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第1話 最悪な出会い ~伊織編~

「だから~~、お姉ちゃん、ちゃんと聞いてる?」

 毎度、妹の電話はうざい。あれこれ、いろいろと言ってきては、自分ののろけ話をしまくる。それも、

「あ、言っておくけど、この前の彼氏とは違う人の話だからね」

と、最後に言われる。


「あのさあ、なんで、そんなにとっかえひっかえ付き合うの?いい加減一人にしぼったらどう?美晴」

「うん。しぼったよ。いろんな人と付き合って、やっと最高の旦那になる人ゲットしたの!なんと、年収1千万だよ」

「何してる人?危なくないの?」

 驚いて、思わず飲みかけの缶ビールを落としそうになった。


 金曜日の夜、ようやく1週間が終わり、お惣菜を買い、缶ビールを開け、テレビでも観ながらのんびりと金曜の夜を満喫するかと、リビングの座椅子に座ったところに、妹から電話がかかってきた。


 妹の話は長いので、話を半分聞きながら、お惣菜をつまみ、ビールも飲んでいた。ついでに、テレビも小さな音でつけてちゃっかりと見ていた。だが、そんな話を聞いたものだから、思わずテレビも消してしまった。


「歯科医よ。院長の長男さん。今29歳で、顔もまあまあだし、性格も良さそうだし」

「歯科医?どこでそんな人と出会うわけ?」

 一回手にした枝豆をお皿に戻して、電話の向こうの妹の話に、私は集中した。

「友達の紹介。これは絶対にゲットしなくっちゃって、いつも以上に頑張っちゃった」

「もしかして、またお料理で釣った?」


「もちろん。まあ、それだけじゃないけれどね。褒め殺しもしたし」

 まったく。我が妹ながら毎回驚かされる。狙った獲物は絶対に逃さないという、すごい女子力を持った妹なのだ。高校1年の頃から、妹は彼氏が切れたことがない。次から次へと、まるでゲーム感覚で男を落としている。


 大学卒業後は、付き合う彼氏のレベルをあげていき、今の歯科医に辿り着いたわけか。だけど、わかんない。また、もっと年収のいい男が現れたら、すぐに歯科医とも別れるかもしれない。


「お姉ちゃん、私は25までに結婚するって、ずっと言っていたよね?最高の男と結婚してみせるって」

「言ってたね。大学卒業した頃から」

「そう。だから、歯科医と25歳の誕生日の前日に、結婚するわ」

「え?!け、結婚?!」


「驚かなくてもいいでしょ。あと8か月。式場はもう予約したし、私は売れ残ったクリスマスケーキみたいに、25歳過ぎまで売れ残りたくないの」

 なんで、クリスマスケーキと結婚をごっちゃまぜにして考えるんだろう。


「でも、お姉ちゃんは無理でしょ?」

「え?何が?」

「もうすでに25歳。それも、あと半年で26歳。26までに結婚なんてとうてい無理でしょ?彼氏いない歴26年のお姉ちゃんが」

「失礼な。付き合ったことくらいあるわよ」


 むかっと来て、ビールをゴクゴクと飲んだ。すると妹に鼻で笑われ、

「あの例の二人?そんなの付き合ったうちに入らないでしょ」

と言われてしまった。

「う…」

 確かに。


 一人目は高校2年の時。かっこいい先輩で、告白したら即付き合えるようになったけれど、なんと二股かけられていて、3か月で別れた。

 次は大学2年の時。ずっと友達していて、性格もいいし、気も合うから、交際申し込まれてOKしたら、2回目のデートでホテルに誘われ、冗談じゃない、体目当てか!って、ほっぺたひっぱたいて、即別れた。


