第5話 フラワーアレンジメント ~佑編~
胸のあたりがもやもやしながら、トイレに行った。なんだか、桜川さんに腹が立った。理由がわからない。多分、あんな女癖の悪いやつに花なんかもらって喜んでいるからだ。
廊下を歩き、トイレに行く途中、エレベーターホールにあの男がいた。去年入ってきた受付の女性社員と一緒にいる。
「花、邪魔だから同期の子に渡してきたよ」
「え~~。あげちゃったんですか?」
「うん。だって、これから食事に行くのに邪魔じゃん?」
「私の家に持って行っても良かったのに」
「あ、それって、俺も泊りに行っていいってこと?」
「え?やだ~~。どうしようかな~~」
そんな会話をしながら、二人は来たエレベーターに乗って行った。
そうか。女とデートをするのに邪魔だから、桜川さんに花を押し付けたのか。綺麗ごと並べて、桜川さんのこと喜ばせておいて、なんて野郎だ。
ムカ。ムカムカ。もっと腹が立ってきた。
あんなやつに花をもらって、嬉しそうにしていた桜川さんに、ますます腹が立ち、イライラしながらデスクに戻ると、もう桜川さんの姿はなかった。
「帰ったのか。そりゃ、そうか。あ、あの川西っていういけすかない野郎と、帰りにばったり会っていないよな」
会っていたら、あいつが他の女とデートをするって知って、ショック受けるんじゃないのか。
いや、でも…。どっちにしろ、大阪に行く人間だ。これから、ほとんど会わなくなるわけだし、桜川さんもすぐに諦めがつくってもんか。
席に着き、書類に目をやった。でも、集中できなかった。
多分、桜川さんは彼氏がいない。いたら、映画を一人で観に来ないよな。
……。彼氏がいようがいまいが、どっちでもいいことだ。くそ。気になって仕事にならない。
「今日はもう帰るか」
家に帰り、シャワーを浴びた。それから夕飯を作り、テレビを観ながらゆっくりと食べた。
「そろそろ、寝るかな」
12時を回り、ベッドに入ろうとすると携帯が鳴った。なんだ。また、東佐野からだ。そんなに暇しているのか?それにしても、夜中の12時に電話をしてくるなよ。
「よ~~~。主任」
「なんだよ。酔っぱらっているのか?外からか?」
「いいえ。家からです。魚住主任」
「何か用か?」
「魚住主任」
「さっきから、何度も主任、主任って言うな。腹が立つなあ」
「やっぱり、主任なわけ?」
「何が?」
「会社での役職、主任なんだ?」
「そうだけど、それが?」
「可愛い部下とかいるんだ。いいなあ」
「?なんのことだ?」
「でもさあ、女性社員から嫌われているんだろ?」
「……どこからそんな話を聞いた?」
「内緒」
「おい。誰がそんなことを言っていたんだ?」
「内緒~~。教えな~~い。じゃ、おやすみ!主任!」
「おい!」
勝手に電話、切りやがった。
むかつく。なんで、東佐野が、僕が主任だって知っているんだ。どこから仕入れた情報だ。それも、女性社員から嫌われているだと?
どこのどいつだよ。
「腹が立つことばかりだ。くそ」
イライラしてなかなか眠れなかった。そこに、
「主任、茄子好きですか?」
と、桜川さんの質問が、突如脳裏に浮かびあがった。
「なんで、唐突に茄子が好きかなんて聞いてきたんだ。それも、今度…って、何か言いかけていたよな」
今度、茄子、一緒に食べませんか?
今度、茄子の煮付け、食べに行ってもいいですか?
