第51話 「手は出しません」 ~佑編~
マンションに着いた。
正直、相当僕は浮かれている。
つまみを広げ、ノンアルコールビールを飲みながら伊織さんと映画を観はじめた。すぐ隣にいる伊織さんの存在感だけで、胸があったかくなる。
しばらくそのあったかさに酔った。映画の内容なんてどうでもいい。思ったほど面白くなかったが、伊織さんと一緒に観る。それだけで満足だ。
ゴクゴク。突然伊織さんが、ノンアルコールビールをグビグビ飲みだした。喉が渇いているのか。それともビールの方がよかったのかな…。
「ビール飲みますか?」
「いいえ。大丈夫です」
即答だな。
「失態なんてさらしたことないし、飲んでもいいのに」
「い、いえ。いいんです、ほんと…」
「でも、あれですよね。東佐野の前では飲んでいたんですよね」
「……はい」
「それも、飲んで平気で眠ったりしていたんですよね」
「…はい、まあ」
「東佐野だと平気で、何で僕だとダメなんですか?」
「それは、そのっ。東佐野さんだとなんにも意識していないって言うか、女友達みたいに思っていたって言うか」
あ、慌てているぞ、
「思い切り、男でしょう。見た目も相当むさくるしいですよ、彼は」
「ですよね。そうなんですけど」
伊織さんは相当困っているのか、おたおたとしている。
「だから、あのっ。佑さんには、本当に変な私を見せたくない…んです」
「別に変じゃないですよ?寝顔も可愛いし。今日はどうせ泊まっていくんだから、途中で寝ても大丈夫だし」
「………いえ、やっぱり、危険なので」
「は?!」
危険?
「危険って?何がですか?僕がですか?あ、まさか伊織さんが寝ている間に襲うとでも?」
「い、いえ。そういうわけじゃ」
「東佐野の方がよっぽど危険でしょう?何で僕だと危険なんですか。酔って寝ちゃった伊織さんを襲うわけがない」
「はい。そうですよね。すみません」
待てよ。
危険と言えば危険か?寝ている隙にキスをしたことならある。無防備な可愛い寝顔を見ると、なかなか手を出せたもんじゃないが、だけどもし、僕の理性がふっとんだらわからないよなあ。
「ん~~~~~~~~~~~~~。多少、もしかしたら、何かしでかすかもしれないんですが」
「え?しでかす!?」
「寝顔、可愛いからなあ…」
「あの、あの、あの?しでかすって何をですか?」
「ん~~~~~~~~~~とですね、…キスとか?この前も寝ている伊織さんにキス、しちゃったしな」
「いつですか?それ」
「いつだったかな?」
伊織さん、相当びっくりしているな。やっぱり、寝ている隙にキスしたことばらしてやばかったかな。
「あ、思い出した。飲み会のあとだ」
「飲み会…?」
「会議室で伊織さんとキスをして…。そのあとです」
「そ、そうですか」
…突然、下を向いて黙り込んでしまった。どうしたんだろう。僕に呆れたのか、怒っているのか。
「怒りましたか?」
「いいえっ」
僕の質問に、慌てたように伊織さんは首を横に振った。顔、真っ赤だ。怒ったわけではなさそうだな。僕はほっとして、また映画に集中した。
映画が終わった。もう12時を過ぎている。寝るのがもったいないような、ずっと起きていたいような、そんな気もしてきた。
でも、伊織さんはもう眠いんだろうな。さっきから口数もぐっと少なくなっている。
「少し、期待外れでしたね」
DVDを消してそう言うと、
「え?そそ、そうですね」
と、伊織さんはびっくりしたようにこっちを向いた。
もしや、半分寝ていたのか?今、相当びっくりしていたよな。
「もう12時ですね。お風呂温めなおすので、入ってくださいね」
「お風呂っ?」
「はい」
僕は、真っ赤になった伊織さんを残し、バスルームに行った。そのあと、パジャマやバスタオルを持ってリビングに戻り、
「どうぞ。シャンプーなんかは僕のを使ってください」
