第62話 元カノ出現 ~伊織編~
5時半を過ぎ、とっとと真広は帰って行った。岸和田さんも、とっとと部屋から出て行ったので、デートだな。
北畠さんも、そそくさと帰って行き、私は、残業もないので、どうしようかなと思いつつ、ゆっくりと片付けていた。
「桜川さん」
ドキ。佑さん?
「仕事終わりですか?」
「はい。終わりました」
「じゃあ、一緒に帰りましょうか。僕も終わりましたので」
「え?はい」
わあい。嬉しい。
「明日は日帰りですが、出張なんですよ。明後日は接待があるし、一緒に帰れるのは今日くらいなので、どこかで夕飯食べましょうか」
佑さんは、まだ課の人がいるっていうのに、そんなことを堂々と言いながら私の横に来た。
「はいっ」
「くす」
え?みんなの前で笑った!
「では、お先に失礼します」
佑さんは爽やかに課のみんなにそう言った。
あれれ?なんか、いつもと違っているかも。
エレベーターは他の社員も乗っていた。でも、佑さんは気にすることなく私の隣に並び、
「何を食べに行きましょうか」
と聞いてくる。
「えっと。なんでもいいです」
「じゃあ、美味しい釜飯の店があるので、そこにしますか?」
「はいっ」
「くす」
あ、また笑った。
会社ではこの笑顔、そうそう見せないのにな。
そして、二人でビルを出ようとすると、
「佑!」
と、背の高い細身のショートカットの女性が声をかけてきた。
誰?モデル並みに顔が小さくて、顔はちょっと派手目な造りの…。
「喜久美?なんでここに」
喜久美さんって、元カノ!
「なんでって、佑に会いに来たに決まってるでしょ。昨日、ご実家のほうに行ったの。お姉さんがいらして、佑の今の住居も何も知らされていないって言うから、会社まで来ちゃったわよ」
嘘。佑さんに会いに?!
「呆れたな。もし、出張とか、残業とかだったらどうしていたんだよ」
「そうね。1時間くらい待っても出てこなかったら、帰るつもりでいたんだけど…。誰?部下の子?」
ギクリ。私の方を見て、睨んだ。
「…昨日も言っただろ。結婚を前提に付き合っている彼女だよ」
「結婚…。嘘。あれ、冗談でしょ」
「本当だ。悪いがこれから食事に行くんだ」
そう言って佑さんは、私の背中に腕を回して歩き出した。
「せっかく来たのに、何よ、それ」
「突然会社まで押しかけられても困るだけだ」
「佑!!待ってよ。聞いて。私、離婚したの」
え、離婚?
「知ってる」
「何で知ってるの?」
「狭山から電話が来た」
「…。じゃあ、話くらい聞いてもいいじゃないよ」
喜久美さんのその言葉に、佑さんはくるっと振り返り、
「僕の方は話すことなんて何もない」
と、すごく冷たい声でそう言った。
「佑、変わらないわね。前とおんなじ」
「…そんな僕が嫌いになって、別れたんだろ?」
「そうよ」
「じゃあ、なんで今頃会いに来るんだよ」
「あの頃は若かったから、ぶつかってばかりだったけど、私も大人になったから、やり直せるって思ったのよ」
「はあ?いったい、何年たっていると思っているんだ」
「わかってるわよ。離婚してからだって、なかなか会いに来れなかったし」
うわ。喜久美さんって人、泣きそうだ。
どうしよう。私、ここにいてもいいの?居づらいよ。どうしよう。
「僕はやり直せるとも思わないし、やり直したいとも思わないよ」
「その人がいるから?」
「そうだ」
「……ほ、本当に結婚するの?結婚なんか、一生しないって言ってたわよね」
「伊織さんと出会う前まで、そう思っていた」
