第60話 キスどまり ~伊織編~
帰りがけにスーパーに寄り、買い物をした。まだ、慣れない部分もあるが、そのうち一緒に暮らしたら、こうやって買い物をして帰るのは日常になるんだろうな。
マンションに着き、佑さんはキッチンに行き、私はバルコニーに干してある洗濯物を取り込み、畳みだした。佑さん一人分の洗濯物なのですぐに終わり、
「お風呂も沸かしましょうか」
と、暇なのでそう佑さんに言ってみた。
「お願いします」
と言われ、私はすぐにバスルームに飛んで行った。そんなことをしたからなのか、食事中に、
「泊まって行きますか?」
と唐突に聞かれてしまった。
「ゴホッゴホッ」
びっくりして、ご飯粒が変なところにいきむせていると、
「すみません。大丈夫ですか?」
と、佑さんは慌てて水を汲んできてくれた。
「今日は泊まる支度もないし、帰ります」
咳もおさまりそう答えると、
「…そうですか」
と、佑さんは寂しげな顔をして答えた。
なんだか、申し訳ないような気がしてきた。でも、でも。
「それに、お仕事の邪魔ですよね?」
そう言って、なんとか誤魔化そうとしたが、
「いいえ、別に」
と、あっさりと言われてしまった。
「…でも、や、やっぱり、帰ります。ごめんなさい」
「……」
無言。返事もなし?
「あ、あの」
怒ってるとか?
「じゃあ、週末にでも泊まって行ってください」
「え?今週の?」
「はい」
また、お泊りだ。
「………はい」
私の頭の中では、「覚悟を決めろ」「勝負下着を買え」「とっととあげてしまえ」とそんな言葉がうずめいていた。
ああ。そんなこと言ったって、なかなか覚悟っていうのは決まらないものなの。
なんで?いい歳してバカみたい。さっさとあげないと、いい加減佑さんも呆れるって。
いい歳だからこそ、勇気が出ないの。
何を勿体ぶってるの。アホじゃないの。
ああ、うるさい。
と、自分の頭の中で、二人の私が言い合っている。
私は佑さんに仕事をしてもらって、後片付けをすることにした。食器を洗っている間も、ずっと頭の中ではそんな言い争いが進行中だ。
ブルルル。ブルルル。
「あ、電話?」
食卓に置いてある佑さんの携帯が振動している。
また、塩谷さんじゃないのかなあ。と思いつつ、携帯に近づくと、『堺 喜久美』と言う名前が表示されていた。
知らない女の人だ。誰?
ドキドキ。どうしよう。このままほっておく?でも、履歴は残るんだから、今、携帯を佑さんに持って行ったほうがいいよね。
そっと携帯を手にして、仕事部屋に行った。
「あ、あの、すみません。電話です」
「あ、すみません」
佑さんは椅子に座ったまま、電話に出た。
「もしもし」
そう言ってからすぐに、佑さんは電話から耳を離し、携帯を見つめた。
「切れちゃいましたか?すみません。早くに持って来たら良かった」
「いや、いいです」
ドキン。誰?聞いちゃダメだよね。うん。そんなことまで聞いたら、重い女だよ。
「そ、それじゃ、私はこれで」
「え?」
「片づけが終わったので、これで」
「ちょ、ちょっと待ってください。すぐに仕事終わりますし、車で送りますよ」
「いいんですっ。佑さん、仕事もあるのに大変だろうし」
「仕事はあと10分もあれば終わります」
「でも、あのっ。その、今の電話もかけなおしたりとか、しますよね?私、いたらきっと邪魔」
「いいえ。用があれば向こうからかけてきますし、こっちからはかけませんよ」
ほんと?その人って誰?ああ、聞きたい。でも、聞けない。
ブルルル。また、佑さんの携帯が振動した。
「電話です。あ、私、リビングにいます」
私は慌てて、仕事部屋を出てリビングに行った。
誰だったのかな。気になるけど、話しているのを聞く勇気もない。
もしかして、元カノ?
でも、登録を残すのかな。今、何をしているかもわからないって言ってたよね。
名古屋支店の子?それとも、誰?
テレビをつけ、ソファに座った。私は、悶々としながらずっとその場に固まっていた。
何十分も経った気がする。佑さんは、なかなか来てくれなかった。
バタン。仕事部屋のドアが閉まる音がした。そして、静かに佑さんはリビングに来て、私の隣に座った。
「すみません。思ったより時間がかかってしまって」
「いえ」
「くす」
「?」
笑われた?
「起きていたんですね。また、寝ちゃったかと思ったんですが」
「お、起きてますよ。ビールも飲んでいないし」
「ああ、そうか」
佑さんは、にこりと笑うと、私の髪を撫でた。
ドキーーーーッ!
