今、君に伝えたいこと
久しぶりの投稿となります。最後まで読んでいただけると幸いです。
電車の窓から外を見れば、木々は白い帽子をかぶっていた。窓ガラスは確かな冷気を伝えてくる。高校卒業で家を出てから気が付けばもう十年になる。
「現在の気温は1度、天気は雪。今年一番の寒さとなっております。お帰りの際は足元、お気をつけてお帰りください。本日もご利用ありがとうございました……」
車内アナウンスが、がらんとした車内に響く。この寒さは、私の気持ちの問題ではなかったらしい。アナウンスによると私の降りる駅に着くまで、あと一時間はかかるそうだ。徐にポケットからスマホを出し、先週買った小説を読み始めたものの、どうにも目が滑って内容が入ってこない。仕方ないと私はスマホをしまい、目を閉じる。足元のヒーターから伝わる熱のおかげか。私は程なく夢へと落ちていった。
私は東北の小さな町に生まれた。親は傍流とはいえ、地主の一族出身で、小さな工場を経営していた。裕福な家の一人息子の私は、大層可愛がられた。小学校から家庭教師がおり、中学は電車で二時間ほどの私立に通っていた。そんな中、自分が工場を継いだ時、少しでも会社を発展させられるようにと、幼いながら必死に勉学に勤しんだ。その結果、高校は県内でも指折りの進学校に合格することが出来た。そんな中学最後、いや高校最初の春だった。両親は私を高校合格のお祝いとして東京旅行に連れて行ってくれた。
東京についてすぐ、私は圧倒された。町では見たこともないような広さの東京駅。そこから一歩外に出れば、首が痛くなるほどに見上げても先の見えないビル群がそこにはあった。だが何よりも驚いたのはそこにいた人である。聞いたこともないような言葉を話す人や真っ黒なフリルのついた服を着ている人、町にいては一生会えないような多種多様な人々がそこにはいた。そして彼らを気にも留めずに歩いていく人々がいた。町ではすれ違う全ての人が顔見知りで、変な事をしようものなら、三日で町全体がそれを知っている。だからみんな、周りの目に気を付け、間違っても妙な評判が立たないようにと必死だった。そんな町で育った私には、東京は他人に気を使う必要のない自由な町、そう映った。
東京から町に帰った日、私は熱を出して寝込んだ。お医者様によると過度の疲れからの熱で数日の内には治るだろうとのことだった。確かに三日経つ頃には普段と同じように生活できるようになっていた。だが、私の体は熱を持ち続けた。体温計は三十六度を示していたのに、いつもみぞおち辺りから体全体に湧き出る熱を感じていたのだ。その熱は憧れというにはあまりにも熱く、私を飲み込まんと迫る炎のようであった。
それからというもの、私は時間が空けば東京について調べるようになっていた。東京ではどんな物が流行っているのか、今日どんな事が起きたのか。そしてどんな大学があるのかなど。
気が付けば私は、地元の工場を継ぐという夢を忘れ、自分も東京の一部になりたいと思うようになっていた。第一志望は東京近郊の国公立大学。高校一年の六月、初めての進路志望でそう書いた時、自ら退路を断った事を悟った。当時の担任教師は、家を継ぐはずの私が上京志望である事に驚き、家に確認の電話をしたらしい。そこで両親も初めて私が東京に行きたいということを知った。
私は両親に責められるものだと思っていた。工場を継ぐべき立場の人間が自分の事ばかりで、親にも相談せずに進路を決めた。そんな身勝手があって良い訳がないのだ。だが両親は決して私を責めることはなかった。
「お前が将来幸せになれると思っているなら、それもいいんじゃないか。やってみればいい。一度夢を決めたら、そこを目指し続けないといけないわけじゃない。終わりってわけじゃないんだ。俺は夢を追えたわけじゃないが今を幸せだと思っている。だから何時でも進路を変えたくなったら言いなさい。とりあえず、親戚に東京の大学に通っている人がいたはずだ。その人に今度の夏休みにお前の勉強を見てもらえないか聞いてみよう」