 そうだよなあ。付き合ったうちに入らないかもなあ。


「ね?結婚は無理でも、せめて、賞味期限内に食べてもらおうよ」

「は?なんのこと?」

 過去の彼氏のことを思い出していたら、妹の美晴がわけのわからないことを言ってきていた。


「お姉ちゃん、バージンでしょ?せめて、25歳のうちに、誰かにあげなって言ってるの」

「な、なんで?!なんでクリスマスケーキに例えちゃうかな。25でも、26でも変わらないもん」

「ううん。鮮度がどんどん25過ぎたら落ちていくよ。肌だって、25が曲がり角って言うでしょ?」

「そうだったっけ?」


 思わず、姿見の真ん前まで四つん這いで移動して、鏡を覗き込んだ。そういえば、目じりの皺とか、目の下のくまとか、目立ってきているかも…。


「だから、はっきり言わせてもらう。お姉ちゃん、腐る前に、誰でもいいから、あげなね!!!!」

「腐る?え?誰でもいいって?!」

「なんなら、彼の友達紹介しようか?歯科医だよ。賞味期限ぎりぎりでもいいって言ってくれる人もいるかもしれないし、うまくいったら、歯科医ゲットできるよ?!」


「いらない!そんな心配、美晴にしてもらう必要ないから。で、話はそれだけ!?」

「あ、結婚式には呼ぶからね。それと、彼氏を紹介したいから、今度の日曜の夜、あけといて」

 それだけ言うと、妹は勝手に電話を切った。


 日曜の夜あけるも何も、もともとなんの予定も入っていない。近くのスポーツジムでホットヨガをしてこようと思っていたくらいだ。


「明日も予定なしだ。何しようかな。なんか、映画でも見に行こうかな」

 パソコンを開き、今上映している映画を調べてみた。

「あ、ミュージカルの映画だ。観たかったんだ。これ、観に行こう」

 早速席をリザーブした。ど真ん中の席が空いていたので、そこをリザーブすると、私はお風呂に入り、髪も半乾きのまま、ベッドに入った。


 それにしても、同じ血が流れているとは思えない、妹の行動力。どうして、簡単に男の人と付き合えるようになるのだろう。

 やっぱり、料理ぐらいできないとダメかな。


 小田原の実家にいる頃から、私は母に料理をまかせっきりで、手伝いをしたこともなかった。それは妹も同じだ。就職して東京に出てきてから、妹は自炊をしっかりとするようになった。妹は派遣で、コールセンターに勤めているが、正社員ではないから、そんなに稼ぎも良くない。だから、自炊をしないわけにはいかなかったようだ。


 でも、妹は手料理で男をゲットしたのをいいことに、料理の腕をどんどんあげていった。それどころか、家に男を呼ぶため、つねに綺麗に掃除をし、女子力をあげていったのだ。


 私はと言うと、一応大手の電機メーカーに勤めている。とはいえ、しがない事務仕事をしているだけだが。

 営業の事務仕事なんて、結婚までの腰掛けのOLがほとんどだ。途中で結婚退職したって、派遣を呼び、次の社員が決まるまで、すぐに穴埋めだってできるくらいの仕事しかない。


 だが、女性でも営業をしている人たちは別だ。彼女たちは出世も狙っているし、出張も転勤も、男性と一緒にどこにでも行く。どこに飛ばされたとしても、文句も言わず、退職もしない。

 その代り、結婚も考えていないようだ。バリバリ働き、一生を仕事にかけますくらいの意気込みを感じられる。


 腰掛け事務員だったはずなのに、行き遅れてお局になった女性も社内に数人残っている。彼女たちは多分、定年までこの会社にいるのだろう。そんなに給料も悪くないし、一人で生活をしていくのでも十分だと思う。


 私は、まさかと思うが、そんな行き遅れの仲間に入ってしまうんだろうか…。


 わ~~~~~。暗い!!!ほら、そういうことを考えているから、眠れなくなるんだ。さっさと寝ちゃおう!

 タオルケットをお腹にかけて、私は何度か寝返りをうち、眠りにつこうとした。


 7月に入り真夏本番になってきた。でもまだ、熱帯夜にもならないし、寝苦しさはない。これから、もっと暑くなると寝苦しくなるんだろうな。


 でも、夏場はいい。一人でも、寂しさはない。だけど、寒い冬がやってくると、寒い中家に帰るのも、布団に入ってもまだ寒かったりすると、人恋しくなったりするものだ。

 私は、誰かと寄り添って寝る日なんか、来るんだろうか。


 それにしても、8か月後に結婚か。結婚式は春だな。まさか、本当に美晴が、25までに結婚しちゃうなんてなあ。


 翌日、1時45分からの映画を観に、映画館には15分前に入った。外は蒸し暑く、思わず私はビールを買った。それからポップコーンも。

 そして、席に着き、さっそくビールを飲み、うまいと味わいながら、ポップコーンもほおばった。


 隣の席に、男の人が座った。ジーンズの色、形、靴を見てみると、なんだか、おしゃれさんに感じた。ちらっとシャツも見てみた。あれ?シャツの色や柄もいいなあ。この人センスいいかも。っていうか、私の趣味と合っているのかな?


