第61話 資料室 ~佑編~
やりにくい。コピーを頼むのも、考えてしまう。
「北畠さん、コピー頼んでもいいですか?」
「え?すみません。今、急ぎで発注をするところで」
「じゃあ、溝口さん…」
「私、電話中です。あ、もしもし!」
「ああ、電話中ですか。すみません。じゃあ…、桜川さん」
「はい」
「10部、コピーをお願いします」
「はい」
そっけない態度は取りませんとか言いつつ、しっかり取っているじゃないか。と、自分に突っ込みを入れたくなる。だが、周りが僕と伊織さんが話すたびに見るので、どうしても意識して顔を無表情にしてしまう。
伊織さんの態度も変わっていなかった。前と変わらず顔を赤くし、頼みごとをすると一生懸命にしてくれる。コピーもすごい速さで、戻ってきた。
「あれ?原紙は…」
「あ!置いてきた。すみません、取ってきます!」
また慌てて、伊織さんはすっ飛んで行った。ああいう、抜けているところも前と変わっていない。
きっとまた、すっ飛んで戻ってくるんだろうな。と、PCを見ながら待っていると、伊織さんは静かに歩きながら戻ってきた。
おや?顔も沈んでいる?何かあったのか?
「どうかしましたか?」
「え?」
「…いつものように、また走って戻ってくるかと思ったんですが…」
「あ、すみません、遅くなって」
「いいえ。急ぎではないのでいいんですが…。具合が悪いとか?」
「あ、あの。コピー室に人事部の女性の人がいて。あ、たす…、主任と同期だって言っていました」
「何か言われたんですか?」
「いいえ。別に。ただ、私のことを知っていたので、びっくりして」
「僕の結婚相手だって、知っていたとか?」
「え?!」
「人事部なら、知っていて当然だよ。昨日のうちに、僕が報告に行ったからね」
南部課長が慌てている伊織さんに、僕よりも先に答えてしまった。
「あ、そ、そうなんですね」
「で、いつ籍を入れるんだい?魚住君」
やばい。また、そういう話になった。
「籍を入れたら報告しますよ」
僕はそう言いながら、PCをシャットダウンして、カバンを持つと、
「塩谷、出かけるぞ」
と、その場からさっさと逃げ出した。
昼、塩谷とそば屋に入り、そばを食べた。
「まったく。いつまでああいう話をしてくるんだろうな」
思わず愚痴をこぼすと、塩谷はきょとんとした顔で僕を見た。
「なんのことですか?」
「課長だよ。籍を入れるまでしつこく聞いてきそうだよな」
「籍…。本当に入れるんですか?」
「ああ、なんでだ?」
「その場しのぎかと思いました」
「どういうことだ?」
「セクハラ疑惑を誤魔化すための作戦かなって」
「まさか。その場しのぎで結婚するなんて言うわけないだろ?そんな無責任なこと」
「じゃあ、責任取れって部長にでも脅されたんですか?」
「あのなあ、塩谷。僕と伊織さんは結婚を前提にして付き合っていたんだよ。お互いもういい年なんだから、結婚もそりゃ考えるさ」
「いい歳?独身主義者だった主任の言葉とは思えない。あ、桜川さんから脅されているとか?」
「はあ?」
「責任取ってくれって」
「なんの責任だよ」
「手を出した責任」
「手なんか出してないぞ。ったく」
「え!?」
おっと。いらぬことまで喋ってしまったな。
「早く食べろ。午後にまだ3件回らなきゃならないんだからな」
「はい」
塩谷は、誤魔化されたって言う顔をしながら、そばを一気に食べ終えた。
今日は訪問先が多く、それも、アポの時間が分刻みで、移動中もほとんど走っていた。さすがの塩谷も帰るころにはへとへとになっていた。
「どっかで、休みませんか?主任」
「あとちょっとで会社だろ。とにかく戻るぞ」
「え~~~。ちょっとぐらいいいじゃないですか」
「お前にしては珍しく、弱音を吐いているな」
「喉乾いているんです」
「だったら、訪問先で出されたお茶でも飲めよ」
「トイレ、行きたくなるじゃないですか~~」
どっちなんだよ。ったく。
「ほら、あと少しだ。歩け」
駅から一気にオフィスまで戻り、2課に着くと、