当時の私は、父が言っていたことを聞こうともしなかった。確かに父は、いつも母と二人で笑い合っていた。けれど父は仕事では卸先の年下の担当者にぺこぺこして、家では母の尻に敷かれていた。最近ではお腹をビールで膨らませ、頭は冬の山のよう。そんな父の言葉だから、いつも聞き流していた。ただこの言葉だけは小骨のように、この歳になるまで頭の中に引っかかり続けている。
「次は……。次は……。進行方向向かって右のドアが開きます。お忘れ物にご注意ください。本日はご利用ありがとうございました」
人は奇怪なもので自分が降りたい駅に着く寸前には起きるようになっている。私が目を覚ました時、ちょうどひとつ前の駅を出発したところだった。窓からは茜色の光が差し込む。何か懐かしい事を思い出していたような気がする。理由なんて分からないが、今はただ両親にまた会いたいと思った。
無人の改札を抜けると、真っ白な田んぼが広がっていた。その手前で一台の車が止まった。スーツケースを引きずり、車に駆け寄る。
「おう。おかえり」
運転席の窓が開くとそこには父の微笑む顔があった。父はまた一段と頭を寂しくしてしまったようだ。
「うん。久しぶり」
スーツケースを後部座席に置くと、助手席に乗り込む。車が発進する。チェーンのついたタイヤがガチャガチャと独特の音を奏で始める。ふと、父が口を開いた。
「東京の会社はどうだ?」
「ぼちぼちだよ。楽しいは楽しい」
「煮え切らないな」
別に濁したわけではないのだ。今を幸せと言い切ることが出来ない私が、地元を捨て、工場を見捨て、その先にいる自分を楽しいと言うことには抵抗があったのだ。
「それより工場はどう?」
「お前に心配されるほど、うちの工場はヤワじゃねえ」
「そりゃ失敬」
二人とも楽しそうに話しながら、けれどお互いどこまで話していいかを探りながらの世間話は進む。気が付けば実家についていた。車のライトで気が付いたのだろう。車を降りると、母が玄関の外で待っていた。小さくなってしまった母が、あんまりにも嬉しそうに笑うものだから、こちらまでつい笑ってしまった。家に入り、スーツケースを自分の部屋に置く。二階の一番奥の部屋。そこが私の部屋だ。私が出て行くとき、物をほとんど持って行ったため、もうベッドと子供用の机くらいしか残っていないこの部屋だが、母はこまめに掃除をしてくれていたのだろう。当時のまま残っていた。
その日は久しぶりに家族三人で夜ご飯を食べ、酒を飲んだ。両親は私がいない時に酒を飲むことは少ないようで、昔に比べ弱くなっていた。それなのに私に合わせて飲むものだから、気が付けば父の顔はみるみる赤みを帯びていった。
「おい。あれはお前のせいじゃないんだ。どうしようもない事故だった。どうせ明日も会いに行くんだろう? お前が気にして幸せになっちゃいけないとか考えるんじゃないぞ」
父は唐突にそんなことを言った。場が冷たくなっていくのを肌で感じる。酔いがさめ、意識が明瞭になっていく。
「あなた、何てことを言うの。こんな楽しい場で言うことないじゃない」
「構わないよ、母さん。ただ今日は一日ずっと移動だったから疲れちゃった。もう寝ることにするよ」
「ほんとごめんなさいね」
母の怒声を背後にリビングを後にする。何をする気分にもならず、自分の部屋に戻って布団にもぐる。目を閉じると今でも鮮明に彼女の事を思い出せる。
夏休みの初日、期間限定の家庭教師として訪れた彼女は、フリルのついた畑作業には向かなそうな服を着て、秋の田んぼのように綺麗な金色の髪を持っていた。彼女はとても優しく、けれど強い意志を持っていて、そして今まで会った誰よりも聡明だった。私は、週三回来てくれることになった彼女をいつも心待ちにしていた。でもそれも長くは続かなかった。大学生の彼女は元々二週間の里帰りで町にいただけであり、東京に帰らなければならなかった。二週間後の家庭教師の最終日、授業が終わると私は散歩に誘われた。私は断るわけもなく、彼女について外に出た。無言で二人歩く。十分も歩けば、二人は人っ子一人見当たらない畦道にいた。
