鬼哭峠
今は昔。悪鬼蔓延る平安の世に、泣く子も黙る最強無敵の鬼がいた。
名だたる武将もなんのその。千の手下を従えて、都を荒らしまわっては盗みを働き、人間を攫ってはその血肉を喰らい、悪逆非道の限りを尽くしていた。
困り果てた帝は、ある男にこの鬼の討伐を命じた。
山伏に扮した男は、一晩の宿を求めるふりをして鬼の根城を訪ね、鬼共の飲む酒に毒を盛って、動けなくなった鬼共の首をことごとく斬り落としたのである。
こうして鬼共は死に絶えて、都に平穏が訪れたのだった。
*
「桜の花咲く春の日に、鬼哭峠へ行ってはいけないよ。」
これが、婆様の口癖だった。村に伝わる迷信だ。
「峠の一本桜が咲くと、その花の下に白い鬼が現れる。隻腕の鬼が。
平安の世の悪鬼共の、残党がおったのじゃ。あれは人を怨んでおる。深く、深く…。人の子と知れれば、たちまち喰い殺されてしまうじゃろう。
…良いな?鬼哭峠へ行ってはいけないよ。」
草木も眠る丑三つ時。
俺は、鬼哭峠の一本桜の元へと向かっていた。
季節はまさに春先。ただでさえ曰く付きの土地だ。昼間でも滅多に人の通らぬこの場所に、信心深い村の連中が近付くことなどないだろう。
静かで、どこか緊張感の漂うような、この冷たく物々しい空気が好きだった。
俺は、下らぬ迷信など信じない。第一、峠の桜は大層な老桜で、もう何年も咲いてはいない。子供の頃から、ひとりになりたいときや、悪戯をして割ってしまった父上の硯を隠すときなど、人目を盗んでしばしばこの峠を訪れていたのだ。間違いない。この世に鬼などいはしない。
久しい道を、ひとり行く。背に負う荷物が重たい。
ここへ来るのも何年ぶりだろうか、などと感慨に耽っているうちに一本桜の元へと辿り着いた。
なんということだろう。あの咲かず桜が、満開に咲き誇っているではないか!そして、その花の下には…。
「憎らしや。憎らしや。人間風情が我らを謀り御大将の御首を斬り落とすなど…。嗚呼憎らしや!」
暗闇に栄える長い白髪の間から二本の角が覗き、左腕は無く、青白い右腕に何かを抱えて、俯きながら何やらぶつぶつと呟いている。
鬼!?まさかそんな、本当に……?
立ちすくむ俺にようやく気付いたのか、『それ』はゆっくりと顔を上げた。
闇の中、紅くぎらつく二つの眼に睨まれているのがはっきりと解った。
「…貴様、何奴だ?人の臭いがするが…。よもや人の子が丑三つ時に此の地を踏むことなどあるまいな。魍魎の類か?」
…そうだ、人間だとばれれば喰われてしまうのだ。ここは話を合わせるしかないだろう。
「ま、まあな。そんなところだ。お前は?」
「我か?我は平安の昔より此の地に封じられし鬼よ。此の地は我が御大将と出逢うた地。この桜を見遣りて舎弟の盃を酌み交わした…。まるで昨日のことのように思い出すわ。
御大将は、最強の鬼にして、我が最愛の友。毎年此の地で桜を見ながら盃を交わすのが我らが常であった…。」
「御大将…?」
俺の問いに、鬼は無言で右腕に大事そうに抱えた『何か』を差し出した。
「!!!」
それは、二本の角が生えた、鬼の頭骨だった。
「人間め、汚い手口で我らを謀ったばかりか、御大将の御首を晒しものにしおったのだ!許せぬ!!
この左腕と引き換えに、なんとか御首を奪い返したものの…此の地にて待ち伏せておった陰陽師めの術中にはまりこの様よ。お陰で我は桜の季節、此の地でしか身を保てぬ。
我を恐れ、此の地より人の足が絶えて数百年。御大将を偲びて花見酒をしようにも、酒のつまみが無うてな。…お前、その背にあるものを少し分けてはくれぬか?
春がくるたび、こうして御大将の御首を抱え、ひとり盃を傾け続けておるが、客人は久しい。これも何かの縁と思うて一杯付き合って行くがよい。」
先刻まで腕に抱えていたはずの頭骨はいつのまにか消え失せ、鬼は、美しい漆塗りの盃を掲げていた。盃は透明な液体で満たされており、微かな酒の香が鼻腔をくすぐる。
「い…いや、しかし、これは…。」
俺は背の荷物を庇いながら言葉を濁した。はて、どうしたものか。
「……否と言うなら貴様を喰らうぞ?人間よ。」
「!!?」
俺が人間だとばれていたのか?何も言えず硬直する俺に、鬼はじりじりと歩み寄る。
「答えられぬか、人間め。
『そんなもの』を背負うておるから魍魎かとも思うたが…。それにしてはあまりにも人の臭いが強すぎるでな。中を改めずとも鬼の我には手に取るように判るぞ。貴様の背負うておるそれ、中身は『人の死肉』であろう?
貴様の掌からは血の臭いがする。同じ人の子である貴様が何故、人を手にかけたのだ?」
「そ、それは……。
こ、こいつが悪いんだ!俺が困っているのを知っていながら、顔を合わせば金、金、金!!そのうち返すと言っても聞きやしねえ。
それどころかこの俺に、今すぐ返さねえなら縁を切るとまで言いやがった。餓鬼の頃は一緒に悪さをした仲だってのに、友達甲斐のねえ奴だ!!」
「………。
呆れてものも言えぬわ。自らの受けた恩を忘れ、平気で友を殺めたというのか。…下劣な。まこと人とは愚かな生き物よ。
…御大将を殺した男もそうであったな。一宿の恩義を忘れ――例え偽りであったとて、共に盃交わした我らを、何の躊躇いなく斬り捨てたのだ!
人と鬼、真に悪しきは、いずれであろうな?
――我、鬼の身故、人を殺めしこと数知れず。なれど…
いくら鬼とて…盃交えし友を斬るなぞ、出来はせぬ!!」
―――ザシュッ!!
鬼の牙が俺の喉笛を貫いた。
*
「桜の花咲く春の日に、鬼哭峠へ行ってはいけないよ。」