「ああ、疲れた」
と、塩谷が椅子に座り込んだ。
塩谷が疲れたと言うのも珍しいし、戻ったって言うのに、「お疲れ様でした」と北畠さんが言わないのも珍しい。いつもならここで、「コーヒー入れましょうか」の一言もあるっていうのにな。女っていうのは、簡単に態度をコロッと変えるもんなんだな。
「お疲れ。疲れているところを悪いが、さっそく報告書頼んだぞ、塩谷」
「はい」
「コーヒー飲むか?入れて来るぞ」
「え、いいですよ。私が入れてきます」
塩谷はそう言って、席を立とうとした。
だが、
「あ、私、入れてきます!」
と元気よく、伊織さんが席を立って、コーヒーを入れに行ってしまった。
「……ち」
今、塩谷、舌打ちしたよな。前より、女性らしさが減っているんじゃないのか…?2課の男性陣も、ちょっとびっくりして塩谷を見たぞ。
まあ、僕には関係ないことだけどな。伊織さんにとばっちりさえいかなければ。
それより、塩谷とどこにも寄らず帰ってきたのには訳がある。僕は伊織さんのあとを追いかけ、コーヒーを入れている伊織さんのすぐ横に並んで立った。
お疲れ様ですと言う伊織さんの声も、伊織さんから出ている癒しオーラも、一気に僕を癒してくれる。
「…ほっとします」
そう言うと、伊織さんは心配そうに、
「何かトラブルでもあったんですか?」
と聞いてきた。
「いや。そういうわけじゃなくて。ちょっと歩き回ったから…。それに、何件か行ってきたし」
「そうなんですか。外回りって大変ですよね」
「そう思うなら、癒してくれますか?」
すっかり僕は、甘えモードだ。
「え?どうやって?」
「……ここじゃ、まずいでしょ」
「え?」
「コーヒー、ありがとうございます。塩谷にも僕が持っていくので、一つ探しておいてくれませんか」
「え?」
「資料室で、××商事の資料」
「はい」
「後で行きます」
「はあ」
僕はコーヒーを二つ持って、一つを塩谷に渡し、もう一つは自分のデスクに置いた。
「すみません、主任」
「いや。それより、塩谷、××商事の資料いるよな?」
「はい」
「資料室から取ってくるから」
「え?すみません。なんか、いろいろと…」
「いいよ。疲れてるんだろ?コーヒー飲んで少し休んでから、報告書を頼むぞ」
「え?はい」
キョトンとしている塩谷を残し、僕は資料室に向かった。
資料室のドアを開けると、そこには一人で伊織さんがファイルを手にして待っていた。
「あの、××商事の資料ってこれですか?」
「ありましたか?」
「はい。どうぞ」
渡されたファイルはそのまま、その辺に置いて、僕は伊織さんを抱きしめた。
一瞬、伊織さんがカチコンと固まったのがわかった。
「しばらく、いいですか?」
「は、はい」
可愛い。固まったまま、僕の腕の中にいる…。
「あ、でも、今、誰かが入ってきたら大変なことに」
「鍵閉めました」
そう言って、もっと伊織さんを引き寄せた。
「いい香りしますね」
「え?そ、そうですか?」
いつもと違う香りだ。シャンプーを変えたのかな。
それにしても、なんだってこうも癒されるんだろうか。このまま、ずっとこうしていたいと思ってしまうほどに。
キスもできればしたい。
いや、今は我慢するか…。
「そろそろ行かないと、さすがに二人で課にいないのは、やばいかな」
「え?」
「みんなも勘ぐりますよね」
「そそ、そうですね」
「じゃあ、戻りますか?」
「先に戻ってください。私、顔がまだ」
「ああ、真っ赤ですね。くす」
可愛い。耳も首も真っ赤だった。
僕はくすくすと笑いながら資料室を出た。だが、2課に戻るころには、顔を無表情にした。
ムスッとしたまま、
「塩谷、あったぞ」
と、塩谷のデスクにファイルを置いた。
「はい。ありがとうございま…。あ…」
塩谷がパッと僕の顔を見た。
「なんだ?」
「いいえ」
塩谷の顔は思い切り、しかめっ面だった。
なんだよ。ファイルを持ってきたって言うのに…。ん?まさか、僕が伊織さんと一緒だったのがばれたのか?
