第6話 二人でご飯 ~佑編~
桜川さんが僕の家に来る日の前日、部屋の隅から隅まで掃除をした。そのあと買い物に行き、食材を買った。どんな野菜を持ってきてくれるのかは前もって聞いておいた。それに合う料理をしようと、レシピも二日かかって考えた。
そして当日。朝起きると蒸し暑く、汗をかいたのでシャワーを浴びた。そのあと、トイレだの洗面所だのを綺麗にして、キッチンに行ってご飯を炊いた。
それからコーヒー豆を挽き、トーストとコーヒーで取りあえず朝食を済ませた。
「なんだか、落ち着かないな」
ダイニングについても、気持ちが落ち着かなかった。
テーブルの上が気になり、片づけをした。ダイニングに置いてあった雑誌や新聞をまとめ、それらをウォークインクローゼットの中に仕舞い込んだ。
そしてまた、ダイニングに戻った。が、まだ落ち着かない。
洗面所に行き、洗濯物を洗濯機に放り込んだ。洗濯物がベランダにあると、プランターに土を入れたりするのに邪魔だろうなと思い、洗濯物は風呂場で乾かすことにした。
そうだ。土いじりをするんだから、軍手とかいるよな。
慌てて近くのコンビニに行き、軍手を買った。他にもウーロン茶のペットボトルを買ったり、コーヒーにミルクを入れるかもしれないと思い、コーヒーミルクも買い、マンションに戻った。
これで完璧か?
約束の時間は11時だ。外は蒸し暑い。エアコンをきかせて、部屋は涼しくしておこう。
時計を見ると10時半。駅まではすぐだが、5分前にはついていたほうがいいよな。そう思い、50分に部屋を出た。
だがまた、一回部屋に戻り、玄関にある鏡で確認をした。髪型、服、どこか変なところはないよな…。それからまた玄関を出て、鍵をかけた。
駅に向かって歩きながら、ふと我に返った。僕はいったい何をしているんだろう。なんだってまた、家に桜川さんを呼んでみたり、昨日からあれこれ準備をしたり、着る服を悩んでみたりしたんだろうか。自分の行動に呆れる。恋人を家に呼ぶわけでもないのに…。
恋人と呼べる女性だって、ここ数年いやしない。いたとしても、家に呼ぶことすらしなかった。ちゃんとまともに付き合っていたのは大学の時だけで、社会人になってからは食事に数回行った…くらいでなんの進展もなく、そのまま転勤になり、自然消滅状態だ。
「本当に僕は、何をしているんだ」
駅に着き、ため息をついた。そもそも、何だってまた僕は、桜川さんにフラワーアレンジメントを教えてほしいだなんて言い出したんだ。部下の女性とここまで親しくするつもりなんてなかったし、ここまで親しくした部下もいなかった。
いや。男性社員だったらいた。大阪でも名古屋でも、自分の家に呼んだこともあるし、手料理を食わせたりもした。そうやって、男性社員との親睦はこっちからするように心がけていた。
営業をしている女性社員も男性社員にくっついて家に来たことがある。だけど、男性社員に負けまいと頑張っている男勝りの女性で、こっちも女性として扱ったことはなかった。
缶ビールを一気に開け、他の男性社員と仕事について討論していたっけな。あの女性は結婚なんかしないんだろうな。きっと興味も持っていなかっただろう。
改札口の前でそんなことを思い出していると、片手には重たそうな紙袋、もう片方の手には花を持ち、桜川さんが歩いてくるのが見えた。あの紙袋にはたくさんの野菜が入っているのか。悪かったな、重たい思いをさせてしまって。
桜川さんの方に向かって行き、
「持ちますよ。重かったですよね?」
と手を出した。だが、
「いいえ。大丈夫です。私、力持ちだし」
と断られた。
おい。そこは素直に聞いてほしいところなんだが。
「持ちますよ」
僕は強引に桜川さんから紙袋を受け取った。
それにしても、力持ちだし…と言われるとは思わなかった。こんな時女性なら、すみませんとすぐに荷物を持たせるんじゃないのか?重いものは男に持ってもらう…って、そう思っているもんじゃないのか?桜川さんは違うのか?
