1-1 閉店まで、あと十五分
第1章 ひとつ足りないティーカップ
閉店まで、あと十五分。
日本大通りから一本入った路地の、古いビルの一階。ガラス戸に白い文字で書かれた店名は、通りすがりの人にたいてい二度見される。
――フクロウな彼女。
山華愛は、この店名を初めて見たとき、正直ちょっと引いた。働き始めて半年たった今は、もう何とも思わない。慣れって怖い。
店の右半分は雑貨の売り場で、左半分はコーヒースタンドだ。売り場に並ぶのは、ヨーロッパの蚤の市で買い付けてきた古い物ばかり。縁の欠けたティーカップ、真鍮の鍵、知らない誰かの手書きが残る絵葉書。どれも一点物で、同じ物は二つとない。
スタンドのメニューは四つしかない。アメリカーノ、カフェラテ、ティーラテ、ほうじ茶ラテ。どれもデカフェのエスプレッソを使っていて、ミルクはオーツミルクだけ。フードは、ない。ほうじ茶にエスプレッソを入れると初めて聞いたときも、愛はやっぱりちょっと引いた。今では、いちばんよく飲んでいる。
そしてレジの横には、手書きの小さな紙が一枚貼ってある。
『探し物、困りごと、ご相談ください』
愛はカウンターに頬杖をついて、自分の爪を眺めた。昨日塗り直したばかりのミルクティー色。悪くない。
「……お腹減った」
「あと十五分だよ」
エスプレッソマシンの向こうから、のんきな声が返ってくる。
梶谷牧。
この店の店長で、レジ横の紙を書いた張本人で、本人いわく、探偵らしい。
らしい、というのは、愛が半年見てきた限り、この人が探偵っぽいことをしている場面より、鍵をなくしている場面のほうが圧倒的に多いからだ。
「てかマキ、家の鍵見つかったの」
「見つかったよ。冷蔵庫に入ってた」
「なんで」
「牛乳と一緒に帰ってきたんだと思うんだよね」
「鍵が?」
「鍵が」
「……待って。家の冷蔵庫にあったなら、昨日どうやって家入ったの」
牧は少し考えて、首をかしげた。
「なんでだろうね?」
ダメだ、この人。
愛は小さくため息をついて、売り場のほうへ目を戻した。
そして、気づいた。
――あの人、まだいる。
ティーカップの棚の前に、女の人が立っていた。
二十代後半くらい。紺のコートに、ベージュのストール。肩にかけた黒いバッグは、口がきっちり閉じている。
彼女が店に入ってきたのは、たしか閉店の四十五分前だった。それからずっと、あの棚の前から動いていない。
棚に並んでいるのは、昨日入荷したばかりのティーカップだ。先月、牧がヨーロッパの蚤の市で買い付けてきたもので、柄はぜんぶ違う。昨日、愛がひとつずつ検品して、値札をつけて、棚に並べた。
女の人は、カップをひとつ手に取ると、ソーサーごとそっと裏返した。
底を、じっと見る。
戻す。
次のカップを取る。裏返す。見る。戻す。
「マキ」
愛は声を落とした。
「あの人、さっきからずっとカップの裏見てる」
「うん」
「うんって」
「見てるね」
牧はミルクピッチャーを拭きながら、ちらりと売り場を見た。それだけだった。
愛はもう一度、女の人を観察する。
手には何も持っていない。バッグは閉じたまま。コートのポケットにも膨らみはない。
万引き、という言葉が一瞬だけ頭に浮かんで、すぐに消えた。何か盗るつもりの人は、三十分も同じ棚の前に立たない。目立ちすぎる。
レジ横の防犯カメラのモニターに目をやる。映っているのは、レジ台と、頬杖をついた愛の肘だけだ。この店のカメラは、レジしか映していない。前に「売り場も映したら?」と言ったら、牧は「お客さんを疑うのは、なんか違うかなって」と笑っていた。
「……買うか迷ってるだけじゃない?」
「迷ってる人は、値札を見るよ」
牧が、ピッチャーを拭く手を止めずに言った。
「あの人、一回も値札見てない」
言われてみれば、そうだった。女の人の目は、カップの柄にも、値札にも向いていない。見ているのは裏だけだ。
「裏って、何書いてあんの」
「裏印。どこの窯で、いつ頃作られたか、とか。柄の名前が入ってるのもあるよ」
「作家のサインみたいなもん?」
「近いかな」
愛は昨日の検品を思い出した。六客のカップの裏には、どれも英語の文字が小さく印刷されていた。崩れた筆記体で読めないものもあったから、検品表には見たまま書き写しておいた。
「てかマキ、あの棚で思い出したんだけど」
「うん?」
「値札。一個だけおかしかったじゃん。ゼロが一個多いの。九万八千円」
「そうだっけ」
「そうだっけ、じゃないじゃん。値付けミスでしょ。直しといてって言ったよね」
「言われたかも」
「かもじゃないんだけど」
牧はへらりと笑った。反省している顔ではない。
そのとき、女の人がこちらを振り返った。
目が合う。愛は慌てて頬杖をやめた。
「すみません、長居してしまって」
澄んだ、きれいな声だった。
「いえいえ、ゆっくり見てってください」
答えたのは牧だった。いつの間にかカウンターを出て、彼女と棚の間に、ちょうどいい距離で立っている。近すぎず、遠すぎず。この人は、こういうことだけは上手い。
「何か、探してるものがあるんですか?」
「……いえ。なんとなく、見ていただけなので」
女の人は小さく首を振った。それから、棚のカップにもう一度だけ目をやった。
「このカップ、これで全部ですか?」
「ここに出てるので全部ですね」
「……そう、ですか」
ほんの一瞬、彼女の表情が曇った。愛はそれを見逃さなかった。
「よかったら、帰りに一杯どうですか。うち、デカフェなんで、夜でも眠れますよ」
「ありがとうございます。でも、今日は」
女の人は軽く頭を下げて、ガラス戸を押した。
ドアベルが鳴る。路地の先で、日本大通りのイチョウが、街灯の光を受けて少しだけ黄色く見えた。
ドアが閉まるのを待ってから、愛は言った。
「今の人、絶対なんか探してたじゃん」
「そうかもね」
「知り合い?」
「ううん。でも、先週も来てたよ。そのときは、男の人と二人だった」
「……よく覚えてるね」
「お客さんの顔は忘れないんだよね」
「家の鍵は忘れるのに」
「それは別」
何が別なのか、愛にはさっぱりわからない。
閉店の時間になった。
牧がガラス戸の札を「CLOSED」に裏返し、愛はレジ締めを始める。今日の売上を数えて、ジャーナルの記録を確かめる。その途中で、さっきの言葉が頭に引っかかった。
――このカップ、これで全部ですか。
愛はレジを離れて、ティーカップの棚の前に立った。
並んでいるカップを、指でひとつずつ数える。
一、二、三、四、五。
「マキ」
「うん?」
「このカップ、入荷いくつだっけ」
「六客だよ。あいさんが検品してくれたやつ」
「だよね。……今日、売れた?」
牧の返事を待たずに、愛はレジに戻ってジャーナルを指でたどった。今日の売上に、ティーカップは一行もない。昨日の分も確かめる。ない。
愛は、ゆっくりと顔を上げた。
「……ゼロ。一客も売れてない」
棚の上には、五客。
ゼロが一個多い、あの値札のカップだけが、どこにもなかった。