「桜川さんはどうしたんだい?」
僕がデスクに戻ると、課長が聞いてきた。
「……ああ、桜川さんですか?」
さて、どうすっとぼけたらいいんだか。
「主任、はんこお願いします」
そこにちょうど溝口さんがやってきて、僕は課長の質問に答えるのをやめた。そして、溝口さんが持ってきた請求書を間違いがないか見ていると、
「主任、香り、くっついてますよ」
と、溝口さんが耳元で言った。
「え?」
「今日、伊織、香水つけて来てたから、気を付けないと…。っていうか、もう主任のスーツに移っちゃってるけど」
「……」
さっき、伊織さんから香ったのって、シャンプーじゃなくて、香水か?
まずい。僕のスーツにその香りがくっついたってことか。ああ、それで、塩谷もさっき、変な顔をしたのか?
「移り香ってやつですね。伊織にも香水は付けないよう言っておかないと…ですね」
ぼそぼそと小声で溝口さんは言ったが、しっかりと課長や野田さんにも聞こえていたようだった。
そこに、伊織さんが、まだ頬に赤みを残したままやってきて、席に着いた。課長も野田さんもしっかりと、伊織さんを見て、また僕の方を見た。
「ダメだなあ。主任、仕事中は、仕事に専念してくれないと」
「まあ、しょうがない。大目に見てあげようじゃないか」
野田さんと課長に、そんなことを言われた。
まいった。どういう顔をすればいいんだ。とりあえず、僕はさっさと溝口さんに請求書を返し、PCを睨みつけた。
「主任、ハンコ、押してないですけど」
「え?あ、ああ」
しまった。まずい。動揺した。ハンコも逆さになった。
「あ…。まあ、逆さでも大丈夫かと思いますけど。珍しいですね。いつも、きっちりと綺麗にハンコを押す主任が…」
勝ち誇ったような顔つきで、溝口さんはそう言うと、自分の席に戻って行った。
くそ。
やっぱり、やりづらい。
ふと、視線を感じて顔を上げると、伊織さんとバチッと目が合った。伊織さんはすぐに視線を外し、赤くなった。
ああ、本当に伊織さんは、顔に全部出るよなあ。そんな伊織さんを見ていると、必死に表情を隠しているのもばからしくなってくる。
今までは、伊織さんと付き合っているのをばれないように、僕だけでも表情を見せないようにしていた。でも、もうその必要もないか。いちいち、無表情を装うのも疲れるしな。
5時半を過ぎ、デスクの上を綺麗にしている伊織さんを見て、
「桜川さん、仕事終わりですか?」
と聞いてみた。
「はい。終わりました」
「じゃあ、一緒に帰りましょうか。僕も終わりましたので」
「え?はい」
僕はカバンを持ち、伊織さんのデスクのほうに行きながら、
「明日は日帰りですが、出張なんですよ。明後日は接待があるし、一緒に帰れるのは今日くらいなので、どこかで夕飯食べましょうか」
と聞いてみた。
「はいっ」
あ、すごく嬉しそうだ。
「くす」
元気に席を立った伊織さんの横に立ち、
「では、お先に失礼します」
と、課のみんなに挨拶をすると、伊織さんも横で同じように挨拶をしてお辞儀をした。
「お疲れ様です。デート楽しんでください」
野田さんだ。そして課長も、
「お疲れ。いいね、デートか、うらやましいねえ」
と、わけのわからないことを呟いた。
まあ、ほっておくか。僕は歩き出したが、伊織さんは真っ赤になりながら、ロッカールームに走り去って行った。
「面白いなあ、桜川さんは」
「それにしても、仲がいいんだなあ」
そんな声が聞こえたが、無視して僕は部屋を出た。




