第52話 お散歩 ~佑編~
知らぬ間に眠っていたらしい。ぼんやりと目が覚めた。サイドテーブルの時計を見ると、すでに9時を回っていた。
「…」
もうこんな時間か。
目覚ましはセットしなかった。せっかくだから、ゆっくりと起きたいと思っていたし。
「すーすー」
隣から可愛い寝息がした。伊織さんが背中を向けているから、上半身を起こして顔をのぞきこんで見た。
可愛い。思い切り安心しきった赤ちゃんのような寝顔だ。
そっと頭を撫でてみた。
「ん…」
もぞっと伊織さんは寝返りを打った。そして、僕の方に顔を向けた。
伊織さんの隣に寝転がり、可愛い寝顔を思う存分眺め、僕はベッドから起き上がった。
顔を洗い、着替えをした。そして寝室に戻ると、まだ伊織さんはくーすか気持ちよさそうに眠っていた。
まだまだ、この可愛い寝顔を見ていたいが、そろそろ朝飯にしないとな。
「伊織さん、起きてください」
そう声をかけたが、まだ目を開けない。
「伊織さん」
おでこにかかっている髪をあげ、おでこにキスをした。
「朝ですよ」
耳元でそう囁くと、突然伊織さんがぱちっと目を開けた。
「おはようございます。僕は朝飯作ってきますので、顔洗って来てくださいね」
「え?…あ、は、はい」
目をぱちくりさせて、辺りを見回してから伊織さんはそう答えた。
キッチンに行き、コーヒー豆を挽いた。辺り一面コーヒーの香りがして、そのあと、ハムエッグを作った。そしてちょうどトーストが焼けた頃、伊織さんがダイニングにやってきた。
「おはようございます」
まだ、ほんの少し伊織さんはぼんやりとしている。完全に目が覚めていないんだろうか。
「昨日はちゃんと寝れましたか?」
「はい。眠れました」
「でも、寝足りない感じですよ?」
「う。すみません。ほんと言うと、なかなか眠れなくって」
やっぱり。僕も眠れなかったが、隣でたまにモソモソと動いていたもんなあ。
「コーヒー、濃くしますから。きっと目が覚めますよ」
「すみません」
「それから、天気良さそうなので、公園でも散歩に行きませんか?」
「はい、行きます」
朝食を一緒に食べ、食後のコーヒーものんびりと飲んだ。朝食が終わる頃、洗濯が終わったので、二人でバルコニーに出て、洗濯物を干したり、プランターに水をあげた。
「ああ、本当に気持ちいいですね」
背伸びをしてそう言うと、伊織さんも「はい」と目を細めて喜んだ。
それから二人で、のんびりと歩きながら公園に行った。バルコニーからは近くに見えていたが、歩いてみると意外と距離があり、8分くらいかかってしまった。
「広いですね」
木々の間に舗装されている道があり、そこを歩いて行くとだだっ広い芝生の広場に着いた。3か所ベンチが置いてあって、そこに二人で並んで座った。
「お弁当持って来たらよかったですね」
「あ、いいですね!」
「今度はそうしましょう」
「はい」
伊織さんが嬉しそうに頷いた。と思ったら、すぐに真顔になり、
「お弁当、やっぱり佑さんが作るんですか?」
と遠慮がちに聞いてきた。
「僕が作るお弁当、嫌ですか?」
「とんでもない!ただ、その。なんだか、申し訳ないような気が」
「気にしないでいいですよ。けっこう、弁当作るのも好きなんです」
「え?」
「母や姉の弁当も、僕の弁当も高校時代作っていたし」
「すごい」
「いや、そんなたいしたもんは作っていませんが」
「…」
まだ、尊敬のまなざしで見ているなあ。
「さっき、来る途中でカフェがありましたね」
「はい。民家の一階をカフェにしていましたね」
「ちょっと入ってみたいなって思ったんです。昼はあそこで食べませんか?」
「はいっ」
あ、元気になった。
その後、しばらくベンチで語らった。式はどこがいいかとか、いつがいいかとか、そういう話をすると、伊織さんははにかみながら答えてくれた。
「神前?神社とかですか?」
「できたら…。教会より、そっちのほうが佑さんに似合いそうなので」
「はい。僕もどっちかっていったら、神前のほうがいいですね」
そう言うと、顔を赤らめ伊織さんは、俯いた。
「部屋に戻ったら、ネットで空いているところがないか調べてみましょう」
「はい」
「で、いつ、うちに来ますか?」
「は!?」
「いつ、籍を入れましょうか。僕はすぐにでもOKですが」
「え?籍?!」
「ご両親に挨拶もできたし」
「でも、まだ、佑さんのご両親に…」
「うちはいいですよ。離婚もしているし」
「…でも、お母様とか、会わないでもいいんですか?」
「会うと大変ですよ。まあ、式にはさすがに呼ばないとうるさいでしょうけど」
「………」
なぜか、伊織さんはシュンと小さくなってしまった。
「伊織さん?」
「やっぱり、私じゃ反対とかされちゃうかもしれないですよね?」
「は?」
「……」
ああ、それで会わせないようにしていると思ったのか?