「伊織さんって、その人?」
佑さんは黙って頷いた。
「喜久美は、もっと包容力があって、大人な男性が合うよ。僕みたいな子供じゃない男性が」
「そう思って、そういう人と結婚したけど、ダメだったのよ?」
「……。じゃあ、しばらく独身を満喫してみればいいんじゃないのか?」
「何よ。わかったわよ。きっと、今でも独身主義でいると思って、会いに来たのに」
「……喜久美とは、喧嘩ばかりしていたよな。あまりいい思い出もなかったな。悪かったな」
「謝んないでよ」
喜久美さんは、とうとう泣き出した。ぽろぽろと涙を流し、それを手で拭うと、
「ねえ、佑は私と似ているの。似たもの通しだからぶつかっていたの。だから、佑だって、結婚してもうまくいかない」
と言い出した。
「え?」
「きっと、私みたいに、離婚するわよ。後悔するわよ、結婚したことを」
その言葉に、佑さんは、喜久美さんをなぜかいたわるような目で見て、
「次は幸せになれよな」
と、ぽつりと言って喜久美さんに背中を向けた。
「行こう」
私の背中に回した腕に力を入れ、佑さんは歩き出した。
なんだか、私はショックを受けていた。
それは、佑さんも同じだった。
夕飯の釜飯を食べながら、佑さんはぽつりぽつりと話し出した。
「喜久美は、プライドが高い女性だったんですけどね」
「え?」
「あまり泣き顔も見せなかったし、別れることになっても、平気って顔していたし」
「…そうなんですか」
「あんなふうに、待ち伏せしたり、僕を追いかけてきたりするようなことも、一回もなかったですよ。一生僕は独身でいると言った時にも、佑らしいわねと言っただけで…。まあ、それが別れるきっかけになったと言えばなったんですが」
「……」
「気性は荒かったんですが、気が強くて、弱みを見せたりしなかったし」
「…そうなんですか」
「だから、ちょっと、ショックですね。あまりにも変わってしまったんで」
そう言った佑さんは、眉をしかめて俯いた。
それから、しばらく佑さんは黙り込んでいた。
何を考えているんだろうか。
「結婚が彼女を変えてしまったんですかね…」
ドクッ。
もしかして、佑さん、結婚するのが嫌になった?
「どんな旦那さんだったか知りませんけど…」
「……」
「結婚には彼女、向いていなかったのかもしれないですね」
ドキ。
まさか、僕もやっぱり結婚には向いていないとか、そんなこと思っていないよね。
佑さんは顔を上げると、私の顔をじっと見つめてきた。
「あの?」
「あんな話を聞いて、伊織さん、結婚が嫌になったりしていませんよね?」
「え?」
私?
「いいえ」
ブルブルと首を横にすると、佑さんはホッと安心したように息を吐いた。
「僕は、喜久美と付き合っている頃、自分は冷たい人間なんだと思っていました」
「え?」
佑さんは、ゆっくりと私から視線を外して、また話し出した。
「それからも、僕はずっと自分は優しくない、冷たい人間で、人を愛することもできないんだと、そう思っていたんです」
「そんな。佑さん、優しいです。すんごく優しいです」
「くす」
あ、笑った?
「ありがとうございます。そんなに一生懸命に言ってくれて嬉しいですよ」
うわ。そう言われると、照れる。
「そうなんですよね。伊織さんといると、すごく優しい気持ちになれるんですよね」
「え?」
「あったかい、優しい気持ちになるんです。自分でも驚きました。可愛いとか、愛しいとか、そういう感情を自分が持ち合わせていたことに」
愛しい?
