AM6:10
制服に着替え、鞄とケータイを持って階段を下りる。
キッチンへ行くと、ダイニングテーブルの上に何故かほかほかのラーメンと、その横には「食べてね♪ あてな」という書き置きと共に弁当箱が置いてあった。
「朝っぱらから豚骨ラーメンとは」
湯気を立てる白いスープからは細麺が顔を覗き、チャーシューやメンマ、刻みネギなどの定番の具がトッピングされている。
俺は匂いに誘われてラーメンに近づき、置いてあるレンゲを取って軽くひとすくい。スープと共に、ネギや油などがレンゲの中に吸い込まれて小さな渦巻型銀河を形成する。
「ふむ」
そして俺はレンゲを持ち上げ、おもむろに――金魚の水槽に数滴入れてみた。
待つこと三〇秒。中にお住まいの出目金、升田=シュバルツ=次郎三郎氏(一歳)が黒い腹を見せて水面に浮かんできた。どうやら満腹になったらしい。
「……なんと腹の黒い」
俺は二階級特進と黙祷を捧げ、冥福を祈った。……升田一等兵よ、安らかに眠れ。
次に俺はラーメンのドンブリと弁当箱、そして一等兵を分別した上で自治体指定の半透明の棺に収め、サイフォンでコーヒーを立て、トースターに食パンを放り込んだ。
それから洗面所で身だしなみを整えて戻って来た頃には、香ばしい匂いがダイニングキッチンを満たしていた。頬の十字の跡が消えたのが残念だ。
「良い匂いだ」
俺はキッチンから朝食に必要なものを一通り持って来て、テーブルに座った。
コーヒーの豊かな豆の香りが鼻腔をくすぐり、そして食パンのクマちゃんの焦げ目が俺の目を楽しませる。素晴らしい。
俺はリモコンを手に取り、テレビのスイッチを入れた。いつも見ている「今日のクマ」のコーナーが始まる時間が近づいている。
「……なに?」
何度ボタンを押しても、プラズマ液晶画面は漆黒の中にダイニングを映すのみ。反抗期か? それとも電池が切れたのか?
――しかし、次の瞬間。
後ろから薄型テレビに向かってあり得ないはずの風が吹き、その画面からまばゆい白き閃光がほとばしった!
「ぬおっ!」
背中を押す風が際限なく激しさを増してゆき、俺の身体をテレビの方へと引き込もうとする。だが手元の食パンは微動だにせず、コーヒーの湯気はゆらゆらと天井に向かってフェードアウトしていく。
俺はリモコンのボタンを連打するが、その風は激しくなるばかり。掴んでいるテーブルごと持ち上がりそうだ。主電源やコンセントに手を伸ばすのは危険と判断する。
わずかな逡巡の後、俺はリモコンの代わりに学校のカバンからバールのようなバールを取りだし、立ち上がると画面に向かって一本足打法を繰り出した。
めりょっ。
ガングロから美白になった彼女はそんな断末魔の声を上げ、透明な血と無機質な臓物を撒き散らし緑の瞳から光を失った。
升田=キットクール=定子(二歳)。恋も知らず、あまりに若すぎる死であった。
「『めりょっ』……君の最後の言葉は忘れない」
俺はケータイで「今日のクマ」を観てから、専用の棺に彼女の遺体を収めて周囲を清めた。
ところで……某通販会社は下取りしてくれるのだろうか? 帰ったら問い合わせよう。
やや急ぎ気味に朝食を済ませた俺は、昨夜のうちに用意しておいた弁当の中身を冷蔵庫から取り出す。千切りにしたチャーシューと卵焼きときゅうり、そして湯がいておいた素麺。刻みネギと摺り下ろし生姜も準備してある。半分に切ったゆで卵の黄身はオレンジ色だ。
それぞれにラップをして、予備のクマさん弁当箱に詰めていった。あとは製氷器で凍らせておいたつゆを水筒に放り込み、水筒ごとビニール袋に入れるだけだ。水平に注意し、鞄の底に入れた。
終わった頃には、ケータイの時計がいつもの時間を表示していた。登校せねばならぬ。
死者二名という多大な犠牲を払い、それでも俺はシャーペンのために今日も学校という名の戦場へ赴く。
「……行ってくる」
俺は玄関で振り返り静まりかえった邸内に別れを告げ、外界への扉を開いた。
――果てしない草原が広がっていた。
住宅街はどこへ行ったのだ?