今度、茄子の煮付け、教えてください。
今度、茄子…の特売があるんです。
どれだ?そのどれでもないのか?いったい、何を言おうとしていたんだ。
くそ、気になって眠れやしない。
結局、眠れたのは2時を過ぎてからだ。何度も寝返りを打ち、時計を見て、もう、こんな時間だ、っていうのを繰り返していた。
6時、目覚ましの音で目が覚め、
「あ~~。眠い」
と、目をこすりながらベッドから起き出した。
コーヒー豆を挽こうとして、
「あ!もうコーヒー、ないじゃないか」
と、コーヒー豆を切らしていることに気が付いた。
最悪だ。仕方ない。紅茶にするか。
トーストを焼き、ハムエッグを作った。朝食を済ませると、夜のためにお米をとぎタイマーをセットした。
それから、行く支度をし始めて、
「あ。くそ。今日は燃えないゴミの日だ」
と、慌ててゴミをまとめて、いつもより5分早くに家を出た。
マンションのゴミ収集の場所に行く。すると、奥様連中が集まって井戸端会議に花を咲かせていた。
「あら、魚住さん、おはようございます」
「おはようございます」
「これから出社?」
「はい」と返事をして、ぺこりとお辞儀をした。その奥さんは、隣に住んでいる。もう子供が自立したとかで、昨年、このマンションに旦那さんと二人で引っ越してきたらしい。引っ越して挨拶に行った日から、僕が独り身だと知り、何かと世話を焼きたがるうるさい存在だ。
外食で済ませたら体に悪いだの、彼女はいるのかとか、実家はどこなんだとか、あれやこれや聞いてくる。自炊もしているし、いたって健康ですから大丈夫ですと言っても、顔を合わせるたびにいろいろ話しかけてくるから、なるべく顔を合わせたくない。
時計を見て急いでいるふりをして、僕はとっとと駅に向かった。駅までは徒歩7分。早歩きで行けば、5分で着く。
そして、電車に揺られ、あと一駅というところで、
「停止信号です。しばらくお待ちください」
と、アナウンスが流れ、電車が止まった。
しばらくって、どのくらいだ?時計を見る。隣に立っているサラリーマンも、同じように時計を見た。
イラッ。その男が、苛立ったのがわかった。僕はまだ、余裕だった。だが、
「申し訳ありません。もうしばらくお待ちください」
の、アナウンスに、僕もイライラして来てしまった。
そのあと、すぐに電車は動き出した。だが、いつもの時間より8分も遅れて駅に着いた。
もちろん、8分遅れたくらいで遅刻にはならない。だが、まだ人が少ない時間にオフィスに行き、多少の時間をのんびりとくつろぎたいんだ。
速足でビルに向かった。エレベーターもいつもより混んでいる。たった8分でも、こんなに差があるんだな。
そして、営業2課の部屋に行くと、いつも2~3人しか席にいないのに、もう半分以上の人が席についていた。
これだけ人がいると、ざわつくんだな。静まり返っている部屋に入って、5分はくつろげていたのに。
あ…。桜川さんも出社している。
そんなことを思いながら、上着を脱ぐと、
「おや。この花は誰かな?」
という、南部課長の声が聞こえた。
「あ、あの。私が…」
「へえ。朝早くからご苦労さん。たまに、花が飾ってあるのもいいね」
南部課長のデスクには、可愛らしい花が飾ってあった。桜川さんがアレンジしたのか。昨日、あのいけすかない野郎からもらった花で作ったのか?
自分のデスクではなく、課長のデスクに置いたのはなぜだ?
そんなことを思いつつ、上着をハンガーにかけ自分の席に行くと、僕のデスクにも花が置いてあった。
あ…。
しばらく花を見つめた。複雑だ。どうして僕のデスクにも置いたのか。それも、あの野郎からもらった花を…。
だが、アレンジは見事だった。まるで花屋で買ったみたいに綺麗にできている。もしかすると、課長は桜川さんが花屋で買ってきたとでも、思ったのかもしれない。
だが、これは、桜川さんが作ったものだよな。
花を横にずらし、パソコンの電源を入れた。
仕事中、何回も花が目についた。そのたび、昨日、嬉しそうに花束を見つめた桜川さんの顔を思い出した。
ムカ。
やっぱり、苛立つ。
昼休みになった。今日は蕎麦に飽きたので、中華屋に行き、冷やし中華を食べて、またすぐにデスクに戻った。そして、あと10分で休憩が終わるという時に、隣の課の女性が僕のデスクの近くに寄ってきた。
「すみません、魚住主任」
「はい?」
隣の課の女性社員が、いったい、なんのようだ?
「魚住主任と、南部課長のデスク、可愛いお花が置いてありますけど、それ、どうしたんですか?」
「ああ、これですか?これは、桜川さんが作ってきてくれたんです」
「作って?」
「会議室にも、これより大きいのが置いてありましたよ。なんでしたっけ。フラワーアレンジとかなんとか」
「え?会議室にも?」
その人は、同じ部の後輩と一緒に会議室を覗きに行った。そして戻ってくると、二人プラス他の女性も一緒に、桜川さんのデスクの前に立ち、
「可愛いですよね、あのアレンジメント!」
「本当よね。まさか、桜川さんにあんな特技あるって知らなかったわ」
と、興奮しながら話し出した。
と、そこに、桜川さんがランチから戻ってきた。溝口さんも一緒に二人して、手にはマグカップを持っている。
時計を見ると、12時53分。少し時間に余裕を持って、席に戻るようになったんだな。それはよかった。
が、桜川さんは取り囲まれ、仕事ができる状態じゃない。
「フラワーアレンジメント、教えて!」
ああ、なるほど。先生になれって、そういう頼みごとか。
桜川さんはどうするんだろう。なんとなくパソコンの画面を見ているふりをして、耳をダンボにして聞いていると、みんなに材料費だけで教えることを承諾したようだった。
へえ。教えるんだ。
どんなふうに、教えるんだろう。
どうやら、桜川さんのフラワーアレンジ教室は、金曜日に開かれるようだ。僕は、わざと…、いや、仕事は残っていたのだから、わざとではないかもしれないが、金曜日の夜、たまっていた仕事をやっつけようと、残業をした。
営業2課どころか、花の金曜日だ。他の部署も7時を過ぎると、ほとんど人がいなくなった。そんなしんと静まり返ったオフィスの中、会議室から時々、女性たちの笑い声が響いた。
とても、楽しそうだ。6時から始めていたから、もう1時間だ。
そして、7時20分、
「お疲れ様~~」
「ありがとうね、伊織ちゃん」
「また来週ね~~」
と、会議室の中から、フラワーアレンジを手にした女性たちが出てきて、それぞれの部署に戻って行った。
営業2課にも、溝口さんと桜川さんが戻ってきた。溝口さんは、花をデスクに置くと、すぐに、
「先にロッカー行ってるね」
と、部屋を出て行った。
だが、桜川さんは、ゆっくりと花を置き、
「お疲れ様でした」
と、僕に声をかけてきた。
今日のアレンジは、花だけじゃなくて、緑も多く含まれている。あんなのを自分の部屋に飾ったら、癒されるんだろうな。
うん。サボテンも癒しになるし、観葉植物も癒しになるが、桜川さんが作ったアレンジは、ナチュラルで、可愛らしく、まるで、桜川さんのような…。
ん?!今、何て思ったんだ、僕は。
「お先に失礼します」
え?もう帰るのか?