それも丁寧に「ありがとうございます」と礼を言われた。
「いいえ。こちらこそ」
「え?」
「こんなに重いものをわざわざ持ってきてもらってすみません」
「いいえ。私が勝手に持って来ただけだから」
面白い人だな。僕のために野菜を持ってきてくれたって言うのに、勝手に持ってきただけとか言うし。
くす…。思わず笑ってしまった。すると、桜川さんがきょとんとした顔で僕を見た。なんで笑ったのかと疑問に思ったのか。それにしても、そのきょとんとした表情、なんとも可愛らしいんだが…。
「お昼、まだですよね?」
可愛いと思っていることに気づかれないよう、前を向いてそう聞いた。
「え?はい」
「この野菜で何か作ります」
「え?主任の手料理?」
桜川さんの声がでかくなった。もしや、僕の手料理を心配しているのか?
「大丈夫ですよ。料理には自信がありますから」
そう言っても桜川さんの表情は硬かった。
面白いな、その表情も。なんだか、桜川さんの表情を見ているのは楽しい。きっと素直なんだろうな。全部が顔に出るタイプだ。とてもわかりやすい。
桜川さんはそのあとも、硬い表情のままマンションまで来た。ドアを開けても、少し戸惑っている様子だった。
「どうぞ」
僕がそう言うと、おそるおそると言った感じで桜川さんは中に入り、ゆっくりと靴を脱いで揃えるとスリッパを履いた。
僕も急いで靴を脱ぎ、桜川さんより先にリビングの方に行ってドアを開いた。他の部屋のドアを間違って開けられたら大変だ。まだ、一部屋は段ボールがいくつか残っている。
「広いですね。えっと、2LDK?ですか?」
「はい」
「あの…、どなたかとシェアしている…とか?」
「いえ。一人暮らしですよ」
桜川さんは、やっぱりおそるおそると言った足取りでリビングに入った。男の一人暮らし…と聞いて、緊張したんだろうか。あ、まさかと思うが、僕が襲いでもしないかと不安がっているとか?……それはないか。
そんな男にはさすがに見えないだろうな。だいたい、そんな心配をしているなら、誘った時点で断っているだろうしな。
だいたい、僕もそんな気はまったくない。男性社員の部下を家に招いた時と同じ感覚で呼んだだけだ。そうだ。それだけだ。別に、恋人を呼ぶわけでもないんだから、こっちだって緊張したりしないでもいいんだ。いつも通りでいいんだ。
そう思いながら、桜川さんからもらった野菜を洗い出した。たくさん持ってきたな。それにどの野菜も大きいし、形もいい。よく、家庭菜園でここまで元気のいい野菜が育つもんだ。
桜川さんは、手伝うと言ってくれたり、バルコニーに出てみたり、どうやら落ち着かない様子だ。それもそうか。男友達の東佐野みたいに、ソファにどっかと座り、テレビを勝手に観たりはできないよなあ。
「すみません、桜川さん。暇ですよね?」
「え?」
突然声をかけたからか、桜川さんはびっくりした顔でこっちを向いた。あ、その顔も可愛い…じゃなくって。
「いえ。大丈夫です。えっと、テレビ観ます」
「DVD観ませんか?その棚に入っている映画、どれでも好きなのを観てくれて構わないですよ」
棚を指差すと、桜川さんの目の色が変わった。明らかに嬉しそうだ。そして、
「あ、この映画、好き。あ、こっちのも。わ!この映画、ずっと観たかったやつ~~~」
とはしゃぎだした。ほんと、わかりやすい人だな。くす。
また笑ってしまった。桜川さんは僕の笑った声を聞き、こっちを向いた。
「やっぱり、桜川さんが好むような映画でしたか?」
「はい。主任とは本当に趣味が合います」
「ですね」
それはすでにわかっている。きっと喜ぶだろうというのも想像できた。
「あ、そうだ。その棚の隣にある観葉植物、それがモンステラですよ」
「葉っぱ、面白いですね」
「でしょう?」
「観葉植物とか、好きなんですか?」
桜川さんが、しっかりと僕の目を見て、興味を持っているというまなざしで聞いてきた。やっぱり、この人はわかりやすい。興味を持っているかどうか、ここまではっきりとわかる人も珍しい。
