エピローグ 「普通に好きになりたい」
夜は静かだった。
家の中も、自分の部屋の中も、何も変わっていない。
机の位置も、本棚の並びも、ベッドの端に脱ぎかけたカーディガンが引っかかっているのも、全部いつも通りだ。
なのに、今日だけは部屋の空気まで少し違って感じた。
電気はつけている。
窓の外には住宅街の明かりが点々と見えていて、遠くを走る車の音がときどき小さく届く。
それでも、部屋の真ん中だけが妙に静かだった。
僕はベッドの上に座ったまま、しばらく何もせずにいた。
鞄も開けていない。
制服のネクタイも緩めただけで、まだ外していない。
今日一日で頭の中に詰め込まれたものが多すぎて、何から手をつければいいのか分からなかった。
スマホの画面は伏せてある。
見れば、たぶんまた何か届いている。
返していないメッセージも、そのまま残っている。
見るのが怖かった。
でも、見ないままなのも落ち着かなかった。
結局、手を伸ばすこともできずにいる。
部屋の静けさの中で、今日言われた言葉だけが、順番もなく浮かんでは沈んでいく。
――あなたに悪意がないことは分かっています。
――勘違いします。
――誰にでも優しいのは、たぶん凪くんが一番楽なだけ。
――本当に渡したいものなのか。
――価値があることと、立派であることは別です。
どの言葉も少しずつ違う。
でも全部、僕の中の同じ場所を指していた。
机の前の鏡に、座ったままの自分が映っている。
この顔で。
この体で。
この世界では、僕は“価値が高い男子”らしい。
その言い方は、今でも全然しっくりこない。
価値。
希少。
保護優先度。
そういう言葉で説明されるたびに、自分の輪郭が少しずつ薄くなる気がした。
でも、たぶんそれも現実なのだ。
僕がどう思おうと、この世界はそういう物差しで僕を見ている。
そしてその現実の上で、僕はずっと、かなり危ういことをしていた。
少し笑う。
少し優しくする。
少しだけ特別っぽい温度をのせる。
でも、本当に何かを返すつもりはない。
それがどれだけ都合のいい立ち方だったのか、今日でいやというほど分かった。
「…最低だな」
小さく呟いて、膝の上に落とした手を見る。
指先は少し冷えていた。
でも、胸の奥だけは妙に熱かった。
最低だと思う。
でも、それだけじゃ片づけられない。
僕は、求められることが嬉しかった。
その事実だけは、もうごまかせない。
名前を呼ばれるのも。
待たれるのも。
選ばれるのも。
“特別”みたいに見られるのも。
全部、たぶん嬉しかった。
ずっと欲しかったからだ。
誰かに真っ先に見つけてもらうこと。
好意を向けられること。
他の誰かじゃなくて、自分に期待されること。
そういうものを、前の僕は持っていなかった。
だから今の僕は、それを簡単に手放せなかったのだと思う。
誰かを好きになったからじゃない。
好きになられたかったから。
その違いが、今さらこんなに苦いなんて思わなかった。
ベッドにゆっくりと倒れ込む。
天井を見上げると、白い四角の中に、自分でも知らなかった気持ちがいくつも浮かんでくる。
もし、この世界が今みたいじゃなかったら。
男がもっと普通にいて、
誰かに優しくしただけで意味が膨らんだりしなくて、
好かれることも、断ることも、もっと軽く呼吸みたいにできる世界だったら。
僕は何をしていただろう。
もっとまっすぐ、誰かを好きになれただろうか。
それとも、やっぱり同じように臆病だっただろうか。
分からない。
分からないけれど、一つだけ、今の僕にもはっきりしていることがある。
僕は本当は、こんなふうに好かれたいわけじゃなかった。
競われるみたいに見られて、
意味を読み取られて、
少し笑うだけで誰かが期待して、
断れば傷つけて、残せばもっと傷つける。
そういう重たいものの上に立って、誰かに欲しがられることを、望んでいたわけじゃない。
ただ。
ただ普通に。
誰か一人を見て、
その人のことを好きになって、
相手も同じようにこっちを見てくれて、
そういう当たり前みたいなことを、当たり前にしてみたかっただけだ。
「…普通に好きになりたい」
声に出した瞬間、部屋の静けさの中でその言葉だけが少し浮いた。
普通に。
その一言が、この世界では思っていた以上に遠い。
男であることに意味がついて、
その中でも自分みたいな区分の男子にはさらに意味がついて、
少しの態度に期待が集まり、少しの拒絶に傷が生まれる。
そんな場所で、“普通”なんてどこにあるんだろう。
それでも、諦めきれなかった。
求められることが嬉しいのは本当だ。
好意を向けられれば、心が動くのも本当だ。
でも、その嬉しさと、普通に好きになりたい気持ちは、たぶん同じじゃない。
そこを間違えたまま進んだら、また同じことを繰り返す。
誰かを曖昧に待たせて、
誰かを傷つけて、
最後に自分まで嫌いになる。
それだけは、もう嫌だった。
スマホが小さく震えた。
びくりとして視線を向ける。
机の上で、伏せたままの画面がかすかに光っている。
誰から来たのかは分からない。
見れば、たぶんまた一つ何かが動く。
返せば、また意味が生まれる。
僕はすぐには手を伸ばさなかった。
ただ、ベッドの上からその光を見つめる。
少し前までなら、こんなふうに迷わなかった。
期待されることが嬉しくて、とりあえず返していたと思う。
今は違う。
違うけれど、じゃあきっぱり断れるのかといえば、まだそうでもない。
その中途半端さが、今の僕そのものなのだと思う。
まだ何も整理できていない。
まだ何も割り断れていない。
でも、少なくとも一つだけ、前よりはっきりしていることがある。
僕はもう、誰にでも同じように優しいふりをして、その先を曖昧にするところへは戻りたくない。
その先にあるものが、僕の欲しかったものではないと知ってしまったから。
スマホの光が消える。
部屋はまた静かになる。
僕は目を閉じた。
明日になれば、また学校がある。
また見られて、また何かを選ばされるかもしれない。
きっと簡単には変われないし、うまくもできない。
それでも。
普通に好きになりたい。
その願いだけは、まだ手放したくなかった。
誰かに求められる僕じゃなくて。
価値が高いと区分される僕でもなくて。
ちゃんと、自分の意思で誰かを好きになる僕でいたい。
この世界でそれがどれだけ難しくても、
たとえ今はまだ遠くても、
そこだけは間違えたくなかった。
静かな部屋の中で、胸の奥に小さく残ったその願いだけが、
今日一日の最後に、かすかに僕を救っていた。
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