 それも、半袖のシャツからのぞいている腕も、手の形、指も好印象だ。しっかりと切りそろえている綺麗な爪も。そして、腕時計も、ごつすぎず、ちょうどいい感じ。


 顔は?年齢は?と思ったが、さすがに顔まで見るわけにもいかず、私は前を向き、またポップコーンを食べながら、予告が始まったのでそれに没頭した。そして、ビールもぐびぐびと飲んでいると、何やら視線を感じ、つい横の人を見てしまった。


 あ。目が合った。同じ年くらいかも。髪型も前髪をざんばらに落とし、なかなかのイケメンで、私好みかもしれない。と思ったのもつかの間、その人はものすごく嫌そうな顔をして、一言言った。

「すみませんが、本編が始まったら、食べるのも飲むのも、静かにお願いします」

 え…。


「あ、はい。ごめんなさい」

「……、こんな時間から、ビール…。あ、連れの人がこれから来るとか?」

 その人は、私の隣のあいている席をちらっと見てそう言った。


「い、いいえ。一人です…けど」

 一人じゃいけない?

 こんな時間からビールを飲んでたらいけない?未成年じゃないんだし、いいじゃない。なんだか、性格はものすごく悪そう。


 ああ、一時でも好みかもなんて思って損をした。だいいち、服だって、そんなに似合っていないかも。

 なんだか、ムカつくなあ。


 そのあと、音を気にしながら食べるのも飲むのも嫌で、ポップコーンもビールも口をつけなかった。だが、映画はけっこう面白くて、夢中になり、最後には感動もして、隣の嫌なやつのことも帳消しになってくれた。

 ああ、よかった。これで、映画もくそ面白くありませんでしたっていうものだったら、最悪な気分のまま帰らないとならなかった。


 私はいつも、感動した映画だと、映画が終わって会場内に電気がつくまで席に座って余韻に浸る。音楽とともに、エンディングの画面が流れ、それをぼ~~っと見ながら、感動にしばらく浸るのが好きだ。


 周りの席の人が次々と席を立ち去って行こうとも、私はかまわず、ぼけっとスクリーンを眺めていた。そして、最後の最後、

「はあ」

と、満足のため息をして、席を立った。すると、隣の人も、ほぼ同時に席を立った。

 なんだ。この人も最後までいたんだなあ。


 すっかりぬるくなったビールと、ポップコーンを手にして会場から出て、それらを捨てた。

「…あ」

 隣の席の人がそれを見て、もったいないことをしているというような目で私を見ている。


 何よ。あなたのせいで、食べられなくなったんだからね。そんなことを思いつつ、私は「ふんっ」と、わざとらしくその人から視線を外した。でも、スタッフの人と目が合い、

「あ、たくさん残してごめんなさい」

と、思わずぺこぺこと謝ってしまった。


「いいえ。大丈夫ですよ。ありがとうございました」

 そう若い男性のスタッフは言ってくれた。なんて、感じのいいスタッフさんだ。顔もなかなか可愛いし。

 そうだよ。私はどっちかっていったら、こういう感じのいい人が好みなの。あんな、くそ感じの悪い人は好みじゃない。


 そんなことを思いながら、出口を出ると、なぜか隣の席の人とエレベーターが一緒になってしまった。

 パッと視線があった。他には誰も乗っていない。気まずいなあ。


「何階ですか?」

 階数を突然、その人が聞いてきた。

「え?あ。1階です」

 すでに、1階のボタンは、その人が押していた。


「あ、そうですか」

 無表情のまま、その人は答えた。愛想悪い。きっとこの人は、コミュニケーション能力に欠けているんだ。絶対にそうだ。そうに違いない。

 そんなことを必死に思いながら、しんと静まり返ったエレベーターの中で私は心狭い思いをしていると、

「食べたり、飲んだりしてくれても、かまわなかったんですが」

と、ぽつりと言われてしまった。


「え?」

 チン。その時、1階に着いた。私は特にその人に何も言わず、さっさとエレベーターを降り、そのままどんどん駅に向かって歩き出した。

 まさか、ついてこないよね?と思い、しばらく歩いたあと、後ろを向いてみると、どこにも彼の姿はなかった。


 ほっとした。それにしても、最後のあの言葉は何?嫌味?残すくらいならちゃんと食べろってこと?