「あ、あの、じゃあ、私はこれで」
「もう少し、いてください」
「で、でも、でも、明日も仕事だし」
「…そうですね」
佑さんはソファから立ち上がり、
「じゃあ、送ります」
と言って、車のキーを手にした。
「はい」
ドキドキしながら、私は佑さんと部屋を出た。
ああ、それにしても、さっきの電話が気になる。聞いたらダメだよね。でも…、やっぱり気になるものは気になる。
「あ、そうだ。電話…。急用じゃないんですか?」
ドキドキ。今の、わざとらしかったかな。
「はい。別にたいした用じゃなかったですよ」
そう言うと、佑さんはドアの鍵を閉め、廊下をスタスタと歩き出した。私も佑さんの後ろを歩きながら、ああ、それ以上はもう聞けないな…と、また、悶々としてしまった。
だが、エレベーターに乗ると、
「実は、大学時代に付き合っていた人なんです」
と、いきなり佑さんが話し出した。
「え?」
「今頃なんで電話してきたのかわかりませんが、大学時代の友人とみんなで飲もうと言って来て」
「そ、そ、そうなんですか」
あ、今、顔、引きつったかも。
やっぱり、元カノ。堺喜久美さんっていうんだ。
「まだ、登録…」
あ、やば。変なこと言いそうになった。
「ああ、消していませんでした。消すのすら忘れていました」
忘れてた?わざと残したんじゃなくて。
「でも、さっき、消しましたよ」
「………」
佑さんは前を見たままそう言った。
ドキン。なんか、横顔が、あまりにもクール過ぎて、かえって不安になってくる。
もう、本当に元カノのことはなんでもないんだよね?
「気になりますか?」
ドキン。今度は私の顔を見ながら、佑さんが聞いてきた。
「いいえ」
慌てて首を横に振った。
地下の駐車場に行き、二人で車に乗り込んだ。佑さんは自分のシートベルトより先に、なぜか私のシートベルトを締めてくれた。
「あ、ありがとうございます」
「いいえ」
そう静かに言うと、佑さんはそのまま私の顔に近づき、唇にキスをした。
ドキン。
「気にしていますよね?」
「え?」
ドキドキ。
「っていう顔していましたよ?」
「え?顔?」
私の顔?
「すごく不安げな顔をしているから」
そう顔の真ん前で佑さんが言った。
顔、近い。近すぎ。と思って真っ赤になっていると、また佑さんはキスをしてきた。
ひゃあ。何で2回も?!
「くす」
ええ?笑われた。なんで?
「そんな、目を丸くしないでも」
ああ、私、びっくりして目を丸くしていたのか。
「すみません」
「くす」
「……」
「喜久美のことは、もう、ほんと、終わっていますし、会いたいとも思いませんから安心してください」
「はい」
「ああ、僕が結婚するってこともちゃんと言いました」
「え?」
「喜久美、驚いていましたけど」
「よ、呼び捨てなんですね」
「え?」
「名前」
「ああ…、はい」
ハッ。また、変なこと言ったかも。
「そうですね。では、伊織さんも、伊織と呼んだほうがいいですか?」
伊織?!
ボワッ!顔、熱い。
「あ…」
くすくす。
佑さんは、あ…と言った後、くすくすと笑い続け、
「すみません。伊織さんって呼びますね」
と、笑いながらそう言った。
きっと、私が真っ赤になったのがわかったんだ。
「すみません。名前の呼び捨て、慣れていないんです」
「そうですか」
「はい。付き合った経験も浅くって、その時も苗字で呼ばれていたし」
「桜川さんって?」
「苗字の呼び捨て」
「ああ」
「私、本当に男の人とのお付き合いに慣れていなくって、ごめんなさい」
「謝ることないですよ?」
「はい。でも、やっぱり、ごめんなさい」
「…それは、何に対してのごめんなさいですか?」
ドキ。
わあ。まさか、なかなか覚悟できなくてごめんなさい。なんて言えない。
「……キスは、OKですか?」
「え?!ははは、はい」
思わず、コクンと頷いた。すると、
「じゃあ、今はそれで、いいですよ」
と、佑さんは優しく言ってくれた。
ドキン。佑さんの目も優しい。
なんだってこんなに優しい佑さんを、拒んでいるの?とっととあげちゃいなよ。
いつでも私はOKですって言いな。なんなら、今夜泊まって行きな。
無理、無理だってば。そんな準備もできていないし。
準備なんかいらないって。
いる。心の準備が。
って、また、頭の中で言い合いが始まってる。
「ただ、一つだけ」
車を駐車場から出すと、佑さんが話し出した。
「はい」
「待ちますが、ただ…」
ドキン。ただ?何か条件があるとか?
「伊織さんがOKになった時には、合図か何かをくださいね。でないと、僕はずうっと待ち続けてしまうと思うので」
「合図?」
「はい」
どんな?!
「ちゃんとわかる合図。お願いしますね」
「はい」
あ、はいって思わず言っちゃったけど、どんな合図?
っていうか、そんな日はいったいいつ来るんだろうか。
アパートの横に車を停め、私はシートベルトを外した。
「送ってくれてありがとうございます」
「いいえ」
「それじゃあ」
「おやすみのキス、してもいいですよね?」
「え?」
ドッキン。
佑さんが顔を近づけ、私の頬にキスをした。
「あ」
ほっぺた?そう思っていると、
「口の方がいいですか?」
と聞いてきた。
「い、いえ」
わあ。なんでわかったんだ。慌てていると、私の顎を持って、チュッと唇にキスをしてきた。
ひゃあ。ドキドキ。
「おやすみなさい」
「はい。おやすみなさい」
そう言いながら、私は車から降りた。そして、佑さんの車を見送った。
「おやすみのキスだって…」
バタバタと階段を上がり、弾む気持ちで部屋の鍵を開け、中に入った。そして、座椅子に座り込み、
「…ああ、やっぱり、あのまま泊まってきたらよかった」
と後悔した。




