第57話 誤解 ~佑編~
部屋に戻ると、課長がサイドテーブルでビールを飲んでいた。
「お、魚住君、どうだった?桜川さんは大丈夫そうか?」
「はい。すみません、温泉、入ってきてください」
「それより、話があるんじゃないのかい?」
「は?」
「塩谷さんが、魚住君から話があるから聞いてほしいと言われたんだが…」
「塩谷が?」
なんのことだ?ああ、塚本のことか。
「実は…」
課長の前の椅子に座り、塚本のセクハラについて話した。意外にも課長は、
「ああ、そうか。桜川さんのことを気に入っている感じはあったから、心配はしていたんだよ」
と事情をわかっているようだった。
「部長にも報告しておくが、すぐに処分を下すことはできないと思うし…。魚住君が極力桜川さんを守るようにしてくれないか」
「はい。それはもちろんしますが」
「…そうだなあ。注意くらいはしておかないとな」
課長はそう言って残っていたビールを飲むと、温泉に入りに部屋を出て行った。
翌日、朝早くに起きて風呂に入りに行った。のんびりと風呂に浸かり、風呂から出ると伊織さんにばったり会った。
「おはようございます」
「おはようございます」
伊織さん、すっぴんだ。顔色も昨夜よりいい。
「もう、大丈夫ですか?」
「はい。大丈夫です」
「今日は、お土産でも買って帰るだけで、特に何も予定は入ってないようですが、また塚本さんに言い寄られないよう、僕も見張っていますから」
「あ、はい」
伊織さんは、ぺこりとお辞儀をして溝口さんと女風呂の方に歩いて行った。
僕は朝から伊織さんに会い、かなりテンションが上がった。そのテンションのまま、朝食を食べに行った。
レストランにはまだ誰も来ていなかった。きっと、二日酔いで寝ているんだろう。朝食を食べ終わり、食後のコーヒーを飲んでいると、そこに1課の女子社員がやってきて、僕の顔を見て気まずそうに頭を下げた。
「主任…」
ガタンと隣の席に野田さんが着いた。朝食はビュッフェ形式で、野田さんのお皿の上にはサラダとスクランブルエッグが乗っていた。
「それだけですか?」
随分と小食なんだなと思いつつそう聞くと、
「二日酔いなもんで。あとはオレンジジュースで…。って、そんなことはどうでもいいんですよ。それより、さっき4課の女子社員と廊下で会って聞いたんですけど…。主任、部屋に桜川さん連れ込んだって本当ですか?」
飲んでいたコーヒーを吹き出しそうになった。
「4課の人が?」
どこからそんな話を聞いたんだ。
「桜川さんの肩を抱いて、部屋に一緒に入って行ったところを見ちゃったそうですよ。あれ、まずいですよ。お喋り好きのお局女子も4課だから、きっとそっちまで筒抜けになっているだろうし」
「……」
「課長とか、部長にまで話が漏れたらやばいんじゃないんですか?まあ、個人的には、桜川さんと主任が仲良くなるのは賛成ですが」
「え?」
「あ、いえ。とりあえず、忠告しておきます。何か早めに手を打った方がいいですよ」
「手を打つ?」
「言い訳考えておくとか」
「別に言い訳するつもりもありませんが」
「でも、自分の部下を部屋に連れ込むってのは、まずいと思いますよ」
ぼそぼそと野田さんがそんな話を僕の隣でしていると、
「おはようございます」
と、塩谷が僕の前の席に座った。
「ああ、おはよう」
「主任、お風呂は入りました?」
「朝風呂に入ってきたよ」
「露天も?気持ちいいですよね」
「朝から元気だな、塩谷」
「はい。元気ですよ」
塩谷の出現で、野田さんはそれ以上僕と伊織さんの話をしなくなった。
「コーヒーも飲み終わったし、僕は部屋に戻るよ。それじゃあ」
塩谷は「え?もう?」と引き留めようとしたが、僕はさっさとレストランを後にした。すれ違いで溝口さんと伊織さんがやってきた。にこりと伊織さんに微笑むと伊織さんも恥ずかしそうに微笑み、そのままレストランに入って行った。
部屋に戻ると、課長がようやく起きたのか、着替えをしているところだった。
「魚住君、早いね。もしかしてもう朝食も終わったのかい?」
「はい。でも、まだ男性社員はほとんど来ていないですよ。二日酔いで朝飯を取らない人もいるかもしれないですね」
「そうだね。僕もあまり食欲はないんだが、コーヒーだけでももらってこようかな」
そう言いながら、課長は部屋を出て行った。