 ああ、癪に障る嫌なやつだったな。また飲み直そう。そう思い、ビールを買い込み、家に帰った。


 明日は、妹の結婚相手に会うのか。それもなんだか、落ち込む理由かも。妹に先をこされるだろうとは思っていたけれど、案外、遊びまくってから、20代最後に結婚を決めるかも…なんて、美晴のことを勝手にそう見ていたところもある。だから、こんなに早くに結婚相手を紹介されると思っていなかった。


「まあ、いっか。美晴のことだから、すぐに気が変わるかもしれないし」

 あ。なんだか、今の、別れちゃえばいいのにって思っているみたいで嫌だな。友達の結婚式も呼ばれても、素直に祝福できなくなってきて、自分の性格が最近、すっごく嫌になってきた。


 妹の幸せをちゃんと考えようよ。そうだよ。明日はちゃんといい人かどうか見定めなくちゃ。だって、騙されている可能性だってあるもんね?

 ないかな。あの妹に限って。騙すことはあっても、騙されることはないか。


 その日も、酔って寝た。最近、お酒の力を借りて寝ている気がする。寂しいよなあ。


 美晴の旦那になる人は、いかにも「いい人」を絵にかいたような人だった。真面目そうな歯科医だ。あんまり、遊んだりしないんだろうな。唯一の趣味は、ゴルフらしい。でも、美晴ってゴルフしたっけ?

「今度、教えてもらうの。二階堂さん、上手なんだよね?ゴルフ」

 彼は、二階堂博という名前だ。妹は、結婚して二階堂美晴となるのか。


「お姉ちゃん、今度虫歯ができたら、二階堂さんに診てもらいなよ。二階堂さん、優しいし、とっても丁寧な診察してくれるよ」

「美晴も診てもらったの?」

「うん」


 にこりと可愛らしく笑うと、美晴は隣に座っている二階堂さんに「ね?」と首を傾げて同意を求めた。

「はい」

 あ。二階堂さん、なんか、頬赤らめたよね。


 これだ。これは、美晴の特技だ。男に好かれる仕草というのを心得ている。私には真似できない仕草だ。

 それに、褒め殺しも特技だ。とにかく、男の人を褒め、褒め、褒めまくる。それだけでもたいていの男は、落とせるらしい。プラス、手料理をご馳走する。美晴は可愛らしいし、ほんのちょっぴり、ぽっちゃりさんだけど、色白のぽっちゃりさんは、けっこう男性に好かれるようだ。


 多分、それも、自分で自覚している。胸もボインだし、美晴はダイエットというものもしたことがない。自慢の胸が小さくなるのが嫌なんだそうだ。

 私はどっちかというと、痩せ形だ。だけど、けして胸は小さいほうじゃないと思う。でも、ちょっと色黒で痩せ気味の私と、色白で胸が豊満な美晴が立っていると、たいていの男性は美晴に目が行く。


 妹は母親似。母も色白で、胸がでかい。若い頃より、だいぶ肉がついたが、若い頃は本当に可愛かったと父が言っていた。

 私は父親似だ。性格も似たかもしれない。計算高く生きられない、実直な父で、けっこういろんな面で不器用だ。


 だけど、野菜を育てるのが好きで、実家の庭で家庭菜園をしているが、立派な野菜を育てるのは得意のようだ。私は子供の頃から、父の家庭菜園の手伝いが好きで、私のアパートのベランダにも、何種類かの野菜が元気に育っている。きっと、私の中にも野菜育てが特技というDNAが組み込まれているんだろう。


 お料理が不得手な私だが、野菜だけはベランダで育て、それを食べている。まあ、キュウリだの、ミニトマトだの、セロリだのっていうくらいの野菜だから、大した料理には使われない。ほとんどがサラダになるだけだ。


 でも、自分で育てた野菜は美味しく感じるものだ。


 家に帰り、シャワー浴びてから、ベランダに出た。大きく育っている野菜を見て、私は満足した。

「来週には収穫しようかな」

 収穫し、食べるのが楽しみだった。でも、今は、育っていく様子を見るのが楽しくなっている。


「こんなことくらいしか、楽しみがないなんてね…」

 ぼそっとそう呟き、空を眺めた。外の空気は、ちょっと肌寒く感じられた。


 翌朝、なんとなくぼ~~っとした頭のまま、会社に行った。そして、ぼうっとしたまま、席に着き、パソコンの電源を入れた。


 最近は、化粧や髪型が適当になってきた。特に見せたい相手も会社にはいない。私のいる部署には、30を過ぎた既婚者の男性ばかりで、唯一独身は今年40歳のちょっとうだつのあがらない、太ったおじさんだけだ。


 いつものように、まずは周知を確認する。すると、

『営業第2課、田子主任、7月10日付けで福岡支店に移動。後任は名古屋支店から、魚住さんが本日7月7日付で配属』

と書かれていた。


 え?!

