第55話 宴会にて ~佑編~
伊織さんは、僕の浴衣姿を一瞬見たが、すぐに視線を外した。でも、顔が赤くなっているのがわかる。僕は顔色を変えず、
「課長に着替えろと言われたんですよ。強制的に…」
と、そう伊織さんに答えた。
「そうなんですか。でも、男性社員はみんな浴衣ですもんね…」
「……似合わないですよね?」
そう小声で聞くと、くるくると小さく伊織さんは首を振った。でも、さっきから僕の方を見ようとはしない。
幹事が手際よくビールをそれぞれのコップに注ぎ、
「では、みんな揃ったので乾杯をしようと思います。南部課長、音頭をお願いします」
と大きな声でそう言った。
南部課長の音頭のもと、みんなで「乾杯」とグラスを合わせ、みんなが一斉にビールを飲んだ。女性社員も飲めない人もいるのに、グラスに注がれたビールに口を付けた。
僕も仕方なく、一口だけ飲んだ。どうやら、乾杯だけはビールで…と、この部では決まっているらしい。幹事がすぐにソフトドリンクを女性社員に持ってきた。
「桜川さんは飲めるからビールでいいですね」
「いいえ。私もオレンジジュースで」
「またまた~~。いつもお酒飲んでいるじゃないですか」
幹事は桜川さんには、ソフトドリンクを持って来なかった。
「あのっ」
ん?伊織さんが幹事を必死に呼んでいる。
「すみません!」
「はい?なんですか?」
「魚住主任にノンアルコールのものをお願いします」
「ああ、そうか。魚住主任、下戸でしたっけね。ノンアルコールビール持ってきますね」
幹事はそう言って、ノンアルコールビールを持ってやってきた。
「桜川さん、ありがとうございます」
「いいえ。あ、お注ぎします」
伊織さんは空いているグラスに、ノンアルコールビールを注いでくれた。そして、
「そっちのビールと間違えないようにしてくださいね」
と可愛らしく微笑んだ。
「あの」
伊織さんは一口ビールを飲み、何やら恥ずかしそうに声をかけてきた。
「はい?」
「また、隣ですね…」
「誰かがもしかして、仕組んでいるんですかね?」
と僕が言うと、伊織さんは慌てて、
「私じゃないです」
と首を振った。
「くす。わかっていますよ」
「あ、そ、そうですか」
「課長も溝口さんも知っているわけだし…。他の課の人はわかりませんが、うちの課のみんなも、桜川さんが誰に気があるかも知っていますしね」
「え…」
「僕としても、桜川さんが塚本さんの隣にならないで、ほっとしているんです」
「あ…」
ちらっと伊織さんが塚本さんを見た。僕も塚本さんを見ると、ビールを飲みながら伊織さんの方をじっと見ていた。
塚本さんのあの目、かなり酔っているのかすわっている。本当に危ないかもしれない…。
「…塚本さん、まじで危険だなあ。本当に今日は気を付けてください」
「はい」
「僕もちゃんと見張っておきますが」
「…はい」
わかっているのかな。もうすでに伊織さんも酔っているのか、顔を赤らめ、ただ頷いているだけだ。
「主任」
「はい?」
「い、意外と…、浴衣お似合いですね」
「僕がですか?」
「……」
僕を見て、なぜかさらに伊織さんは顔を赤らめた。
ああ、少し浴衣がはだけていたな。それで赤くなったのか?
ゴクゴクっといきなり伊織さんがビールを飲んだ。そして、首まで真っ赤になって、
「主任って、意外と筋肉あるんですね」
とすごいことを言い出した。
完全に酔っているな。ビール1杯目だよな…。すきっ腹に飲んだから、酔いが回るのが早かったのか?
「こう見えても鍛えていますからね」
「え、そうなんですか?」
「ジムとか行っているんですよ。体がなまったりしないように」
「そうなんですね…」
ほわわんとうっとりした目で僕のことを見て来たぞ。そんな目で見て、周りの人がどう思うか…。
という心配もいらないか。みんな、酔っぱらい出していて、カラオケまで始まったから、僕らのことなんて気にしている人もいやしない。
あ、一人いる。さっきから塚本さんが伊織さんを見ている。あと、もう一つ視線を感じた。ああ、塩谷か。
怖い顔で睨むように見ているなあ。
「たす…、いいえ、主任」
「はい」
「私、なんか、酔っているような気が」
「酔っていますね」
「すみません。また、何か失態をしでかすかも」
「大丈夫ですよ。ちゃんと僕が介抱しますから」
「……」
あ、真っ赤になったぞ。
「今日は、私、ついています」
「は?」
「ラッキーなことばかりです」
「そうですか?」
「だって、ずっとたす…、主任の隣になるし」
「ああ、そうですね」
さっきから、佑さんと言いそうになっているよなあ。まあ、僕もそうだったけど。
「でも、みんなが気の毒がっちゃって」
「みんな?ああ、他の課の女性がですか?」
「矢田さんなんて、電車で席を変わったこと、気にしちゃって謝ってきちゃって」
なるほど。本当は矢田さんが僕の隣になるはずだったわけか。で、桜川さん、変わってくださいとか言われたんだな。
「私、飛び上がるくらい、嬉しかったんですけど、そこで飛び上がるわけにもいかないし」
くす。
「飛び上がるくらい、嬉しかったんですか?僕の隣になって」
「…はい」
とろんとした目で僕を見て、伊織さんは可愛く頷いた。ああ、酔うと本当に伊織さんは、大胆になるというか、素直になるというか、こっちが恥ずかしいくらいだ。
「本当は、あの」
伊織さんは、何か言いかけてなぜかやめた。そして、お料理を口にして、