「ねぇ、君はどうして東京を目指すの?」
彼女は首だけで振り返り、そう尋ねてきた。
「こんな息苦しい街から出ていきたいんです。東京はキラキラしてて自由だから」
「そっか。確かに君の言う通りの自由はあるかも。楽しい物、事もたくさんあるしね。けど東京に行ったら何もかもが良くなるってわけじゃないよ? 隣人がうるさかったり、ごみ捨て適当な人がいたり。無関心で自由だからこその悪い部分もある。それでも行きたいって思う?」
「はい。それでも憧れちゃったんです」
東京について調べれば、そこで起きている問題はいくらでも見つかった。それでも私は東京に憧れるのをやめられなかったのだ。
「私ね、本当は君を説得するために来たんだ。東京なんていい場所じゃないから、地元で地に足着けた幸せを見つけなさいって」
私には彼女が何を言っているのか理解が出来なかった。
「父さんが頼んだんですか?」
「君は敏いね」
彼女は、今度は体ごとこちらを振り向き、器用に後ろ歩きをし始めた。はいともいいえともいわないことが何よりも十分だった。
「なんでそれを僕に言うんです? 言わなきゃ知らなかったし、知りたくもなかったのに」
「後で知るよりも今知った方がいいと思ったの。それにね、今なら私がかばってあげられる。君のお父さんはさ、きっと君の事を思っての事なんだと思うよ」
「息子の夢を諦めさせるのが、僕のためって言いたいんですか?」
「夢を追いかけてそれを叶えて、確かに今はそれが全てなんだと思う。でもさ、それって未来の幸せが保障されるわけじゃないんだよ。君のお父さんはさ、自分の歩いてきた道が幸せにつながってるって知ってるから。だから君にも同じ道を歩いてほしいんじゃないかな」
「そんなの。だからって今を我慢しなきゃいけないっていうんですか? 信じてくれてると思ってたのに。なんでそこまで人に決められなきゃいけないんですか」
両親に裏切られたような気がしてどうしようもなく、目頭が熱くなる。彼女はそんな私を静かな目で見ていた。
「ね。おかしいよね。だから私は君にこのことを伝えたの。だけどね、一つ分かってほしいのは、親御さんが君を愛してるのは忘れないでほしいってこと。愛してるからこそ未来が不安になるし、簡単な道を歩いてほしいんだよ。まあ確かに未来の幸せっていうのは大事だよ。そのために今を我慢するって言うのも一つの考え方だと思う。だけどそれを決めるのは他人じゃないと私は思うの。他人の意見を参考にするのはいい。でもね、何を目指すのか、どんな幸せを目指すのか、そういう事は、最後は自分で決めなきゃいけない。君がそれを分かってるならいいんだ。後はきちんと親御さんと話し合いな。もし、ちゃんと親御さんを説得出来たら、来年も勉強教えてあげるから」
次の日、彼女は東京に帰っていった。その日の夜、私はもう一度、親と話し合った。今度はもっと具体的なこと。大学はどこを目指しているのか。そこに入って何を学ぶのか。その先にどんな職業が待っているのか。初めて私は自らの将来について親と真剣に話すことになった。
次の年も、その次の年も私は彼女から勉強を教わった。彼女は夏休みと冬休みに二週間ずつ帰省して私に勉強を教えてくれた。彼女から学べることはとても多く、また彼女が東京にいるときも、SNSを通じて分からないことを教えてくれるなどしてくれたおかげで、私の学力はめきめきと上がっていった。その中で憧れが変化していくことに私は気が付かないふりをした。自分をただただ応援してくれ、勉強を教えてくれている彼女との関係が何よりも大事だった。
高校最後の冬休み、あと三日で共通テストの日。最後の授業の後に、私は彼女に散歩に誘われ外に出た。二人は無言で歩き続けて、気が付けば二年前の場所にいた。
「もうすぐ受験だね。もう教えるのもこれでおしまいかー」
切り出したのはやっぱり彼女からだった。彼女は頭だけ振り向いてそういった。
「そうですね。三年間本当にありがとうございました」
「まだ感謝されるのは早いよ。合格したら言いに来てよ」