僕はキッチンで作業をしながら返事をした。
「好きですよ。木とか、花とか…。そういうものって、見ているだけで癒されたりしますし」
「野菜育てていても、癒されますよ。育っていく過程を見ているのも楽しいし、段々とお野菜が可愛く見えてきたりするし」
「そうなると、食べるのが惜しくなったりはしないんですか?」
手を止めて、桜川さんの表情を確認するために顔を向けて聞いてみた。
「それはないです。ちゃんと美味しく食べてあげたほうが、お野菜も喜ぶかな…なんて思うし」
「じゃあ、僕も料理、頑張らないとですね」
そう言うと桜川さんはとても嬉しそうに微笑んだ。
その笑顔につられ、僕もにこりと笑ってしまう。すると桜川さんの笑顔が消えた。そのかわり、なぜか頬が赤くなり、パッと視線を逸らされた。
………。頬が赤くなったのは、僕の勘違いか?それとも、なんだろう。自分の言ったことを恥ずかしがっていたんだろうか。まあ、確かに。野菜も喜ぶなんて、面白い表現をしていたけれども。
桜川さんは静かにDVDを見始めたようだ。僕は料理に集中した。桜川さんが持ってきてくれた野菜はどれも新鮮で、美味しそうだ。
お皿を運ぶためにダイニングに行った。桜川さんは僕に気が付き、慌てて、
「手伝います」
とソファからお尻を上げた。
「いいですよ、DVDを観てて。あ、その映画にしたんですか。いい映画ですよね」
「はい。観たかった映画なんです」
桜川さんは中腰になっていた姿勢を戻してそう答えた。彼女が観ていたのは『素晴らしき哉、人生!』だった。
僕も好きな映画だ。だが、僕は人のために自分の人生を費やしたいとは思えない。もっと自由に自分の好きなように生きたい。周りに支えだのもいらない。変に人と関われば、それだけエネルギーを消耗する。疲れるだけだ。
人と関わるのは最低必要になる関わりだけでいい。仕事のためでも、自分が気に入った人、関わりたい人、それだけでいい。親と姉にこき使われ働いていた頃は、はっきりと言って、自由さを感じたことはなかった。人との関わりはその頃から苦手だったし、いや、苦手と言うより、面倒だった。
気を使うのも合わせるのも、機嫌を取るのも相手の気持ちを察したり、読み取るのも、面倒で億劫なものでしかない。
仕事の取引先の人間ともなれば別だ。それはもう、人と人の関わりではなく、ビジネスになる。こっちがどう出たら、仕事がうまく進むのか。相手が承諾するのか。売り上げに反映されるのか。それはもう、僕にとってはゲーム感覚だ。
桜川さんは、目を輝かせながら夢中でDVDを観ている。そんな時に悪いが、すっかり昼飯の用意が済んでしまった。
「DVDの途中ですみません。お昼にしませんか?」
後ろから声をかけると、桜川さんは一瞬その場で跳ねてからこっちを向いた。相当驚かせてしまったようだ。くす。面白い。まさか、跳ねるとは…。
「わあ、すごい!」
それも、ダイニングテーブルの上にある料理を見て、感動しているし。
「たいしたものじゃないですよ。サラダや、炒めもので…。ですが、きっととれたての野菜ですから美味しいと思います」
「はい。絶対に美味しいですよ。だって、主任が作ったものだし」
「お野菜を作ったのは、桜川さんですよ」
「え?あ、はい。そうなんですけど」
あれ?何でほっぺた赤いんだ?蚊にさされたのか?
僕は桜川さんの顔をじっと見つめてしまった。すると桜川さんは、困った顔をして一歩後ろに下がった。あ、まずかったな、じっと見たりして。
「あ、すみません。ほっぺ、赤くなっているから、蚊にさされましたか?蚊、そうそうこの部屋に入ってくることはないんですけど」
「これは!」
おや、相当動揺してしまったぞ。何か、変なことでも聞いたのか。
「蚊じゃなくて。えっと、あの。つ、つねっちゃっただけで」
「つねった?なんでまた…」
眠くでもなったのか?
「映画、観たかったものなので、夢みたいだなあって思って、ほっぺたつねって確認したって言うか」
え?夢じゃないかと確認するために、つねったのか?はあ?
