第62話 元カノ出現 ~佑編~
伊織さんと二人、釜飯でも食べに行きましょうと、仲睦まじくエレベーターを降り、ビルを出たところで、僕は目を疑った。
「佑」
と声をかけてきたのは、髪をショートにした喜久美だった。
一瞬、声が出なかった。なんとか、
「喜久美?なんでここに」
とだけ、僕の口から絞り出した。
「なんでって、佑に会いに来たに決まってるでしょ。昨日、ご実家のほうに行ったの。お姉さんがいらして、佑の今の住居も何も知らされていないって言うから、会社まで来ちゃったわよ」
姉貴、僕のマンションを教えなかったんだな。それもそうか。実家に何年も前に付き合っていた彼女が来て、突然住んでいるところを教えろって言ったって、普通言わないよな。
でも、僕にとってもありがたいことだ。姉貴には感謝だな。
「呆れたな。もし、出張とか、残業とかだったらどうしていたんだよ」
「そうね。1時間くらい待っても出てこなかったら、帰るつもりでいたんだけど…。誰?部下の子?」
「…昨日も言っただろ。結婚を前提に付き合っている彼女だよ」
「結婚…。嘘。あれ、冗談でしょ」
「本当だ。悪いがこれから食事に行くんだ」
僕は伊織さんの背中に腕を回し、歩き出した。
「せっかく来たのに、何よ、それ」
「突然会社まで押しかけられても困るだけだ」
「佑!!待ってよ。聞いて。私、離婚したの」
「知ってる」
「何で知ってるの?」
「狭山から電話が来た」
「…。じゃあ、話くらい聞いてもいいじゃないよ」
話?いったい、なんの?
「僕の方は話すことなんて何もない」
僕は、立ち止まり振り返ると、声のトーンを落として喜久美にそう告げた。
「佑、変わらないわね。前とおんなじ」
「…そんな僕が嫌いになって、別れたんだろ?」
「そうよ」
「じゃあ、なんで今頃会いに来るんだよ」
「あの頃は若かったから、ぶつかってばかりだったけど、私も大人になったから、やり直せるって思ったのよ」
「はあ?いったい、何年たっていると思っているんだ」
「わかってるわよ。離婚してからだって、なかなか会いに来れなかったし」
「僕はやり直せるとも思わないし、やり直したいとも思わないよ」
「その人がいるから?」
「そうだ」
「……ほ、本当に結婚するの?結婚なんか、一生しないって言ってたわよね」
「伊織さんと出会う前まで、そう思っていた」
「伊織さんって、その人?」
「喜久美は、もっと包容力があって、大人な男性が合うよ。僕みたいな子供じゃない男性が」
「そう思って、そういう人と結婚したけど、ダメだったのよ?」
「……。じゃあ、しばらく独身を満喫してみればいいんじゃないのか?」
「何よ。わかったわよ。きっと、今でも独身主義でいると思って、会いに来たのに」
喜久美は突然、弱気の態度に変わった。
「……喜久美とは、喧嘩ばかりしていたよな。あまりいい思い出もなかったな。悪かったな」
「謝んないでよ」
そして、とうとうぽろぽろと泣き出した。
「ねえ、佑は私と似ているの。似たもの通しだからぶつかっていたの。だから、佑だって、結婚してもうまくいかない」
「え?」
「きっと、私みたいに、離婚するわよ。後悔するわよ、結婚したことを」
喜久美、そんなことを言いに来たのか?