「はい。分かりました。東京まで会いに行きますから待っててください」
「あー、ごめん。私今年卒業なんだよね。それでその後は、この町に戻ってくるつもりなの」
「えっ、なんで帰ってくるんですか?」
折角東京に行けたのに、帰ってくる理由が私には分からなかった。彼女は振り向かずに歩き続けた。
「元々親との約束なんだ。大学では好きに生きていい代わりに、その後は家に戻りなさいって。まあ仕方ないよ」
彼女の仕方ないの言葉を私は聞きたくなかった。どこに向けるでもない怒りがふつふつと沸いてくる。
「それでいいんですか? 僕に言ってくれたじゃないですか。他人が決めた未来に従うのは違うって」
「うん。従いたいわけじゃないよ。こっち戻ってきたらお見合いの嵐だろうしね。ここでは私も本家の娘だからさ。繋がりを持ちたい家はいっぱいいる。そこに愛はないかもしれないけどお金はあるじゃん。ならそれも一つの幸せなのかもって納得しちゃったんだ。それにさ、私はもう幸せだったから。ここまで我儘だらけだったし、地元戻って両親を安心させてあげたいなって。私は本当だったら大学にも行けない予定だったの。本家の娘は高校卒業したら家業を手伝って、親が決めた人と結婚して、最後はそれなりの家庭を築くっていうのが、我が家の伝統だから。本当に古臭くてくだらないよね。それが嫌で、せめて大学だけでも私を本家の娘じゃなく、私として見てくれる場所に行きたくて、親と取引したんだ。親には猛反対されたよ、なんで目の前の幸せを掴まずによくも分からない場所に行くんだってね」
知らなかった。いや、知ろうともしなかった。彼女が本家の出身と言うことさえも知らなかったのだ。彼女はそんな大事な一年の内、四週間も毎年私に使ってくれていたのだ。
「そんな大事な時間だったのに。三年間も奪い続けちゃってすみませんでした」
足が動かなくなる。頭を下げる。彼女の顔を見ていられなかった。謝っても仕方がないのに、謝らないわけにはいかなかった。
前から足音が近づいてくる。いきなり彼女は私の顔を覗き込んできた。彼女の顔が眼前に迫り、驚いて咄嗟に顔を上げる。彼女の目は火が消えたすぐ後の炭のような色をしていた。
「ごめんごめん。君はやっぱり優しいね。けど謝らないで。私が君に勉強を教えたのも、ただの厚意ってわけじゃないんだ。君のお父さんから話を聞いた時、君は昔の私と似てると思ったの。親に反抗して自分の道を探す君に自分を重ねて、君がそのまま幸せになってくれれば、私の反抗期も少しは正しかったって思える気がしたんだ。君は私のヒーローだったんだよ。だからさ、受験頑張ってね。それでその先に幸せがあるって私に教えてね」
彼女はこれまでで一番優しい、けれど今にも泣き出しそうな顔で笑った。私の胸の中でいつしかおとなしくなっていた炎が、また熱を持った気がした。
「受験前の君をこれ以上連れまわすわけにもいかないか。風邪を引いたら危ないし、もう帰ろう」
彼女は私を置いて歩きだしてしまう。炎に焼かれるままに言葉を紡ぐ。
「待っててもらえませんか」
「うん? 靴紐でもほどけた?」
彼女が足を止めて振り向く。私は彼女の目をまっすぐ見つめた。
「きっと本家の人を納得させられるような人になって迎えにきますから。だからそれまで待っててくれませんか」
真冬だというのにどんどんと顔が熱くなっていくのを感じる。まだ彼女は私が何を言っているのか分からないようだった。
「両親が安心して預けられるような人になって、あなたを迎えに来ますから。それでちゃんと幸せにしますから、それまで僕を待っていてくれませんか」
彼女の顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「君が大学卒業するころになったら私二十六歳だよ? それから就職したら落ち着くまで二年はかかるだろうから二十八歳。もし、君が迎えに来てくれなかったら婚期のがしちゃう。それに私、めちゃめちゃ面倒な女だよ? 結構年上だし。君にはもっとお似合いの人がいるって。それでも私なの?」
