第63話 限界 ~佑編~
いきなりの展開に、頭が真っ白だ。伊織さん、どうしたんだ。
いや、でも、これを逃したら、また先延ばしになるかもしれない。
じゃあ、一気に押し倒して。
いや、ちょっと待て。冷静になれ。
「あ、あ、あの」
「はい?」
「お風呂、沸かしてきます」
風呂?いや、風呂なんて別にあとでもいい。
「あのっ」
「はい」
困ったような伊織さんの声に、僕の手は反応し、抱きしめていた腕をほどいた。伊織さんはするりと僕の腕から抜け出し、バタバタと駆けて行ってしまった。
…。風呂か。
風呂に入っている間に、伊織さんはもしかして、気が変わるかもしれないよな。
そんなことをボケッと考えていると、伊織さんがパタパタと戻ってきた。と思ったら、和室の襖を開け、タンスから何かを出してきた。
「あれ?何でこれ…」
僕の紺色のパジャマだ。
「すみません。この前泊まった時に持ち帰って、洗いました」
「ああ、それで家になかったんですね」
「これ、着てください」
「はい」
それから伊織さんは、洗面所に行き、真新しいバスタオルとフェイスタオルを持ってきて、
「これ、使ってください」
と僕の前に差し出した。
「はい」
伊織さんは、また立ち上がり、真っ赤になって、
「あの、実は、ぱ、ぱ、パンツもあって」
と言い出した。
「え?」
パンツ?男物の?
「真広とバスタオルとか買いに行った時に、これも買えと脅されて」
「脅されて?」
なんだよ、それは。思わず笑っていると、伊織さんはまた和室に入って行った。
ゴソゴソとまたタンスから出して戻ってくると、僕の横に膝をついて、袋を渡してきた。
「すみません。いろいろと用意してもらって」
「い、いいえ」
伊織さんはようやく、座椅子に座り大人しくなった。僕は袋からパンツを取り出して広げてみた。なんでもない、黒のボクサーパンツだ。
「ああ、サイズ大丈夫ですよ」
特に言うことも思い浮かばずそう言うと、
「そ、そ、そうですか」
と真っ赤になって俯いた。
「溝口さん、面白いですよね」
「はい」
伊織さん、真っ赤だな。
いったい、何がどうなって、パンツまで買う羽目になったんだか。想像しようとしても想像もできないな。と、そんなことを思っていると、お風呂が沸いた合図が聞こえた。
「先に入ってください」
伊織さんが唐突にそう言ってきたので、
「あとでいいですよ」
と答えると、
「いいえ。先にどうぞ」
と、伊織さんは、真剣な目をして言ってきた。
僕が先に入らないと困るんだろうか。バスタオルやパジャマ、パンツを持って、僕はバスルームに向かった。
あ、男物のシャンプーもある。僕の使っているのと同じものだ。それも新品っていうことは、わざわざ買っておいてくれたっていうことか。
伊織さん、いつでも僕が泊まってもいいように、揃えていてくれたんだな。そう思うと、その場で一人にやけてしまった。
我が家よりも、狭いバスタブに入った。お湯の温度はちょうどいい。一人暮らしなら、ちょうどいい大きさだろう。でも、二人で入るには小さいな。僕のマンションなら、二人でも大丈夫だ。って、何を考えているのやら。
出たら寝ていました…なんて、そんなオチにならないよう、早めに風呂から出て、歯を磨き、ドライヤーを探した。見つからなかったので、髪をバスタオルで拭きながら、伊織さんのところに行った。
「伊織さん、ドライヤーは?」
「あ、ここです」
伊織さんは慌てながら、和室からドライヤーを持って来て、
「ここで、ドライヤーかけて下さい」
とテーブルの上に置いた。
「ああ、はい」
そのまま、しばらくタオルでゴシゴシと髪を拭いていると、伊織さんが僕を見ていることに気が付いた。なんでじっと見ているんだろう。目があうと、
「じゃあ、私、入ってきます」
と、慌ててバスルームに飛んで行った。
ブオ~~~~。
髪を乾かしながら、僕はこのあとのことを考えていた。
伊織さん、初めてなんだよな…。それにしても、突然すぎて、用意していないぞ。
子供できたり…ってことはないよな。もちろん、注意をするが、万が一、そんなことになったとしても、ちょっと早くに赤ちゃんができてしまった…っていうことになるだけか。
つわりとかあったら、仕事を続けるのは大変か。
だからと言って、今から買いにいくのもな。
ドライヤーを止めた。しんと静まった部屋の隣から、テレビの音が聞こえているのがわかった。
あれ?東佐野の部屋だよな。いるのか?舞台じゃないのか?