「うちの母と姉はうるさいんですよ。下手すりゃ僕らの式をプロデュースするとか言い出しそうだし。そういうの面倒ですし」
「……面倒?」
「言っていませんでしたっけ?ウェディングプランナーなんですよ、うちの母親。それも、けっこう派手で手の込んだ式をやりたがる…。伊織さんの意見も聞かず、好き勝手にプラン立てそうだし、任せたら大変なことになると思いますよ」
「そうなんですか」
「あ、手の込んだ式を挙げたいですか?」
「いいえ。シンプルなほうがいいです。身内だけのささやかな感じの…」
「良かった。同意見です」
ほっと胸を撫で下ろすと、伊織さんは僕の方をちらっと見た。
「あ、僕のことを考えて、そう言ってくれたんですか?」
気を使っているのかもしれないよな。
「いいえ。ただ、その…」
「はい」
「式も挙げても挙げなくても、それもどっちでもいいんですけど」
そうなのか?
「佑さんと結婚するっていうことだけで、胸がいっぱいって言うか、信じられないって言うか、それだけで幸せって言うか」
そう言って真っ赤になった伊織さんが可愛すぎる。
「そ、そうですか」
それだけ答えて僕は、照れくさくて何も言えなくなってしまった。
12時近くになり、カフェに行った。出てくる料理も家庭的だし、コーヒーも美味しかったし、雰囲気も良かった。奥さんがたった一人でやっているようで、テーブルも二席しかない小さなカフェだ。だが、これからちょくちょく来たいね…と言いながら僕らは家路に着いた。
「なんだか、いいですね」
エレベーターの中でぽつりと言うと、伊織さんが首を傾げた。
「もう、一緒に住んでいるみたいでいいですね…」
「え?そそ、そうですね」
そう言ってまた真っ赤になる。
夕方まで伊織さんと、式場探しをしていた。5時を過ぎ、
「夕飯も食べて行きますか?」
と聞くと、
「いえ、そろそろ帰ります」
と、伊織さんが恐縮そうに答えた。
「佑さん、お仕事あるんですよね?」
「ああ、1時間もあれば十分です」
「でも…、あの…、うちの掃除…とかもしないと」
あ、そうか。伊織さんの部屋か。
「わかりました。送ります」
「電車で帰れます」
「送りますよ。そんな寂しいこと言わないでください」
できるだけ、一緒にいたいっていうのに。
時々、その辺はどうなんだろうと疑問に思う。伊織さんは僕とずっと一緒にいたいって思わないんだろうか。
まだ一緒にいたい。できれば今夜だって泊まっていってほしい。それどころか、今日から一緒に住んでもいいくらいだ。
もしかして…。温度差みたいなものでもあるんだろうか。
車に乗り込み、伊織さんをアパートまで送った。車から降りる時も、
「送ってくれてありがとうございました」
と伊織さんは丁寧に頭を下げ、僕が発進するまで見送ってくれた。
ほっこりとした気持ちが、すうっと冷めていく。
距離が縮まったようで、縮まっていないような、変な感覚だ。
ガチャリ。マンションのドアを開く。しんと静まり返った部屋。誰もいないリビング。ソファに一人で座る。
「はあ」
夕飯は一人か。作るのすら面倒だな。
「あ~~~~あ」
天井を仰ぐ。さっきまで、あったかかった空間が、もう寂しい空間に変わっている。
「………今夜は一人で寝るのか」
ぼそっと呟き、バルコニーに干してある洗濯物を取り込んだ。
いつ、伊織さんは一緒に住んでくれるようになるのか。一人寂しく洗濯物を畳みながらそんなことを思った。
翌朝、淡々とコーヒーを挽き、朝食を作った。新聞を読みながらダイニングで味気ない朝食を済ませ、洗濯物を干し、野菜に水をあげ、スーツに着替えた。
「行ってきます」
観葉植物に声をかけた。そして、思い切り空しくなった。
誰もいない部屋に、行ってきますとかただいまとか、そういうことを言ったとしても、今までなら空しくなったりしなかったのにな。
それも、一人の朝食も自由で開放感があって、好きだったのに。
少しブルーな気持ちのまま電車に乗った。すると伊織さんがいるのを発見した。
「!!」
僕は一気に気持ちが上がった。人をかき分け伊織さんに近づき、
「おはようございます」
と声をかけた。
「あ!おはようございます」
伊織さんは嬉しそうに笑った。
ああ、ほっとする。
「部屋の掃除できましたか?」
「はい。なんとか…」