変わったな。弱音も吐かなかったし、弱い部分も見せたことがなかった喜久美が。
「次は幸せになれよな」
それしか、言葉にできなかった。僕は伊織さんの背中に回した腕に力を入れ、
「行こう」
と、反対側を向いて歩き出した。
伊織さんは店に着くまで黙っていた。僕もなんとなく話す気になれず、黙って歩いていた。
釜飯を頼み、水を飲んだ。まだ、何となく元気のない伊織さんに、僕は話し始めた。
「喜久美は、プライドが高い女性だったんですけどね」
「え?」
「あまり泣き顔も見せなかったし、別れることになっても、平気って顔していたし」
「…そうなんですか」
「あんなふうに、待ち伏せしたり、僕を追いかけてきたりするようなことも、一回もなかったですよ。一生僕は独身でいると言った時にも、佑らしいわねと言っただけで…。まあ、それが別れるきっかけになったと言えばなったんですが」
「……」
「気性は荒かったんですが、気が強くて、弱みを見せたりしなかったし」
「…そうなんですか」
「だから、ちょっと、ショックですね。あまりにも変わってしまったんで」
そう言ってから、水を飲んで、僕は黙り込んだ。
なんであんなに、変わってしまったんだろうか。怒って怒鳴ることはよくあった。ぶつかって、泣き出すこともあった。でも、愚痴を言うことも、弱音を吐くことも、本当になかったのにな。
「結婚が彼女を変えてしまったんですかね…」
「……」
「どんな旦那さんだったか知りませんけど…」
「……」
「結婚には彼女、向いていなかったのかもしれないですね」
そういって僕は、じっと伊織さんを見た。
「あの?」
そんな僕を伊織さんは、不安そうな顔をして見ている。
「あんな話を聞いて、伊織さん、結婚が嫌になったりしていませんよね?」
「え?」
その言葉に、伊織さんは一瞬黙り込み、
「いいえ」
と、首を横に振った。そうか。よかった。
「僕は、喜久美と付き合っている頃、自分は冷たい人間なんだと思っていました」
「え?」
「それからも、僕はずっと自分は優しくない、冷たい人間で、人を愛することもできないんだと、そう思っていたんです」
僕はなぜか伊織さんに、素直にそんなことを話していた。
「そんな。佑さん、優しいです。すんごく優しいです」
「ありがとうございます。そんなに一生懸命に言ってくれて嬉しいですよ」
僕がそう言うと、伊織さんは赤くなり頬を抑えた。
「そうなんですよね。伊織さんといると、すごく優しい気持ちになれるんですよね」
「え?」
「あったかい、優しい気持ちになるんです。自分でも驚きました。可愛いとか、愛しいとか、そういう感情を自分が持ち合わせていたことに」
伊織さんは、目を丸くして僕を見ている。
「伊織さんといると、そういう気持ちでいっぱいになって、幸せになるんですよ」
「……」
「それに、一人が寂しくて、二人だとあったかいっていうことも、伊織さんと出会って初めて知りました」
伊織さんが、ハンカチで目を抑え、俯いてしまった。もしや、泣いてる?
「伊織さん?」
「見ないでください」
「泣いているんですか?」
「ひっく」
「なんで?」
「う、嬉しくてです」
「嬉しくて…ですか?」
「はい」
ああ、なんだ。びっくりした。
「安心しました」
そう言うと、伊織さんは僕の顔をちらっと見て、またハンカチで涙を拭いた。
しばらく黙って僕は伊織さんを見ていた。涙が止まったのか、伊織さんはハンカチを畳み、水をゴクッと飲んだ。ああ、鼻の頭が真っ赤だ。そんなところまで可愛い。
伊織さんの家までの道、僕はかみしめていた。伊織さんというあったかくて、大事な存在を。僕が話すことを真剣に聞き、時々笑う。
驚くと目を丸くし、ちょっとからかうと、口を尖らせる。
喜久美といると、なんであんなに攻撃的な言葉ばかりをぶつけていたんだろうか。伊織さんには、一切そんな言葉をぶつけることはない。
伊織さんの一挙一動を見て、僕は優しくなったり、時折子供になってみたり。
すっと、途中で伊織さんの手を取り、ギュッと握りしめた。伊織さんは、一瞬赤くなったが、何も言わずそのまま、僕と手を繋いで歩いた。
ああ、いいな。二人で歩くときは、手を繋いで歩きたいよな。
まだまだ、伊織さんとこうやって、歩いていたい。
なんて思っていても、アパートに着いてしまい、別れの時間というのはやってきてしまうものだ。
階段を上り、伊織さんの部屋の前まで行き、伊織さんがカギを開けた。
「お茶、飲んでいきませんか」
伊織さんが恥ずかしそうにそう言った。
「はい」