とそれらを手渡した。伊織さんは、もっと顔を赤くしてリビングから出て行った。
「……」
ソファに座り、伊織さんのパジャマ姿を想像した。可愛いんだよな、大きめのパジャマを着た伊織さん。化粧を落とすと少し幼くなって、ますます可愛らしさが増す。
あ、やばい。今、僕はきっと思い切りにやけている。
30分して、伊織さんが風呂から出てきた。体から湯気がホカホカ出ていて、髪がまだ濡れている。頬はピンク色になり、なんとも色っぽい。
「……」
理性、ふっとばないだろうな、僕は…。
「あれ?ドライヤーありませんでしたか?」
しらじらしく、平静を装ってそう聞いた。
「あ、すみません。どこにあるかわからなくって」
「ああ、出し忘れていましたね」
伊織さんを洗面所に呼び、
「ここにあるんです。ブラシはこれ、伊織さん用ですから使ってください」
と教えた。
「はい」
「それから、歯ブラシも赤いのを使ってください」
「あ、はい」
「あと、シャンプーや石鹸は、どういったものを使っているかわからないので、買っていなかったんですが…」
「佑さんのを勝手に使っちゃいました。ごめんなさい」
「いえ。伊織さんの髪に合うならいいんですが」
「ハーブのなんですねっ。高そうなシャンプー使っちゃってなんだか悪いような」
「え、そんなに高くないですよ。あまり匂いが甘ったるくないし、洗って地肌がすっきりするから気に入っているんですが…」
「そうなんですか…」
「伊織さんのシャンプーは、今度買っておきますよ?どんなのがいいですか」
「私、あんまりこだわっていなくって。ちゃんとこだわったほうがいいですよね…」
おや?決まっていないのか?いつも甘い花のような香りがしていたのに。
「いつものでいいと思いますが」
「いつもの?」
「はい。伊織さんの髪から、いつもいい香りがしていました」
ぼわっとなぜか伊織さんが赤くなった。今、僕は何か、伊織さんが恥ずかしがるようなことを言ったかな。
伊織さんが髪を乾かし、リビングに戻ってきた。
「じゃあ、僕が風呂に入ってきます。伊織さんはテレビでも観ていてください」
「はい」
風呂に入った。すでに湯気であったかくなっている。
さっきまで、伊織さんが入っていたのか…。なんだか不思議だ。
一人だと、寒々しい風呂場に入ることになる。しんと静まり返った家の中で、僕が出す物音以外しないのに。
風呂から出ると、リビングからテレビの音がする。僕以外の誰かがいる。それが、不思議と心をあったかくさせる。
まだ髪を乾かす前に、リビングに戻った。ソファには伊織さんが座っている。
その隣に座ると、やけに心地がよくて心がほっとする。
テレビの方をぼけっと眺めている伊織さんの横顔…。眠いのか、心ここにあらずって感じだな。
「眠そうですね?」
「え?いいえ、まだ大丈夫です」
「でも、もう遅いですよ?」
「はい、そうですね…」
本当は眠るのももったいないくらいだ。でも、伊織さんが眠そうだからそろそろ寝ないとな。
「……。明日も、ゆっくりしていって下さい」
まだまだ伊織さんといたくて、そんなことを口にしていた。
「え?あ、はい」
そう一回頷いた伊織さんは、僕の方をちらっと見て、
「でも、佑さん、お仕事とかないんですか?」
と、心配そうに聞いてきた。
「持ち帰っているのがありますけど、そんなに時間かからないですよ。明日の夜にでも片付けます」
そう言うと、伊織さんは照れたように下を向いた。パジャマ姿、やっぱり可愛い。
「やっぱり、僕のパジャマを着ている伊織さん、可愛いですね」
「え、そそ、そうですか?」
くす、真っ赤になった。
「何か飲みますか?」
「い、いいえ。大丈夫です」
「じゃあ、そろそろ寝ますか?」
ビクッと伊織さんが固まったのがわかった。
まさか、僕が手を出すとでも思っているのか?