「はい、それでも好きなんです。それに、僕の幸せは僕が決めます。それを教えてくれたのはあなたなんです。それとも僕ではだめですか」
「ダメなわけではないよ。今まで恋愛対象として見たことはなかったけど、好きになれないって感じでもないし。それに君がいい子なのはよく知ってるから。きっと二人とも幸せになれると思う。それに、一本取られちゃったから。いいよ。二十八歳まで待っててあげる。お父さんたちの手伝いして一緒にいてあげれば、そこまで不安にもさせずにすむだろうし。ただそれ以上は待てないよ。私の幸せには、両親を安心させてあげたいっていうのも含まれてるから」
「分かりました」
それから二人は将来の事を話し合った。気が付けば空は真っ暗になっていた。
「じゃあそろそろ帰ろうか」
「はい」
「将来の事散々話したけど、君にはまず大学受験があるんだからね」
「大丈夫です。もう目指す場所は決まりましたから。また受験の結果も逐一連絡しますね」
「うん。待ってるよ。頑張れ」
私は彼女と喋りながら家に戻り、そこで別れた。今ならなんでもできる気分だった。
私はその三日後、予定通り、センター試験を受けた。自己採点の結果は良好で、そのままの勢いで東京に向かった。東京でも淡々と試験をこなしていった。ただすべてが終わって町に戻るまで、彼女が私からのメッセージに既読をつける事はなかった。
気が付けば朝になってた。歯磨きをして、シャワーを浴びる。リビングに行くと、母は朝ご飯を用意してくれていた。目玉焼きと納豆とご飯に味噌汁。家族三人で席について食べ始める。
「昨日はすまなかったな。酔ってたとはいえ、良くないことを言った」
「いいんだよ。父さん。今日で最後だから。心配かけてごめんね」
「ああ」
見かねた母がテレビをつけると今日の天気が流れていた。
「今日の天気は快晴。この時期に珍しい気持ちの良い天気となりそうです」
朝ご飯を食べ終わると私は着替えて家を出る。昨日父が乗っていた車に乗り、隣町を目指す。途中のスーパーで花を買う。帰省するたびに通る道ではあれどいつも心は落ち着かない。
いつもと同じ三〇一号室。そこが彼女のいるところだ。深呼吸をして扉を開ける。部屋の中にはベッドと椅子だけ。ベッドには彼女が眠っている。私はいつもと同じように枕もとの花瓶に花をさしてからベッドの脇の椅子に腰かけ、彼女の骨ばった手を握る。
「お久しぶりです。今日はお別れを言いに来ました。私たちが最後に会った日、あなたが車に引かれたあの日から、もうすぐ十年が経とうとしてます。あの日の帰り、一人で夜道を歩くあなたをひき逃げした犯人はもう出所しました。それなのになんであなたは戻ってきてくれないんですか。私は今、商社マンです。高給取りです。あなたの両親にも、結婚を納得してもらってます。医者の先生ももう治療は完了してて異常はないっておっしゃてるんです。あとはあなたが戻ってきてくれるだけなんです」
別れを切り出しに来たというのに未練ばかりがボロボロと出てきてまう。
「あの日、私があなたの帰ろうと言ったタイミングで引き留めていなければ、暗くなる前に別れていればと、いつもあの日の事を夢に見ます。今の私を見たらあなたはなんて言うんでしょう。もう私も大人になりました。安心させたい人もできました。気が付けばもう二十八歳です。もう待てないんです」
歯を食いしばって涙をこらえる。自分から一方的に告白しておいて、一方的にふるのだ。こんな私が泣いてよいわけがない。声にならないようなかすれ声で謝罪の言葉とあなたの名前を繰り返す。
ピクリと彼女の指が動いた気がした。驚いて顔を上げる。
「待たせちゃってごめんね。幸せになれた?」
掠れてほとんど聞こえないような声。けれど聞き間違えるはずのない彼女の声がした。
「はい。今やっと幸せになれました」
ぼやける視界で彼女が目を開けているのが見えた。私は涙でぐじゃぐじゃの顔で笑った。
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