「すみませんでした。週末、僕が独占してしまって」
嘘だ。そんなこと思っていない。本当は思い切り独占していたい。
「いいえ。私こそ、なんにもできなくてすみません。佑さんの部屋も掃除とかすればよかったですよね…」
「ああ…」
僕はそう言ってしばらく黙った。でも、
「そうですね。じゃあ、今度来た時にはお願いします」
と、そう言ったら伊織さんがどんな反応をするか試してみた。
「はいっ!じゃあ、ちゃんとエプロンとか揃えて行きます」
くす。そうか。実はそういうことがしたかったのか。
「頼もしいですね」
「え、あの。あんまり得意じゃないんですけど、でも、頑張ります」
「ぶっ!頑張るんですか?」
くすくすと笑っていると、伊織さんは横で真っ赤になった。
やばい。さっきまでのブルーな気持ちはすっ飛んで行った。今はすっかり浮かれ気分だ。できたらこのまま、伊織さんと肩を並べて出社もしたい。だが、そういうわけにはいかない。
「あれ?主任、桜川さんも…」
幸せ気分に浸っていると、後ろからそう声が聞こえた。振り返ると、今宮さんだった。
がっくり。なんだってこんな時に声かけてくるんだ。少しは遠慮したらいいじゃないか。いや、これから乗る車両を変えるよう伊織さんにも提案するか。
「偶然ですね、桜川さん」
「うん、今日は1本早い電車に乗れちゃって」
「そうなんですね。そっか~~~」
今宮さんは、僕の隣に空いている空間がないからか、ちょっと離れたところに立ったままだ。桜川さんがいたからか、少しがっかりしている表情だな。
「……今度、社員旅行があるんですってね?主任」
「え?ああ、はい」
「いいなあ。経理って社員旅行ないんですよ」
「へえ、いいじゃないですか、わずらわしいものがなくて」
「え?主任、社員旅行嫌いなんですか?」
「…得意じゃないですね、気を使うし」
「そうなんだ。じゃあ、若手だけで旅行っていうのはどうですか?気を使わないで済むし、私、幹事しちゃいますよ」
「そういうのも苦手なので、企画されても参加しませんよ」
バシッとそう突っぱねると、さすがに今宮さんは黙り込んだ。僕の隣で伊織さんは、はらはらとしている様子だ。
「今宮さんの同期ってまだたくさんいるでしょ?同期で旅行とかも楽しいかもよ?」
「同期にいい男なんて一人もいません」
「……」
その言葉で、伊織さんも黙り込んでしまった。ああ、伊織さんのせっかくのフォローを台無しにして…。なんだか、ムカつくよなあ。
「じゃあ、僕は先に行きます」
駅に着き電車を降りて、僕は先に階段を降りて行った。そして、いつもの時間に2課に着き、上着をハンガーにかけてデスクに座る。
「おはようございます」
そのあとすぐに北畠さんが来て、にこやかに挨拶をしてくる。
「おはようございます。今日も早いですね」
「主任こそ」
「……」
髪型変えたんだな。毛先がものすごくクルクルしているぞ。それに、ピンクのセーターだ。かなりド派手な…。
とそこへ、塩谷がやってきた。
「塩谷」
僕はすかさず塩谷を呼び、
「ちょっと話があるんだ」
と応接室に呼んだ。
「なんですか?」
「土曜のように、もういきなり来たりするなよ」
そう注意をしてから、探りを入れるように聞いた。
「お前、すぐに帰らないで駅付近にいたろ?」
「え?何で知ってるんですか?一人で夕飯食べてました」
「何で知っているかって、僕のことを見てただろ?コンビニから出てきた…」
「え?知りませんよ。なんだ、主任いたんだったら声かけてください」
「声かけようとしたら、お前の方が無視して走り去って行っただろ?」
「え~~、まさか。主任見つけた時点で、こっちから声かけますよ~」
「…」
しらを切っているのか、本当にわかっていなかったのか。
「そうか。だったらいい」
「何か問題でも?」
「とにかく、もう休みの日に来るなよな」
そう言って僕は応接室を出て、デスクに戻った。
あ、伊織さん来てた…。小声で、
「おはようございます」
と僕に向かって挨拶をしてきた。
「おはようございます」
そう返してすぐに、僕はパソコンの電源を入れた。多分、伊織さんの顔を見るだけでもにやけるだろう。気を付けないと。
それにしても…。塩谷は本当に僕と伊織さんのことを見なかったのか?だったらいいんだが…。