「そんなに観たかった映画なんですか。だったら、最後までゆっくりと観て行ってください。あ、なんだったら、貸しますけど」
「いえ。いいです。観ていきます」
ますます不思議というか、面白い子だな。観たい映画が観れるからって、夢かと思ってほっぺたつねるか?普通。あ、そうか。普通じゃない行動をする子なのか。
……なんだか、もっと桜川さんに興味が沸いてきたな…。
食事の間も、彼女はずうっと「美味しい」を連続して、バクバクと食べている。緊張して…とか、遠慮して…とか、もしくは「私、小食なんです」とよく女子は言うが、そんなことを微塵も感じさせないくらいの勢いで。見ていて気持ちがいいくらいの、食べっぷりだ。
そうか。そんなに美味しいってことか。でも、確かに旨い。桜川さんが作った野菜は絶品だ。
それにしても…。無心で美味しいと食べている桜川さんが、まるで無邪気な子供に見えてくる。
「くす」
思わず笑ってしまうと、桜川さんがこっちを向いた。
ああ、そういえば僕は、きっと桜川さんなら僕の作った料理を喜んで食べてくれると思っていたっけな。
「桜川さんなら、すごく喜んで食べてくれると思っていました」
そう言うと、桜川さんは、少し恥ずかしそうに目を伏せた。
「どの野菜も本当に美味しいですね。僕でも、こんな美味しい野菜作れますかね?」
この質問には、桜川さんはきっと、顔を上げるだろう。確信があった。そして、僕の予想通り、
「はい。できます。絶対にできますよ」
と力強く桜川さんは僕の目を見てそう言い放った。
「くす」
今も目が輝いた。なんていうか、この人は、本当に素直なんだな。もしかすると感動屋かもしれないし、心が澄んでいるのかもしれない。
ああ、そうか。なんとなくわかった。さっきの「木や花は癒してくれる」っていうのは、植物には邪気がないからだ。きっと野菜もそうだ。裏がなく、こっちの思いをただ素直に受け止め育ってくれる。こっちの思いがそのまま反映されるんだ。
今、この木は何を考えているだろうだの、裏ではきっとこんなことを思っているに違いないだの、そんな気遣いも、疑いも必要ない。だって、裏で何かを考えることなんかないからだ。
それと桜川さんは同じだ。裏がない。多分、思ったことがそのまま現れ、わかりやすいくらい素直なんだ。だから、一緒にいてまったく疲れない。それどころか、かなり面白い。
食事が終わると、やっぱり、彼女は洗い物を手伝うと言ってきた。だが、そこははっきりと断った。そんな気遣いは無用だ。もっと僕の家でリラックスしていてくれて構わない。僕は一向に気にしないし、彼女が何もしないでいたって、呆れないし、なんとも思わない。
どっちかって言ったら、リビングでのんびりと寛いでいてくれた方が気が楽だし、嬉しいくらいだ。
僕はコーヒーも彼女の分も淹れて、リビングに行った。桜川さんは、すっかり映画にはまっていた。僕が隣に座り、背もたれによっかかった時、桜川さんは驚いたようにこっちを向いた。えっと、ほんの若干驚くのに時間のずれがあったのは、それだけ映画に夢中で、気づけなかったってことか?
面白いなあ、本当に。
「コーヒー、まだ砂糖も何もいれていませんから」
映画の邪魔にならないくらいの声でそう言った。桜川さんは「はい」と頷き、ミルクだけを入れた。
そのあと、スプーンで何度かかきまぜている手が、なんとなく震えていた。
………。なんでだ?今さら緊張しているとか?
時々、わからないところがある。「なぜ、震えているんですか?」と聞いてみたいが、さすがに聞けない。
「…美味しい」
一口飲んだ彼女は、小声でそう漏らした。
「美味しいでしょ?桜川さん、コーヒー好きですか?」
「はい。好きです」
「ネットで注文している豆なんです」
「家でコーヒー豆挽いているんですか?」
「はい。今朝挽いたばかりの豆ですよ」
桜川さんは、僕の方を向き、しばらく僕のことを目を丸くして見ている。近い。顔、真ん前だ。真ん前でそんなに、尊敬のまなざしをされてもなあ。
なんだか、思い切り照れくさい。
「えっと、映画観ないんですか?」
「観ます」
彼女は慌てて前を向いた。その必死さが可愛かった。
すぐ隣にいる桜川さんの髪から、また甘い香りが漂った。
なんなんだろうなあ、この人の、このなんとも言えない癒しオーラ。
僕は映画を観ながらも、ずっと隣の桜川さんの存在感を感じていた。
一人でいる時には味わえない、なんとも言えない感覚だった。




