第60話 キスどまり ~佑編~
仕事を終えてリビングに行くと、伊織さんはソファにちょこんと座り、テレビを観ていた。今日は寝ていないんだな。それにしても、なんだってそんなに姿勢よく座っているんだか。
「くす」
伊織さんの隣に座り、思わず笑うと、伊織さんは不思議そうな目で僕を見た。
「起きていたんですね。また、寝ちゃったかと思ったんですが」
「お、起きてますよ。ビールも飲んでいないし」
「ああ、そうか」
ちょっと口を尖らせた伊織さんが可愛くて、思わず伊織さんの髪を撫でると、
「あ、あの、じゃあ、私はこれで」
と、伊織さんはソファから立ち上がろうとした。
「もう少し、いてください」
「で、でも、でも、明日も仕事だし」
それを言われると、これ以上引き留められなくなる。
「…そうですね」
僕は諦めてソファから立ち、
「じゃあ、送ります」
と、車のキーを手にした。
「あ、そうだ。電話…。急用じゃないんですか?」
玄関から出ようとすると、伊織さんが聞いてきた。
「はい。別にたいした用じゃなかったですよ」
伊織さんはそれ以上は聞いてこなかった。
でも、後ろをとぼとぼと歩いてくる伊織さんは、前を歩いていてもわかるくらい暗い。
「実は、大学時代に付き合っていた人なんです」
僕はエレベーターに乗ってから、伊織さんにそう言った。ここはもう、正直に言ってしまったほうが、伊織さんのためにもいいと思った。
「え?」
「今頃なんで電話してきたのかわかりませんが、大学時代の友人とみんなで飲もうと言って来て」
「そ、そ、そうなんですか」
ああ。明らかに伊織さん、動揺しているな。
「まだ、登録…」
「ああ、消していませんでした。消すのすら忘れていました」
そう言うと、隣で伊織さんが沈み込んでいるのがわかった。
「でも、さっき、消しましたよ」
そう言ってから隣を見ると、伊織さんは、不安げな表情のまま僕を見ていた。
「気になりますか?」
「いいえ」
首を横に振ったが、伊織さんはまだ表情が暗い。
気になっているんだな。やっぱり、言わないほうがよかっただろうか。
地下の駐車場に行き、車に乗り込んだ。その間も伊織さんは黙っていた。
こんな時、ほっておかないで、ちゃんと伊織さんの気持ちを明るくしないと…だよな。不安な気持ちのまま帰したら、きっと伊織さんは考え込んでしまうだろうし。
僕は伊織さんのシートベルトを締めてあげて、そのまま顔を近づけ、伊織さんにキスをした。
「…」
伊織さんは、ちょっとだけ、固まった。
「気にしていますよね?」
「え?」
「っていう顔していましたよ?」
「え?顔?」
「すごく不安げな顔をしているから」
そう言って、僕はまた伊織さんにキスをした。
あ、目が丸くなった。なんだって2回もキスをしてくるの?と思っているのか。
「そんな、目を丸くしないでも」
「すみません」
「くす」
なんだって、謝ってくるんだか。ほんと、可愛いよなあ。
「……」
「喜久美のことは、もう、ほんと、終わっていますし、会いたいとも思いませんから安心してください」
「はい」
「ああ、僕が結婚するってこともちゃんと言いました」
「え?」
「喜久美、驚いていましたけど」
「よ、呼び捨てなんですね」
「え?」
「名前」
「ああ…、はい」
そうか。そこも気になるところか。
「そうですね。では、伊織さんも、伊織と呼んだほうがいいですか?」
「あ…」
真っ赤になった。伊織って呼ぶと、こんなに赤くなるのか。
「すみません。伊織さんって呼びますね」
「すみません。名前の呼び捨て、慣れていないんです」
「そうですか」
「はい。付き合った経験も浅くって、その時も苗字で呼ばれていたし」
「桜川さんって?」
「苗字の呼び捨て」
「ああ」
桜川…って呼ばれていたのか。
「私、本当に男の人とのお付き合いに慣れていなくって、ごめんなさい」
「謝ることないですよ?」