僕はまだ伊織さんと一緒にいられることを、素直に喜んだ。
先に伊織さんは部屋に入り、何やらドタバタと片づけをしてから僕を呼んだ。僕は、お邪魔しますと伊織さんの部屋に入り、テーブルの前に座り込んだ。
「あ、上着、ハンガーにかけます」
「すみません」
伊織さんは僕の上着をハンガーにかけた。そういう仕草、いいよな。奥さんみたいだ。
「寒くないですか?」
「大丈夫ですよ」
そう言いながら僕は、ネクタイを緩め、伊織さんの部屋でまったりとした。
「そう言えば、伊織さん、今日香水つけていますか?」
ふと思い出し、そう聞いてみた。
「え?はい。香水ってほどじゃなくって、コロンですけど」
「それって、僕のスーツに香りが移っているみたいなんですよね」
「え?」
「多分、資料室で抱きしめた時に、移ったんだと思います。溝口さんが気が付いて教えてくれたんです」
「そうなんですか?すみません。もう、コロンつけないようにします」
「いつも、つけていないですよね?」
何か意味があって香水をつけたんだろうか。
「はい。今日はちょっと、化粧も張り切っちゃったから、コロンもつけてみたりして。すみません」
「いえ。謝らないでもいいんですが。会社でいちゃついたのが悪いんですし」
「は?」
「疲れていたので、癒されたかったんです。こうやって、仕事終わってから、二人になれたら十分癒されるんですが、待てませんでした」
「は?」
「こっちこそ、すみませんでした」
「いいえ」
伊織さんは、恥ずかしそうに顔を赤らめた。そして、キッチンに行き、お盆にお茶を乗せてやってきた。
「あ、あの。じゃあ、今は、その。癒されてますか?」
そう言いながら伊織さんはお茶碗を置いた。
「そうですね」
僕は一口お茶を飲んだ。熱い日本茶だ。
「落ち着きますね」
「そうですか、よかった」
伊織さんは、ほっとしながら座椅子に座った。
うちのリビングもいいが、このテーブルもいいよな。部屋もこじんまりとしているし、テーブルも小さ目だ。伊織さんとの距離感も、遠くなく近すぎず、なんとなく伊織さんもいつもよりも落ち着いているようだ。
このまま、ここでまったりしているのもいいよな。と思いつつも、時計を見るともう9時を回っている。
「そろそろ、帰りますね」
「え?もうですか?」
ん?伊織さん、ずいぶんと寂しそうな目で見るんだな。
「あまり長居しても、これから風呂とか入るんですよね?」
「はい」
「じゃあ、僕は帰ります」
「…でも、もうちょっと」
「……珍しいですね。いつも、早く帰りたがるのに」
僕は立ち上がり、伊織さんに近づいた。伊織さんも立ち上がって、僕の前で固まっている。
「早く帰りたがっているわけではなくって」
「違うんですか?」
「家に帰ると、一気に私も寂しくなって、佑さんともっといればよかったって、そう思っているんです」
「…え?」
一気に寂しくなる?そうだったのか?
いつも、あっさりと帰って行くから、さほど寂しがっていないのかと思っていたのに。
「そんなこと、初耳ですよ」
そう言いながら僕は、勝手に伊織さんの背中に腕を回していた。
「う、はい。ですよね」
「そんなことを聞いちゃうと、今夜、帰れそうもないですよ」
「え?」
「このまま、泊まっていってもいいですか?」
もちろん答えはわかっている。NOと言われるのも。だけど、こんな可愛い伊織さんを前に、帰りますなんて言えなくなってしまった。
コクン。
ん?
今、伊織さん、首を縦に振った?
「え?いいんですか?」
「はい」
はい?!いいえじゃなくて?!
どうしたんだ。それも、僕の胸に顔をうずめてきた。
「本当に、帰りませんよ、いいんですか?」
僕は、再度確認のためにそう聞いた。断るなら、ちゃんとしっかりと断ってくれ。でないと、期待で胸が躍り出しそうだ。
伊織さんは、しっかりとまた、コクリうなずいた。
うなずいたよな。僕の思い過ごしじゃないよな。それ、OKってことだよな。
あ、もしかして合図か。
だけど、昨日の今日だぞ。なんの心境の変化だ?いったい、いきなりどうして。
僕の心は躍り出すどころか、動揺しまくっていた。だから、何も言えず、どうしていいかすらわからなくなっていた。
伊織さんは、僕の胸に顔をうずめたまま、ぼそっと言った。
「あ、朝まで、いて下さい」
………え?
朝まで、いて下さい。って言った?
「……朝まで?いいんですか?」
「はい」
消え入りそうな声だったが、伊織さんは僕の胸に顔をうずめたままうなずいた。
バクッ!僕の胸が、一気に躍り出した。