「伊織さんといると、そういう気持ちでいっぱいになって、幸せになるんですよ」
ドキン。
「それに、一人が寂しくて、二人だとあったかいっていうことも、伊織さんと出会って初めて知りました」
「……」
「伊織さん?」
「見ないでください」
ダメだ。涙出てきた。思わず、顔をハンカチで隠した。
「泣いているんですか?」
「ひっく」
「なんで?」
「う、嬉しくてです」
「嬉しくて…ですか?」
「はい」
頷くと、佑さんはすごく優しい目で私を見て、
「安心しました」
とニコリと笑った。
佑さんが好き。大好き。
結婚して、後悔なんかしない。
佑さんと一緒にいられることが、すごく幸せだから。
だから、私は今すぐにでも、佑さんと結婚したい。
知らないうちに、自分でそう決心した。
お店を出て、佑さんは、
「家まで送ります」
と優しく言ってくれた。
「明日、早いんですよね?出張なんですよね?」
「出張ですが、一回社に顔を出してから、野田さんと一緒に出ますので、朝はいつも通りですよ」
「そうなんですか」
「だから、送って行けますよ?」
「あ、はい」
電車で私の住んでいる駅まで佑さんは来てくれて、それからぶらぶらと、二人でアパートまで歩いた。
そして、階段を上り、私の部屋の前まで来て、
「お茶、飲んでいきませんか」
と引き留めると、佑さんは「はい」と答えてくれた。
良かった。まだまだ、一緒に居たかった。
部屋はちょっと散らかっている。ささっと床に置いてある雑誌などを片付け、
「どうぞ」
と、居間に佑さんを通した。
「お邪魔します」
佑さんはそう言うと、テーブルの前に座り胡坐をかいた。
「あ、上着、ハンガーにかけます」
「すみません」
佑さんは上着を脱ぎ、私はそれをハンガーにつるした。
「寒くないですか?」
「大丈夫ですよ」
にこりと佑さんは笑うと、ネクタイを緩め、Yシャツのボタンを一つ外した。
ドキドキ。ああ、佑さんが私の部屋にいるって、ドキドキしちゃう。
「そう言えば、伊織さん、今日香水つけていますか?」
「え?はい。香水ってほどじゃなくって、コロンですけど」
「それって、僕のスーツに香りが移っているみたいなんですよね」
「え?」
「多分、資料室で抱きしめた時に、移ったんだと思います。溝口さんが気が付いて教えてくれたんです」
「そうなんですか?すみません。もう、コロンつけないようにします」
「いつも、つけていないですよね?」
「はい。今日はちょっと、化粧も張り切っちゃったから、コロンもつけてみたりして。すみません」
「いえ。謝らないでもいいんですが。会社でいちゃついたのが悪いんですし」
「は?」
いちゃつく?
「疲れていたので、癒されたかったんです。こうやって、仕事終わってから、二人になれたら十分癒されるんですが、待てませんでした」
「は?」
「こっちこそ、すみませんでした」
「いいえ」
ドキドキ。
「あ、あの。じゃあ、今は、その。癒されてますか?」
そう聞きながら、テーブルに日本茶を持って行った。
「そうですね」
佑さんは、そのお茶を飲んでから、
「落ち着きますね」
と、にこりと笑った。
「そうですか、よかった」
違う。
よくない。
もっと違うでしょ。
本当は、また抱きしめてほしいし、抱き着きたい。それで、癒したいし、癒されたい。
佑さんがここにいるだけでも、あったかいし、優しいオーラに包まれるけど、でも、もっと近くにいきたいって、そう思っているよね?私。
佑さんは、お茶を飲み終えると、
「そろそろ、帰りますね」
と、立とうとした。
「え?もうですか?」
「あまり長居しても、これから風呂とか入るんですよね?」
「はい」
「じゃあ、僕は帰ります」
「…でも、もうちょっと」
「……珍しいですね。いつも、早く帰りたがるのに」
そう言って佑さんは、私に近づいてきた。
「早く帰りたがっているわけではなくって」
「違うんですか?」
「家に帰ると、一気に私も寂しくなって、佑さんともっといればよかったって、そう思っているんです」
「…え?」
しばらく黙り込むと、佑さんが私をそっと抱きしめてきた。
ドキドキドキ。
「そんなこと、初耳ですよ」
「う、はい。ですよね」
「そんなことを聞いちゃうと、今夜、帰れそうもないですよ」
「え?」
「このまま、泊まっていってもいいですか?」
ドッキン!!!!
どうしよう。
どうする、私。
って、頭の中で考える前に、私は頷いていた。
「え?いいんですか?」
わ~~~~~~~~~。何で今、頷いたんだ、私!
「はい」
わ~~~~~~~~~~~~!また、はいって言っちゃった。でも、でも、でもでもでもでも。
佑さんの胸に顔をうずめた。顔が思い切り火照っている。
「本当に、帰りませんよ、いいんですか?」
コクリとまたうなずいた。
そうだ。私は、佑さんともっと一緒にいたいし、抱きしめててほしいし、ううん。朝まで一緒にいたいって、そう思ってるよ。
佑さんの優しさや、あったかさに触れ、今夜は一人になりたくないって、そう思っている。
だから、部屋に上がってもらったの。
答えは、もう出てた。
「あ、朝まで、いて下さい」
そう、佑さんの胸に顔をうずめたまま言うと、佑さんの抱きしめる腕に力がこもった。