「髪、乾かしてきちゃうんで、先に寝室行ってていいですよ?」
「え…」
「先に寝てていいですから」
僕は伊織さんの気持ちをほぐすつもりでそう言った。
洗面所に行き、ドライヤーをかけた。洗面所のドアは開けておいた。ほんのちょっとして、伊織さんがリビングのドアを開け、廊下を歩いて行くのが見えた。
え?右足と右手が、一緒に出ていないか?まるでロボットみたいにかちこちになって歩いているぞ。
ぶっ!思わず、吹き出してしまうと、パッと伊織さんが僕の方を見て真っ赤になった。そして、慌てたように寝室に入って行った。
可愛い。本当に緊張しているんだな。
手なんか出せないだろ、あんなの見ちゃったら。
髪を乾かし終え、寝室に行った。部屋には電気がついていて、伊織さんはベッドの隅に丸くなっているようだ。頭がほんの少し布団から出ているのが見える。
もしや、今も布団の中で緊張しているのか?くす。
「伊織さん」
近づいて呼んでみると、布団がもそっと動いた。あ、今、びっくりしたのかもしれない。でも、返事はない。
「寝ちゃったんですか?」
わざとらしくそう聞いた。やっぱり、返事がない。狸寝入りをしているのか?
「じゃあ、僕も寝るとするかな」
独り言をわざと言って、電気を消した。そして、布団に潜り込むと、やっぱり、伊織さんはベッドすれすれのところに丸まっていた。
「落ちますよ、そんなに端にいたら」
そう言って、背中を向けている伊織さんの肩を持った。
「……」
驚いた。伊織さんの肩って小さいんだな。
「すみません」
伊織さんがそう呟くように言って、こっちを向いた。やっぱり、起きてたな。
「寝れなかったんですか?」
「は、はい」
まだ、端っこで固まってる。
「あんまり隅っこにいると、ベッドから落ちますよ。もっとこっちに来てもいいですから」
「は、はい」
そう言っても、ほんの少し伊織さんは体をずらしただけだ。
「冷え症なんですよね?」
「はい」
「足、冷たくなってますよ」
そっと足を伸ばし伊織さんの足にくっつけると、ひやっとした感触があった。
「きゃ」
きゃ?
パッと、伊織さんは足を引っ込めた。
「……足、あっためようとしたんですが…」
「くっつけてあっためるって、そういうこと?」
「はい」
「ひゃあ」
ひゃあ!?
「ぶっ!くっくっく」
ダメだ。笑いが止まらなくなった。
「佑さん?」
「すみません。でも、伊織さん、面白くて」
「…お、面白い?」
「すみません」
くっくとしばらく僕は笑ってから、
「じゃあ、あんまり足が冷えるようだったら、僕の足にくっつけてきていいですから」
とそう言って、僕は仰向けになり天井を見た。
「このベッド、セミダブルなんですよ」
「はい」
「シングルにするか迷ったんですが、セミダブルにして良かったです」
「…シングルだと二人じゃ狭いですよね」
「ああ、でも、べったりくっついて寝れたかもしれないですね。やっぱり、シングルにしておけば良かったかな」
「え?べったり?!」
ちらっと伊織さんを見ると、びっくりしたように目を丸くしていた。暗いからわからないが、きっと真っ赤なんだろうな。
……。可愛いよな。
パッと視線を外した。このまま伊織さんを見ていると、変な気を起こしそうだ。
もそっと僕は伊織さんに背中を向け、
「おやすみなさい」
と呟いた。伊織さんは、ほんの少しの間を開け、「おやすみなさい」と、僕より小声で囁くようにそう言った。
伊織さんと僕の間にはほんの少しの距離がある。だけど、伊織さんの体温をなんとなく背中で感じた。
あったかい。
ほわほわとした幸せを感じると同時に、今すぐにでも伊織さんを抱きしめたい衝動に駆られた。
だが、「手は出さない」と約束してしまった。こうなってくると、キスもできない。
キスをしたら、そのあと我慢できるか自信がない。
まいった。
絶対に大丈夫だと思っていたんだけどな。伊織さんの部屋に泊まった時には、平気で隣に寝られたのに。なんでだ?
しばらく、胸がドキドキして、もやもやして、眠れなかった。
時折、伊織さんが動くと布団が動き、布団の擦れる音がした。そして、ほんの少しベッドが揺れた。
はあ…という、本当に小さな伊織さんの吐く息すら聞こえた。
伊織さんも眠れないでいるのかもしれない。
目がらんらんとしながら、夜は更けていった。