「はい。でも、やっぱり、ごめんなさい」
「…それは、何に対してのごめんなさいですか?」
そう聞くと、伊織さんは赤くなったまま、動かなくなった。
「……キスは、OKですか?」
「え?!ははは、はい」
「じゃあ、今はそれで、いいですよ」
嘘だ。
僕はかなりのやせ我慢をしている。
本当は今日だって帰したくない。
今までだって、何度か押し倒したくなったこともある。
だけど、傷つけたくないし、嫌われるのも怖い。
まったく、情けないよな。
マンションに帰った。一人でリビングにいると、やっぱり寂しさが込み上げてくる。
ブルルル。
テーブルの上に置いた携帯が鳴った。まさか、また喜久美か…と思って手にすると、『狭山 茂雄』と書かれていた。
「狭山?」
電話に出ると、
「おお、魚住か?」
と、懐かしい声がした。
「久しぶり。元気だったか?」
「なんだよ。さっきは喜久美から突然電話があったし」
「そうなんだよ。喜久美とばったり会って、今度みんなで飲もうってことになっちゃってさ。佑には私から電話をするって言うから、電話番号教えたんだけど…」
「らしいな」
「魚住、結婚するって本当か?」
「喜久美から聞いたのか?」
「うん。さっき電話があって。結婚するから忙しいって断られたって。それ、まじ?喜久美が、佑が結婚するわけない。きっと、強がってるって」
「本当だよ。それより、お前も結婚したんだよな?遠距離になるからって、シンガポール行く前に結婚したんだろ?」
「あれれ?聞いてない?俺、ふられたんだよ、あっさりとさ」
「え?そうだったのか?」
「喜久美も出戻りだよ。知ってた?あいつさ、2年前に離婚したの」
「……知らなかった」
「俺がふられてすぐに、あいつも離婚しちゃって。シンガポール行く前に一回二人で飲んだことがあってさ。その時も、お前の名前出ていたんだけど、離婚してすぐに会うわけにはいかないって、喜久美言ってたんだよね」
「……そうか」
離婚していたのか…。それも、2年も前に…。
「みんなで飲もうぜ。独身連中ばっかで集まってさ。あ、東佐野は来れないわけ?舞台だったっけ?」
「うん。今、ちょうど舞台してて、来れないと思うよ」
「じゃあ、お前は来いよ。結婚なんかしないんだろう?独身貴族になるんだろ?」
「そんなことも言っていたけどさ、結婚は本当の話。籍は多分、近いうちに入れる」
「まじなわけ?!結婚なんか絶対にしないって言ってたよな?」
「まあ、結婚したいって相手が現れたんだから、しかたないだろ」
「あ、あれか。できちゃった婚か」
「いいや。そういうわけじゃない」
「どうしちゃったわけ?喜久美も、お前が結婚するわけないって、信じてなかったぞ」
「本当のことだからって、狭山からも言っておいて。話ってそれだけ?」
「え、あ、ああ」
「じゃあな。他の奴らにもよろしく」
僕はそう言って、電話を切った。
大学時代、つるんでいた連中だ。狭山と他にもう一人、結婚したと聞いていたが、狭山は、結婚しなかったんだな。
飲み仲間の中で、女性は喜久美ともう一人いた。まあ、飲み仲間と言っても、僕は飲めないから、みんなとそうそうバカするわけでもないし、いつも冷めた目でみんなを見ていたけどな。
風呂に入り、そのあと炭酸水を片手にソファに座った。そして、しばらくぼんやりとした。
大学時代、僕は今よりもとんがっていた。喜久美ともだが、狭山や他の連中とも、討論を交わしたり、意見が合わなくて、衝突したり。
東佐野はあの頃からおちゃらけていて、ぶつかることはなかったが、バカなことばっかりやっている東佐野を、どこか冷めた目で僕は見ていたっけな。
結婚は、一生しないとその頃も思っていた。喜久美と付き合ったのは、ただ口論を交わしているのも楽しいと思ったからだ。ずっと付き合っていくとか、未来は一緒になるとか、そんなことを考えたこともなかった。
