞いてみようかな」
「いいですよ。聞かなくても」
「いやいや、興味ありますよ。いったい、いつから付き合い出したんですか?」
「…ノーコメントです」
「なんでですか?いいじゃないですか」
しつこいな、野田さんは。
「付き合い出したのは…秋ごろですよ」
「どっちから告ったんですか」
「どっちでもいいじゃないですか」
「じゃあ、主任は桜川さんのどこに惚れたんですか」
「野田さん、ワイドショーのレポーターみたいになってますよ」
「あ、すみません。ははは」
「野田さんの奥さんは会ったこともないし、まったく知らないわけですが…、野田さんは奥さんのどこに惚れたんですか?」
「あれ?僕に質問ですか。ん~~~。そうですね。どこかな」
誤魔化しているのか?
「わかんないですよ。多分最初は、何人かで飲みに行って、隣とかになって、話して盛り上がって、次は二人で飲みに行って…とか、そんな感じです。どこに惚れたとか、そういうのないですよ」
「気が合ったって言うことですか」
「そうですね」
「じゃあ、一緒ですね。僕も桜川さんと趣味があったんです。好きな映画、興味あること、そういうのが同じだったんですよ」
「へえ。共通の趣味があったって言うことですか」
「そうですね」
「そんな会話をいつしていたんですか?」
「いつって。残業した時とか…ですかね」
「へえ~~~」
もしや、出張先までの長い移動時間、ずっと野田さんに質問攻めにあうのでは…と、嫌な予感がした。が、なんとか仕事の話に切り替え、伊織さんのことは触れなくなった。
よかった。特に今日はあまり、伊織さんの話題を出さないでほしい。なにしろ、いつ、どの拍子でボロが出るかわからない。かなり、意識を集中しないと、昨夜の伊織さんの姿が、ボンッと脳裏に浮かぶのだ。
出張先から帰る電車では、野田さんも疲れたのか寝てしまった。僕は資料を取り出し読んでいたが、そのうちに眠ってしまったようだ。
うつらうつらしている中に、伊織さんが現れた。なぜかマンションにいて、おかえりなさいと言っていた。
ああ、そうだった。合鍵もあるんだから、マンションで待っていてもらったら良かった。きっと今夜僕は、伊織さんの白い胸を恋しがって、一人寂しく寝るんだろうな…。