ええい。一か八か行ってみるか。
パジャマ姿のまま、そっとドアを開け、隣のドアをノックした。
「東佐野、いるのか」
すると、勢いよくドアが開き、
「おお!主任」
と、東佐野が元気に顔を出した。
「れ?何でパジャマ?あ、追い出された?喧嘩?」
「違う。お前こそ、舞台は?」
「3日間休み。で、今度東京公演なんだよ。あ、来いよな。千秋楽のチケットあげただろ」
「ちょうど良かった。本当にこんなこと、お前に頼むなんて不本意なんだが」
「なんだよ。追い出されたから、泊めてくれってか?」
「違う。実は、いきなり泊まることになって、伊織さんは今、風呂に入ってる」
「ああ、あれか。用意していないのか。でも、いいんじゃないの?できたら、できちゃった婚すれば」
「もし、そうなって、つわりとか酷かったら、伊織さん、仕事続けるのが大変だろ」
「ええ?できちゃったらすぐ、辞めちゃえばいいじゃん」
「そう言うわけにはいかないんだよ。いろいろと会社の都合もあって」
「クソまじめだな。まあいいや。ちょい待ってな」
東佐野は部屋に一旦入り、中で鼻歌交じりに何やらガサゴソしたかと思うと、玄関にまたやってきた。
「ほい」
「こんなにいらないぞ」
「いいじゃん。一回じゃすまないかもしれないんだし」
「あのなあ、伊織さん、初めてなのに何度もするわけないだろ」
「まじで?!え?うそ。って、何それ。今まで手、出さなかったってわけ?」
「声でかい。そろそろ、戻る。風呂から出ていなかったら、びっくりするだろうし」
「うひゃひゃ」
「なんだよ」
「耳すませておこう」
「あほ。和室、お前の部屋側じゃないから、耳を澄ませても無駄だ」
「優しくリードしてあげてね、主任」
「うるさい」
「俺だって、伊織ちゃんに惚れてたんだからさ、泣かせちゃダメだよ」
「わかってる。じゃあな」
急いで部屋に戻った。ブル。寒い。テーブルの前に座り、パジャマの胸ポケットに東佐野からもらったものをしまった。
「ああ、何だって東佐野に、もらわなきゃならないんだ。あとあと言われそうだな」
でも、いてくれてよかった。伊織さんに大変な思いをさせるよりはずっといい。
ガチャリ。バスルームが開く音がした。それから、伊織さんが髪を濡らしたままやってきた。
ドキ。やけに色っぽいな。
「伊織さんも、ここで髪、乾かしますか?」
「はい。あ、いいえ。向こうで乾かしてきます。あ!パジャマだけで寒くないですか?」
「そうですね、少し寒いかな」
「私のパーカー着ますか?」
「……。布団、敷きましょうか?」
「もう、敷いてあります」
「じゃあ、布団であったまっていますよ」
「はは、はい」
伊織さんはまた、バスルームのほうに行った。僕は和室に入り、パジャマの胸ポケットから、枕の下にあれを移動させた。それから、布団の中に入り込んだ。
「あったかい」
助かった。廊下に出てから、かなり体が冷えてしまっていた。
どんどんと、布団はあったかくなっていき、緊張していたというのに、僕はうとうとと寝てしまったようだ。
「あの」
遠くから伊織さんの声が聞こえた。
ここはどこだったっけ。僕のベッドか。伊織さん、泊まっていったんだったっけ?
そんなことをぼんやりと考え、段々と思考が働きだし、あ!違った。伊織さんの部屋に泊まることになったんだった!と思い出した。
パチ。
目を開けると、伊織さんの顔が真ん前にあって、ものすごいびっくりした顔をしていた。
「ああ、しまった。寝てた」
「あ、あわ、あわ」
「伊織さん?」
「お、起きたんですね」
ドスン。
伊織さんは、びっくりした拍子に、後ろにのけぞり、押し入れの襖に背中をぶつけていた。
「あたた」
「大丈夫ですか?」
伊織さんの腕を持って、引っ張った。伊織さんはその勢いで、僕の胸に飛び込んできた。
やばい。伊織さんの髪から香ってくるシャンプーの香りとか、伊織さんの細い腕とか、全部が僕の鼓動を速くさせた。
「伊織さん」
「はいいっ?」
「すみません」
我慢をしようとしても、無理だ。
「もう、嫌だと言われても、無理そうです」
「え?!」
ドサッ。思い切り、布団に伊織さんを押し倒し、
「我慢の限界です」
と、僕はそう伊織さんに言っていた。
バクバク。僕の心臓と、伊織さんの鼓動が重なった。
そのあとは、赤くなった伊織さんが可愛いやら愛しいやらで、指の先まで神経が行き届き、ガラス細工を触るかのように、優しく触れた。
ゆっくりと、壊さないよう、そっと大切に。
それが伝わったのか、伊織さんは、時々目を開け、僕の顔をうっとりと見つめてきた。
伊織さんはずっと、優しくてあっかたくて、可愛らしいオーラを出し続け、僕は癒されていった。
伊織さんの頬がまだ、高揚している。はあ、はあ、と息をして、目を閉じたままだ。
そんな伊織さんは、色気がある。こんな表情は初めて見たな。
そっと髪を撫でながら、
「伊織さん」
と名前を呼んだ。
「はい」
目を閉じたまま伊織さんは返事をした。
「大丈夫ですか?」
「はい」
伊織さんの声が震えた。
「伊織さん?」
「なんか、胸がいっぱいで」
胸がいっぱい?