「アレンジメント、ありがとうございました。もう、半分枯れかかっていますが、これ、水とかあげたら元気になりますか?」
僕はとっさに、彼女を引き留めようとして慌ててそう聞いていた。
「すみません。多分もう、水をあげても元気にならないと思うし、週末には全部枯れちゃうかも。そうしたら、捨ててください」
捨てる?桜川さんがアレンジしたものを?
「もったいないですね。捨てるなんて」
「え?でも…」
「こんな才能があったんですね。素晴らしいですね」
「私ですか?たいしたことないですけど」
「女子力ないって嘆いていましたけど、十分ですよ」
「いえいえ。そんなこと」
また、作ってくれないだろうか。僕のデスクに飾りたい…、いや、僕の部屋に飾りたいと言ったら、はたして作ってくれるのか。それはあまりにも、図々しいお願いか。
「すみませんが、一つお願いがありまして」
「はい?」
僕に作ってもらえませんか…。っていうのは、図々しいだろうから、じゃあ…。
「僕にも教えてもらえませんか?」
っていうのなら、どうだ?
「何をですか?」
何をって…。
「フラワーアレンジメントをです」
あ。思いっきりびっくりしている。
男がそういうのを習うのが、驚きなのか?それとも、僕が習うのが衝撃だったのか?相当びっくりしているよな。まだ、目がまんまるになっているし。
「え?しゅ、主任がですか?」
「男でも、フラワーアレンジメントする人いますよね?」
「あ、はい。もちろんです。私の先生は男性でしたし」
「ちゃんと教室に行っていたんですか?」
「はい。自然を生かしたフラワーアレンジメントです。花だけじゃなく、葉っぱや、ハーブや、そういう素材も混ぜたフラワーアレンジで…。あ、ちょっと生け花の要素も入ってて」
「へえ。すごく興味があります」
「お、お好きなんですか?そういうの」
「はい。食卓にはサボテンが置いてありますし、リビングには観葉植物も置いてありますから」
「そうなんですね!何が置いてあるんですか?」
「…パキラと、モンステラ。わかりますか?」
「パキラはわかるけど、モンステラは…?」
「面白い葉っぱをしたやつです。今度見に来ますか?」
「え?!」
あ、またびっくり仰天した。
「ああ…、えっと。どうでしょうか。アレンジメント、僕の家で教えてもらってもいいですか?会社の女性社員と一緒に教えてもらうのは、さすがに抵抗あるし。作ったアレンジは、家に飾りたいので…。ダメですかね?」
「い、い、いいです。主任さえ、大丈夫なら。でも、私がお邪魔してもいいんですか?」
「構いませんよ」
「………じゃ、じゃあ、その…。お野菜でも手土産に持っていきます」
「野菜?」
「ベランダで育てているんです」
「え?!本当ですか?!」
「は、はいっ」
あれ?またびっくしている。いや、今のは僕の方が先に、目を丸くしたな。
「すみません。僕も実は、バルコニーが広いので、プランター置いて野菜を育てようかと考えていたので」
「そうなんですか?!だったら、手伝いましょうか?」
「え?野菜作りをですか?」
「はい。私の父が家庭菜園が好きで、私もよく手伝っていたんです。だから、わりと得意です」
「ぜひ!お願いします!」
なんなんだ、彼女は。フラワーアレンジといい、家庭菜園といい、僕が興味を持っているものばかり得意じゃないか。
「ああ、良かった。この前、家庭菜園の本を買ったばかりだったんですよ」
「そうなんですか?」
「あ、すみません。桜川さんのメアドか、電話番号教えてください」
「あ、はい」
そして、僕は桜川さんとメアドや携帯の番号の交換をした。
桜川さんは、嬉しそうだ。
「なんか、魚住主任とは、気が合うって言うか、好きなものや興味あるものが同じで嬉しいです」
「僕もです。桜川さんとは、いろいろと話が合いそうだ」
「ですよね?」
まただ。また、思いっきりの笑顔をした。
かくして、彼女は僕のフラワーアレンジメントと家庭菜園の、先生になった。