僕はぼんやりと、サイドテーブルの椅子に座り、窓の外を眺めた。野田さんの言う、手を打つって言うのはいったいどういう意味なんだ?課長も部長も事情を知れば、特に問題視しないだろうし、どっちかっていったら、塚本のこれからをどうするかが問題になってくるだろうし。
僕は、特に僕と伊織さんのことでは、なんにも問題が起きるとは思えなかった。だから、「まあ、いいか」とその時は、軽く考えていた。
帰りの電車は、ほとんどみんな一緒の電車になった。僕と伊織さんも同じ電車だったが、席は離れていた。4課の女性陣が僕を見るたび、ひそひそと何かを話し、なんとなく北畠さんが僕を見る目も違っているように感じたが、気に留めなかった。
新宿駅で各方面に別れ、解散となった。僕は伊織さんと同じ方面なので、なんとなく一緒にホームへと進んだ。そして、周りに社の人間がいなくなってから、そっと伊織さんに近づいた。
伊織さんは僕を見ると、嬉しそうに笑った。
「一緒に帰れますね」
隣に並んでそう言うと、コクリと頷き、またはにかんで笑う。
「疲れましたね」
電車に乗り、吊革に掴まってそう伊織さんに言うと、
「はい」
と、伊織さんは頷いた。
「明日は休みですから、ゆっくりしましょう」
「はい」
「美味しそうな蒲鉾を買ってきたんですよ」
「私も買いました」
「じゃあ、夕飯や朝食で食べましょうね。昼はどこかで食べましょうか。お腹すきましたよね?」
おや?返事がない。僕を見て黙っている。
「伊織さん?」
「はい。すきました」
マンション近くに美味しいそば屋があるので、そこで伊織さんとお昼を食べた。伊織さんはさっきから、なんとなくそわそわしているように見える。
「疲れていますか?大丈夫ですか?」
「え?は、はい」
顔も赤い。いや、こういう伊織さんは、たびたび会社でも見るが…。まだ僕と一緒にいる時、緊張でもするんだろうか。昨日の夜は、あんなに僕にしがみつき、一緒にいると安心できると言っていたのにな。
昼飯を食べ終わり、マンションまで歩いた。伊織さんは、僕の横を嬉しそうに歩いている。
おや?緊張していたわけではないのかな。今は、足取りも軽やかそうだ。
「洗濯や掃除をしてもいいですか?」
「はい。手伝います」
二人で掃除や洗濯をした。一通りそれらが終わり、
「じゃあ、夕飯の買い出しに行きますか」
と言うと、伊織さんは元気よく頷いた。
なんだか、どんどん伊織さんが元気になっていくな。スーパーの中でも嬉しそうにあたりを見回し、野菜や肉を選んでくれた。
「もう、一緒に暮らしているみたいですよね」
「え?!」
「一緒に暮らしたら、週末はきっとこんな感じですね」
「そそそ、そうですね」
伊織さんは僕の言葉に真っ赤になった。
マンションに戻り、夕飯の準備に取り掛かった。
「あの、お風呂でも洗いましょうか?」
伊織さんが遠慮がちにそう言ってきたので、
「あ、お願いできますか?」
と言うと、伊織さんはコクンと頷き、すぐさまバスルームに飛んで行った。
本当に彼女は、いつでも一所懸命にやってくれるよなあ。そういうところが、ものすごく可愛い。
「今日は飲んでも大丈夫ですよ」
夕飯の準備も終わり、食卓に着きそう言うと、
「あ、はい」
と、素直にビールの缶を開けた。そして、僕はノンアルコールビールを飲んだ。
「昨日、佑さん、ビール飲んで大丈夫でしたか?」
「はい。いつもなら、1杯くらいであそこまで酔わないんですが…」
「疲れていたんですね、きっと」
「すみません。酔ったりしなかったら、伊織さんが水を取りに行くこともなかったし、怖い思いをしないで済みましたよね」
「大丈夫です。だって、佑さんが助けに来てくれたし」
「……」
もう伊織さんは酔ったらしい。僕の顔を見てうっとりとしている。伊織さん、いつもは恥ずかしがって僕をじっと見ることもないが、酔うとまっすぐと見つめて来るんだよな。
僕は酔った伊織さんが、けっこう好きだ。じっと僕を見つめ、頬を赤らめている伊織さんは色っぽい。
夕飯が終わり、伊織さんが先にお風呂に入った。僕は片付け物を終え、リビングで伊織さんが出てくるのを待った。
ガチャリとドアの開く音がして、伊織さんがやってきた。頬はピンク色で、色気はさらに増した。でも、僕のパジャマを着ている伊織さんは、すっぴんで幼くなり可愛らしくもある。
「あの…、すみません。お風呂あいたのでどうぞ…」
「髪、ちゃんと乾かしましたか?濡れたまんまじゃ風邪ひきますよ」
「乾かしました」