「幸せすぎて、泣きそうです」
「幸せすぎて?」
「はい」
可愛い。
「……僕もです」
そう言って、伊織さんにキスをした。
そっと伊織さんに腕枕をした。まだ、僕の胸は高鳴りがおさまっていない。
「…伊織さん」
「はい」
「伊織さん」
「はい?」
なんでだか、何回も伊織さんを呼びたくなった。
「…伊織…」
呼び捨てにもしようとしたが、
「さん」
と、結局はさんづけにした。どうも、呼び捨てはしづらい。
「すみません。僕も幸せ満喫中です」
「え?」
「やばいですね」
「やばい?」
蛍光灯の明かりがやけに眩しく感じて、目を閉じて手で覆った。目を閉じても、伊織さんの白い胸や、高揚した顔が鮮やかに浮かんでくる。
「あの…」
「僕は、実を言うと、あと何か月も待たされる覚悟でいたんです」
「え?」
「だから、ちょっとびっくりというか、いきなりのことで、突然過ぎて、かなり舞い上がっています」
なにしろ、まだ胸がドキドキしている。
でも、伊織さんはどうだったんだろう。初めてだったんだよな。
伊織さんの顔を見ると、少し不安げだった。
「大丈夫ですか?」
髪を撫でながらそう聞くと、少しだけ首を傾げた。
「痛かったですよね」
「あ、あの、でも、その、今はもう大丈夫です」
「そうですか」
今は大丈夫ということは、最中は痛かったんだよな。顔、しかめていたもんな。少し、罪悪感のようなものが出てきた。
「それに、佑さん、すごくすごく優しかったし」
え?
「だから、全然…」
「はあ…」
よかった。伊織さんの顔、恥ずかしがっているけれど、幸せそうに見える。
僕は腕枕を外して、伊織さんを抱き寄せた。
「伊織さんは、可愛かったですよ」
「あ、あの、でも、この年で初めてとか、引きましたよね」
「いいえ」
とんでもない。正直に言えば、嬉しいくらいだ。
「で、でも、賞味期限ぎりぎりですよ」
「なんですか、それ」
「クリスマスケーキだったら、賞味期限ぎりぎりなんです」
「ケーキ?」
は?どういうことだ?
「美晴に言われて。私、もう25で、ほら、クリスマスケーキ、25日までに食べないと、26日じゃ、アウトですよね」
「ああ、なるほど」
「だから、そのっ」
「じゃあ、一番おいしい時に食べれたってことですね」
そう言うと、伊織さんは真っ赤になって俯いてしまった。可愛い。
「今も可愛いですけど」
そう言うと、伊織さんは僕をちらっと見た。
「今までもずっと、可愛かったですよ」
ああ、目を丸くした。そんな表情もすごく可愛い。
「すぐに真っ赤になったり、一生懸命だったり」
伊織さんは僕がそういうと、赤くなって僕の胸に顔をうずめた。少しくすぐったい。
そんな伊織さんのことをギュッと抱きしめ、
「明日、起きれるかな」
と呟いた。すると、
「ですよね。目覚まし、早めにかけておきます」
と、僕の腕から抜け出し、伊織さんは目ざまし時計を手にした。
「何時に起きますか?」、
「5時半ごろかな」
伊織さんはセットをして、また目ざまし時計を置いた。
「今、12時なんですね」
「はい」
「5時間半は寝れるか。あ、電気消しましょうか。真っ暗なほうがいいですか?」
「うわ~~~~~っ」
「え?」
どうしたんだ。いきなり、叫んだぞ。
布団から出る途中で、伊織さんの方を見ると、布団にうつっぷせていた。
「消していいんですか?」
「はい」
微かに頷いたので、電気を消して僕はまた布団に潜り込んだ。そして、伊織さんを抱き寄せた。
「僕の裸を見て、叫んだんですか?」
「いいえ。あ、えっと。見てませんから」
「いや、別に見てもいいですけど」
「私は、見られるの困ります」
え?
「…今さら、それ、言われても、もう見ちゃいましたけど?」
電気、しっかりとついていたんだ。伊織さんの素肌も全部、ちゃんと見たぞ。
「電気、ついていたんですよね」
「ああ、はい。すみません、気になってはいたんですが、伊織さん、何も言わないから」
伊織さんが僕の腕の中で、ものすごく恥ずかしがっているのがわかった。
可愛いなあ、と思いつつ、僕はまた伊織さんのあったかいオーラを感じて、そのまま夢の中へと入って行った。