それは、喜久美もだと思っていたが、喜久美は僕よりも、未来のことを考えていたのかもしれない。
別れて、その後喜久美がどうしたかは知らなかった。だが、風の噂って言うやつだ。どこからともなく、喜久美が結婚したという話を聞いた。
それで、幸せになってくれるのなら、それでいいと思った。傷つけてしまったかもしれないから、その分、幸せになって欲しいと、そうも思っていた。
なのに、離婚か…。そんなに長続きしなかったってことか。
まさか、僕とよりを戻したいから、会いたいって言ったわけじゃないよな。
ふと、足元に何か落ちているのに気が付き、拾ってみると、伊織さんのピアスだった。
「わざと?まさかな」
それを見ながら、今日の伊織さんを思い出した。何度も真っ赤になっていたよな。
「ふ…」
それを思い出し、知らぬ間に笑みがこぼれた。
「ああ、まったく…。すでに恋しくなっているなんてなあ」
重症だよな。
そうだった。明日から、もう、伊織さんと付き合っていることを隠さなくてもいいんだった。そう思うと、かなり気分が軽くなった。
「朝、一緒に会社まで行ってもいいわけだ」
もっと堂々と話しかけてもいいし、一緒に帰るのも堂々としていていいし、他の男が伊織さんに言い寄ろうとしても、それを怒ってもいいし、もっと独占してもいいわけだ。
「…独占って、何を言っているんだか」
自分に突っ込みを入れ、リビングを後にしてベッドに潜り込んだ。
「隣に伊織さんがいないと、ベッドがやけに広く感じるよな」
むなしさを感じながら僕は、眠りに着いた。
翌朝、いつものように起き、朝食を食べ、洗濯物を干し、いつものようにマンションを出た。
いつもの時間に電車に乗ると、伊織さんがその車両に乗っていた。
「おはようございます」
そう言って近づくと、伊織さんは嬉しそうに微笑んだ。
「今日は会社まで一緒に行けますね」
「え?」
「もう、隠さないでもいいわけですから」
「あ、そ、そうですね」
なんとなく、二人ではにかんでいると、そこに今宮さんが乗ってきてしまった。しまった。車両変えておけばよかった。
「魚住主任。おはようございます」
それもやけに元気だ。
「おはようございます」
僕と伊織さんがそう挨拶をすると、今宮さんは、僕の横に並び、ニコニコしながら話しかけてきた。
はっきり言って興味もない。なんの話にも僕は、適当に相槌を打った。
結局、電車を降りてから、
「では、お先に」
と二人を残し、僕は先にビルに向かった。
あ~あ。かなりがっかりだ。
2課に行くと、まだ誰もいなかった。デスクに着き、静かな中仕事を始めていると、
「おはようございます」
と、北畠さんが席に着いた。
おや、いつもよりテンションが低い。っていうか、化粧や服装がかなり地味になっている。
「おはようございます」
そう答えたが、こっちも見ずにPCを起動させた。
「おはようございます」
塩谷だ。塩谷もテンションが低い。
「おはよう。報告書はできているか?塩谷」
「できています」
そのうちに2課のみんなが席に着いた。塚本は今日も休みらしいが。
そして、8時58分。バタバタと、溝口さんと伊織さんがやってきた。
「おはようございます」
「溝口さん、今、何時ですか?」
「えっと、9時前です」
こいつ、何度注意しても…。
「せめて5分前には席に着いて下さいって、いつも言っていますよね?」
「…は~~い。できるだけそうします」
できるだけだと?
「……あ、それと桜川さん」
「はいい?」
「電車、早かったんですから、早めに席に着いて下さい」
「は、はい。すみませんでした」
そう伊織さんに注意していると、課のみんなが一斉に僕らを見て、
「そんなに奥さんを怒らなくても」
と言い出した。
コホン。
「ちゃんと仕事してください、皆さん」
「はいはい」
みんなはにやけながら、返事をした。
ああ、やっぱり、やりづらいな。