「あの、田子主任はなんで福岡支店に?」

 びっくりして私は隣の席の、あとわずかで三十路になる北畠さんに聞いてみた。

「桜川さん、知らないの?田子さん、今年スタートした新しいプロジェクトで失敗して、飛ばされるの。で、若いのに、すごい速さで出世している、優秀な人物を湯川部長が引き抜いて来たらしいわよ」


「へえ。この魚住さんって、そんなに優秀なんですか?」

「そうみたい。まだ、28歳で、まず本社のマーケティング部に配属され、1年間でかなりの成績をあげ、そのあと、大阪支店に移動。さらに、そこでも成績をあげ、名古屋支店に昨年移動。主任になり、そこでも実績をあげて、湯川部長がえらく気に入って、東京に戻らせたって聞いているわ。多分、東京で出世コースまっしぐらじゃない?」


 北畠さんはそう言うと、額から流れる汗をミニタオルで拭いた。

「暑いわねえ、今日も。エアコン、ちゃんときいているのかしら。エコだ、エコだって、あんまりエアコンをきかせないでいると、まいっちゃうわよ。私みたいな暑がりには」

 確かに。私は、エアコンが苦手だから、あんまり冷やしすぎない今ぐらいがちょうどいいけど、北畠さん、体脂肪がだいぶありそうだもんなあ。


 我が社には朝礼などない。だが、こんなふうに、誰かが移動になってきた時だけ、部長がみんなを席から立たせて、紹介をする。

 今日もまた、部長が9時5分を過ぎた頃、一人の男性社員を従え、部長の席まで来ると、みんなに、

「ちょっといいかな。新しく来た主任を紹介しても」

と声をかけた。


 みんなは、一斉に席を立って、部長のほうを向いた。部長の隣には、バシッとスーツで決め込んでいる男性が立っている。だが、ここからだと顔が見れない。


「営業部、第二課の主任として名古屋支店から来た、魚住君だ。さ、魚住君からも一言挨拶を」

 そう湯川部長から言われ、その魚住さんという人は、

魚住佑うおずみたすくといいます。よろしくお願いします」

と、ものすごく冷静な声で挨拶をした。


 ダメだ。見えない。目の前に、やたらと図体が大きな、今年35歳になる男性社員が立っていて、ここからだと、魚住さんの顔がまったく見えない。さっきは、ちらっとスーツが見えたけれど、今は姿形、全部が見えなくなっちゃった。


 まあ、いっか。そのうち、話す機会もあるね。なにしろ、我が課に配属になったんだし。田子さんの後任ってことは、あれ?そうだった。直属の上司ってわけだ。

 そうか。なんだか、複雑。田子主任は、すっごくいい人だったからなあ。


「ちょっと、桜川さん。魚住主任って、なかなかのイケメンじゃない?」

 隣の北畠さんが、頬を赤くさせそう言った。それって、部屋が暑いからじゃないよねえ?

「そうなんですか?私のところからだと、顔が見えなくて」

「あら。そうなの?なんだか、嬉しいわね。若い人、この課に少ないし」

「そうですね」


 確かに。20代の人って、移動、移動って激しいから、あっという間に、新入社員が入っても、他の支店や課に移動しちゃって、いなかったんだよね。

 そうか。楽しみだな。これで、私の周りにも、若い独身男性が。

 あ、そうか。独身かどうかは、わからないよね。


「じゃあ、魚住君。営業第二課の連中を紹介するよ。まずは、僕からだ。僕は課長の南部」

 南部課長が魚住さんを連れて、2課にやってきた。私たちは、一回椅子に座ったが、また立ち上がった。


 私は、なるべくいい印象を持たれようと、笑顔を作った。そして、南部課長の後ろから来る魚住主任を見て、その笑顔がそのまま凍り付いてしまった。


 土曜日の、最悪な人!!!!


 魚住主任も私を見た。だが、まったく表情を変えず、

「魚住です。よろしくお願いします」

と言って、さっさと他の人に視線を向け、挨拶をした。


 え?

 覚えていないとか?


 だったら、いいけど。


 いいけど、でも、あの性格の悪い人が、これから上司だなんて!


 26までにあげなよって、そういえば、美晴言っていたっけ。でも、それどころじゃない。田子主任も南部課長もいい人で、なんとなくゆるゆると過ごせていた毎日が、最悪になる予感がしている。


 そして、間もなく予感的中となるのである。


 

 


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