「たす…、主任の作るお料理の方が美味しいですよね」
と、突然話題を変えた。
「そうですか?」
「はい」
ぱくぱくと、また口に煮物を運び、
「宴会用のお料理って、いつも、いまいちだなあって思うんです」
と伊織さんは言い出した。
「そうですね。ここのホテルはかなりいいホテルだし、個人で泊まりに来たほうが、いい料理にありつけるかもしれないですよね」
「美味しい料理を食べて、温泉入って…なんていいですね」
「そうですね。今度そんな旅がしたいですね」
ゴクリ。そんなことを伊織さんに言いながら、またビールを飲んだ。
「あれ?たすく…じゃなくって主任。ノンアルコールビールって、そのグラスでしたっけ?」
「……え?」
あ!そう言えば、やけに体が熱くなってきたなって思ったんだ。味もいつもと違うような気もしたし、少し頭もクラクラしてきた。
「…間違えました。やばいな…」
情けないことに、伊織さんに気を取られ、グラスを間違えていた。
「大丈夫ですか?主任」
「ああ、はい。大丈夫ですよ。でも、水をもらおうかな」
「私、もらってきます」
そう言って伊織さんは立ち上がり、宴会場を出て行った。
ダメだ。グラス一杯飲んでしまった。クラクラする。本気でやばい。 トイレに立とうとした。だが、目が回りそうでその場を動けなかった。
その時、僕は視線が二つとも消えていたことに気が付けないでいた。
やばいな。いつもなら、1杯くらいのビールで、こんなに具合が悪くなったりしないんだが。疲れていたから酔いが回るのが早かったのか、目の前がくらくらしている。
それにしても、伊織さんが戻ってくるのが遅いんじゃないか。と、そんなことを思っていると、
「主任、大丈夫ですか?」
と、塩谷が宴会場に入ってきた。手にはグラスを持っている。
「はい、お水もらってきましたよ」
「…なんで塩谷が?桜川さんは?」
「トイレじゃないですか?」
「いや、桜川さんが水をもらいに行ったんだ」
ふと、嫌な予感がして宴会場を見回した。いない。塚本さんがどこにもいない!
「塩谷、塚本さんは?」
「え?」
「塚本さんだよ。会わなかったか?」
「トイレじゃないですか?さっき、すれ違ったけど」
「どこで?そこに桜川さんはいなかったか?!」
「ど、どうしたんですか?主任。それより、水」
僕は水をグビっと飲み干し、
「どこですれ違った?教えろ」
と、塩谷の腕を掴み宴会場をあとにした。
立ち上がった時、一瞬頭がクラっとした。でも、今はそんなことを気にしている場合じゃない。桜川さんが危ない。塚本さんの目、危なかった。それに、かなり酒も飲んでるに違いない。
「塩谷、どこですれ違ったんだ」
「あの辺です。その先に桜川さんがいて」
「桜川さんの方に、塚本さんは行ったんだな?」
「はい」
「くそ」
ちょっと目を離した隙に…!
廊下を走った。
「どうしたんですか?」
後ろから塩谷も追いかけてきた。
「塚本は桜川さんに目をつけていたんだよ。酔っぱらっているし、何をしでかすかわからない」
「え?何をしでかすかって?」
「あいつは女に手が早いって有名なんだ」
「でも、既婚者ですよね」
「関係ない。不倫でもなんでもするとんでもないやつだ」
「そんな人が桜川さんを狙ってる?!」
いない。どこだ。どこに伊織さんを連れて行ったんだ。
まさかもう部屋に連れ込んだんじゃないだろうな。
「私のせいかも」
後ろからついてきた塩谷が暗くそう言った。
「え?」
走りながら振り返った。真っ青な顔をしている。
「私のせいだ。どうしよう」
なんなんだよ。いったい、塩谷、何をしたんだ。
でも、そんなこと問い詰めている場合でもない。早くに伊織さんを見つけないと。
ドクン。
なんで、塚本から目を離したりしたんだ。
くそ。どこだよ!!
「離して!」
廊下の角を曲がったあたりから声が聞こえてきた。
「今の声、桜川さん?」
塩谷も気が付いたらしい。僕らは急いで角を曲がった。
あ!!伊織さんがまさに今、塚本の野郎にエレベーターに乗せられるところだ!
冗談じゃない。エレベーターなんか個室に二人きりにさせられるか。
「伊織さん!」
閉まる直前のエレベーターの間に腕を入れた。間一髪でエレベーターのドアはまた開いた。伊織さんは真っ青な顔をしながら塚本に肩を抱かれていて、必死に抵抗しているところだった。
「何してしてるんだよ!」
エレベーターの中に入り込み、伊織さんの肩に回している塚本の手を掴んだ。塚本はすぐに伊織さんから離れ、
「桜川さんが気分悪いから、部屋で休みたいって言うからさ」
と、慌てながらそんな言い訳をした。
「勝手なこと言ってんな!!」
僕は一気に頭に血が上り、自分でも気づかないうちに塚本の胸ぐらを掴んでいた。そして、塚本の顔を殴り、塚本はエレベーターの隅に倒れこんだ。
「桜川さん、大丈夫?早く出てきて」
伊織さんはまだ、真っ青な顔をして立ち尽くしていた。だが、塩谷の声に反応し、やっと顔をあげた。
「金輪際、絶対に伊織さんに近づくなよ。今度近づいたら、セクハラで訴えるからな」
塚本にはそう言い残し、僕は伊織さんの肩を抱いてエレベーターから出た。
「た、佑さん…!」
「伊織さん、すみません。怖い思いさせましたよね」
ギュウっと伊織さんを抱きしめた。伊織さんの肩はかすかに震えていた。
そして、僕の胸で声を出して泣き出してしまった。




