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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第1章

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エピローグ 「普通に好きになりたい」

 


 夜は静かだった。


 家の中も、自分の部屋の中も、何も変わっていない。

 机の位置も、本棚の並びも、ベッドの端に脱ぎかけたカーディガンが引っかかっているのも、全部いつも通りだ。


 なのに、今日だけは部屋の空気まで少し違って感じた。


 電気はつけている。

 窓の外には住宅街の明かりが点々と見えていて、遠くを走る車の音がときどき小さく届く。

 それでも、部屋の真ん中だけが妙に静かだった。


 僕はベッドの上に座ったまま、しばらく何もせずにいた。


 鞄も開けていない。

 制服のネクタイも緩めただけで、まだ外していない。

 今日一日で頭の中に詰め込まれたものが多すぎて、何から手をつければいいのか分からなかった。


 スマホの画面は伏せてある。

 見れば、たぶんまた何か届いている。

 返していないメッセージも、そのまま残っている。


 見るのが怖かった。

 でも、見ないままなのも落ち着かなかった。


 結局、手を伸ばすこともできずにいる。


 部屋の静けさの中で、今日言われた言葉だけが、順番もなく浮かんでは沈んでいく。


 ――あなたに悪意がないことは分かっています。

 ――勘違いします。

 ――誰にでも優しいのは、たぶん凪くんが一番楽なだけ。

 ――本当に渡したいものなのか。

 ――価値があることと、立派であることは別です。


 どの言葉も少しずつ違う。

 でも全部、僕の中の同じ場所を指していた。


 机の前の鏡に、座ったままの自分が映っている。


 この顔で。

 この体で。

 この世界では、僕は“価値が高い男子”らしい。


 その言い方は、今でも全然しっくりこない。


 価値。

 希少。

 保護優先度。

 そういう言葉で説明されるたびに、自分の輪郭が少しずつ薄くなる気がした。


 でも、たぶんそれも現実なのだ。

 僕がどう思おうと、この世界はそういう物差しで僕を見ている。


 そしてその現実の上で、僕はずっと、かなり危ういことをしていた。


 少し笑う。

 少し優しくする。

 少しだけ特別っぽい温度をのせる。

 でも、本当に何かを返すつもりはない。


 それがどれだけ都合のいい立ち方だったのか、今日でいやというほど分かった。


「…最低だな」


 小さく呟いて、膝の上に落とした手を見る。


 指先は少し冷えていた。

 でも、胸の奥だけは妙に熱かった。


 最低だと思う。

 でも、それだけじゃ片づけられない。


 僕は、求められることが嬉しかった。


 その事実だけは、もうごまかせない。


 名前を呼ばれるのも。

 待たれるのも。

 選ばれるのも。

 “特別”みたいに見られるのも。


 全部、たぶん嬉しかった。


 ずっと欲しかったからだ。


 誰かに真っ先に見つけてもらうこと。

 好意を向けられること。

 他の誰かじゃなくて、自分に期待されること。


 そういうものを、前の僕は持っていなかった。


 だから今の僕は、それを簡単に手放せなかったのだと思う。


 誰かを好きになったからじゃない。

 好きになられたかったから。


 その違いが、今さらこんなに苦いなんて思わなかった。


 ベッドにゆっくりと倒れ込む。

 天井を見上げると、白い四角の中に、自分でも知らなかった気持ちがいくつも浮かんでくる。


 もし、この世界が今みたいじゃなかったら。


 男がもっと普通にいて、

 誰かに優しくしただけで意味が膨らんだりしなくて、

 好かれることも、断ることも、もっと軽く呼吸みたいにできる世界だったら。


 僕は何をしていただろう。


 もっとまっすぐ、誰かを好きになれただろうか。

 それとも、やっぱり同じように臆病だっただろうか。


 分からない。

 分からないけれど、一つだけ、今の僕にもはっきりしていることがある。


 僕は本当は、こんなふうに好かれたいわけじゃなかった。


 競われるみたいに見られて、

 意味を読み取られて、

 少し笑うだけで誰かが期待して、

 断れば傷つけて、残せばもっと傷つける。


 そういう重たいものの上に立って、誰かに欲しがられることを、望んでいたわけじゃない。


 ただ。


 ただ普通に。


 誰か一人を見て、

 その人のことを好きになって、

 相手も同じようにこっちを見てくれて、

 そういう当たり前みたいなことを、当たり前にしてみたかっただけだ。


「…普通に好きになりたい」


 声に出した瞬間、部屋の静けさの中でその言葉だけが少し浮いた。


 普通に。

 その一言が、この世界では思っていた以上に遠い。


 男であることに意味がついて、

 その中でも自分みたいな区分の男子にはさらに意味がついて、

 少しの態度に期待が集まり、少しの拒絶に傷が生まれる。


 そんな場所で、“普通”なんてどこにあるんだろう。


 それでも、諦めきれなかった。


 求められることが嬉しいのは本当だ。

 好意を向けられれば、心が動くのも本当だ。

 でも、その嬉しさと、普通に好きになりたい気持ちは、たぶん同じじゃない。


 そこを間違えたまま進んだら、また同じことを繰り返す。


 誰かを曖昧に待たせて、

 誰かを傷つけて、

 最後に自分まで嫌いになる。


 それだけは、もう嫌だった。


 スマホが小さく震えた。


 びくりとして視線を向ける。

 机の上で、伏せたままの画面がかすかに光っている。


 誰から来たのかは分からない。

 見れば、たぶんまた一つ何かが動く。

 返せば、また意味が生まれる。


 僕はすぐには手を伸ばさなかった。


 ただ、ベッドの上からその光を見つめる。


 少し前までなら、こんなふうに迷わなかった。

 期待されることが嬉しくて、とりあえず返していたと思う。

 今は違う。


 違うけれど、じゃあきっぱり断れるのかといえば、まだそうでもない。


 その中途半端さが、今の僕そのものなのだと思う。


 まだ何も整理できていない。

 まだ何も割り断れていない。

 でも、少なくとも一つだけ、前よりはっきりしていることがある。


 僕はもう、誰にでも同じように優しいふりをして、その先を曖昧にするところへは戻りたくない。


 その先にあるものが、僕の欲しかったものではないと知ってしまったから。


 スマホの光が消える。

 部屋はまた静かになる。


 僕は目を閉じた。


 明日になれば、また学校がある。

 また見られて、また何かを選ばされるかもしれない。

 きっと簡単には変われないし、うまくもできない。


 それでも。


 普通に好きになりたい。


 その願いだけは、まだ手放したくなかった。


 誰かに求められる僕じゃなくて。

 価値が高いと区分される僕でもなくて。

 ちゃんと、自分の意思で誰かを好きになる僕でいたい。


 この世界でそれがどれだけ難しくても、

 たとえ今はまだ遠くても、

 そこだけは間違えたくなかった。


 静かな部屋の中で、胸の奥に小さく残ったその願いだけが、

 今日一日の最後に、かすかに僕を救っていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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