「じゃあ、僕も入ってきます。ソファで眠らないよう、眠くなったらベッドに行ってくださいね」
「眠くないです」
本当に?なんとなく目が重たそうじゃないか。
強がりなのか?くす。きっとソファで寝ちゃうんだろうな…と思いながら、風呂に入りに行った。バスルームがあったかいのは不思議だ。一人暮らしだと、ひんやりとしたバスルームにいつも入ることになる。誰かがもう入ったお風呂に入るって言うのも、特に冬場はあったかくなっていていいものだな。
バスタブに浸かり、ぼんやりと伊織さんのことを思った。伊織さんが僕のマンションにいる。それだけで、ほっこりと心があったかくなる。不思議だよな。
家族ってこういうものか。おふくろや姉貴が家に帰って来た時には、正直面倒くさいと思っていたんだけどな。
風呂から出て髪をざっと乾かした。そして、リビングに行くとやっぱり、ソファで丸くなって伊織さんが寝ていた。
「伊織さん、ベッドで寝ましょうか」
そう声をかけても、まったく起きそうにない。それにしても、ソファに丸くなって寝てしまうなんてなあ。
横に座り、しばらく寝顔を見た。だが、伊織さんが風邪を引いては大変なので、伊織さんを抱きかかえ、寝室のベッドに寝かせた。掛布団をかけ、
「おやすみなさい」
と言うと、
「ん~」
と、伊織さんは返事をした。くす。可愛い。
寝顔、本当に赤ちゃんみたいだよなあ。無防備にすやすや眠る伊織さんの唇にキスをして、僕はまた洗面所に戻り髪を乾かした。
一緒に住めば、酔ってリビングで寝ちゃう伊織さんを、ちゃんとベッドに寝かせてあげられる…。アパートに一人だと、伊織さんは冬場こたつで転寝しちゃうんじゃないのか。うん。絶対にしそうだ。それでまた、風邪をひきそうだよな。
歯も磨き終え、寝室に行った。伊織さんは気持ちよさそうにくーくーと寝ている。本当に可愛い寝顔だ。ベッドに入り、その寝顔をしばらく眺め続けた。
「むにゃ…」
何か寝言を言った。そして、伊織さんはにんまりと笑うと、ぐるりと寝返りを打ち背中を向けた。
なんだ?いったいどんな夢を見ているんだ?とりあえずもう、顔を見ることはできなくなった。仕方ない。寝るとするか。伊織さんの髪を撫で、そっと首筋にキスをして、僕は後ろを向いた。
危ない。うなじもやけに色っぽかった。
あまりにも無防備に寝ている伊織さんだから、手なんかもちろん出せるわけがない。だけど、やっぱり、意識してしまうよな…。
なんとか、雑念を追い払い、僕は眠りについた。
朝、気が付くとすぐ隣に伊織さんの顔があった。すーすー寝息を立てている。
可愛い。
前髪をあげ、おでこにキスをした。伊織さんはまったく起きる気配がない。しばらく寝顔を見つめ、起き上がって顔を洗いに行った。
コーヒー豆を挽き、朝食を作り出した。あとはトーストを焼くだけ…のところで一旦作業を止め、寝室に行くと、まだ伊織さんは寝ていた。
「伊織さん」
伊織さんの髪を撫でながら声をかけた。
「んん?」
「おはようございます」
そう言って、またおでこにキスをした。
「…あ、お、おはようございます」
やっと目を開けた。あ、いきなり真っ赤になった。くす。そして慌てたように顔を布団の中に隠してしまった。
「朝食できますよ。起きてくださいね」
「は、はい。いつもすみません」
また、他人行儀だよなあ。これはいつ変わるのかな。そんなことを思いつつ、キッチンに戻りトーストを焼いた。
着替えて顔を洗った伊織さんがダイニングに来た。ああ、まだすっぴんだ。すっぴん、可愛いよな。
「コーヒーのいい香りがしますね」
「はい。挽きたてですよ」
そう言いながら二人で椅子に腰かけ、朝食を食べだした。
少しだけまだ、照れくさそうにしている伊織さん。俯き加減で話をして、ときどき僕の顔を見る。
「今日は何をしましょうか」
「え、えっと」
「あ、伊織さんの家も掃除とかしないとならないんですよね」
「はい」
「そうですか。じゃあ、早めに帰りますか?」
「…えっと。あんまり長居したら迷惑ですよね」
「まさか。僕はずっといてほしいですよ」
「じゃ、じゃあ、午後に掃除をしに帰ります」
「…はい。昼まで一緒に居ましょうか」
「はい」
残念だ。やっぱり、早くに一緒に暮らしたい。
でも、とりあえず、昼までは一緒だ。映画でも見てのんびりするか、また公園にでも行くか。
だけど今は、ちょっと照れている伊織さんの顔を眺めているとするか。




