エピローグ 「やっと普通に好きになってくれたね」
最終話です。
恋人になってから最初の日曜は、待ち合わせの時点ですでに少し変だった。
変、というのは悪い意味じゃない。
ただ、今までと同じ駅前の広場なのに、空気の感じ方が少し違う。
前は“ひよりと会う”だった。
今は“恋人のひよりと会う”だ。
たったそれだけの違いなのに、胸の奥が妙に落ち着かない。
待ち合わせ時間の五分前。
今日はちゃんとそれくらいに着いた。
三十分前じゃないだけ成長したと思う。
「…ほんとに五分前だ」
背後から声がして振り返ると、ひよりが立っていた。
今日の私服は前回より少しラフで、でもやっぱりひよりらしいやわらかい色合いだった。
それを見た瞬間、やっぱり少し見惚れてしまう。
「な~に、その顔~」
「いや」
「また何か思ってる」
「思ってる」
「素直だね今日は」
「もう彼氏なので」
そう返すと、ひよりは一瞬だけ止まって、それから顔を赤くした。
「その言い方、やめて」
「何で」
「まだ慣れてないから」
その反応がかわいくて、こっちの方が少し困る。
「…ひより」
名前を呼ぶと、ひよりがまた少しだけ目を丸くする。
前は“ひよりさん”だった。
告白してから一度だけ、自然に呼び捨てが出た。
それを今日は、ちゃんと意識して言った。
「うわ」
「何」
「今の…ちょっとやばい」
「何が」
「呼び捨て」
ひよりは顔を隠すみたいに片手で口元を押さえる。
「急にはずるい」
「慣れようと思って」
「私の心臓が慣れてません」
その言い方に、僕は少しだけ笑う。
でも自分だって、口にした瞬間はかなり緊張していた。
ただ、前よりその緊張をごまかさなくなっただけだ。
「…行こっか」
ひよりが少しだけ視線をそらしたまま言う。
「うん」
今日は特別な場所じゃなくていいと思った。
映画でもいいし、買い物でもいいし、ただ街を歩くだけでもいい。
大事なのは、二人で一緒にいられることだ。
◇
駅から少し離れた商業施設の中を並んで歩く。
休日の人出は多いけれど、前回の水族館よりずっと日常に近い。
それが逆に、今の二人には合っていた。
「ねえ」
ひよりが小さく言う。
「ん?」
「…手」
それだけで意味は分かった。
僕は少しだけ周囲を見る。
別に隠れる必要はない。
でも、こういうのにまだ慣れていないだけだ。
それでも今は、ためらいより先に気持ちが動いた。
「うん」
自分の方から手を伸ばす。
ひよりの手に触れて、そのまま指を絡めるみたいに握る。
ひよりが少しだけ肩を揺らした。
「…びっくりした」
「嫌だった?」
「嫌じゃない」
「ただ、思ったより強かったから」
その答えに、胸の奥が少しだけくすぐったくなる。
「ちゃんとつなぎたかったから」
「…そういうの、禁止」
「最近、ひよりもこういうことよく言うじゃん」
「私はいいの」
「ずるいな」
でも、その“ずるさ”さえかわいい。
歩きながら、つないだ手のあたたかさがずっと意識の端にある。
前みたいな偶然の接触じゃない。
人混みではぐれないためでもない。
ちゃんと、自分たちの意思でつないでいる。
それだけで世界の見え方が少し変わるのが不思議だった。
◇
フードコートで休憩しているときだった。
ひよりがアイスを少しだけ食べながら、僕の方を見る。
「何か、今日ちょっと違うね」
「何が」
「前より、近い感じ」
その表現が妙にひよりらしい。
近い感じ。
たしかにそうかもしれない。
告白して、付き合って、手をつないで。
物理的な距離も変わったけれど、たぶんそれだけじゃない。
気持ちを出すことに、少しずつ遠慮が減っている。
「彼氏だからね」
さっきと同じことを言うと、ひよりはまた少しだけ顔を赤くした。
「だからその言い方慣れてないって」
「僕はちょっと慣れてきた」
「うそ」
「ほんと」
「絶対ちょっと照れてる」
「…まあ、それはある」
正直に認めると、ひよりが少しだけ笑う。
「でもさ」
ひよりはスプーンを置いて、少しだけ声をやわらげた。
「今の凪くん、前よりなんか…」
「うん」
「ちゃんと私のこと、好きなんだなって分かる」
その言葉に、胸の奥が静かに熱くなる。
「分かる?」
「分かるよ」
「前は好かれてるのが好き、みたいな感じもあったけど」
「今は、私が何してるかとか、何食べるかとか、そういうのちゃんと見てるし」
ひよりは少しだけ目を細める。
「前から見てたつもりかもしれないけど、今の方がずっとちゃんと見てる」
その評価は、たぶん今の僕にとって一番うれしいものだった。
ちゃんと見ている。
ちゃんと好きだと伝わる。
それは僕がずっと欲しかったものに近い。
「…好きだから」
ぽつりと言うと、ひよりがまた少しだけ目を見開く。
「そういうの、不意打ち」
「今さらでしょ」
「今さらでも心臓に悪い」
でも、その顔はうれしそうだった。
◇
帰り道。
夕方の光がやわらかく、歩道に長く影を落としていた。
人通りはそこそこある。
でももう、手をつないで歩くことに前ほど迷いはない。
ひよりが僕の少しだけ前を歩きかけて、でもすぐに歩幅を合わせて隣へ戻る。
その動きが妙に愛おしい。
「…ひより」
「なに」
「ちょっとこっち」
思わずそう言って、ひよりの手を少しだけ引く。
ひよりが驚いてこっちを見る。
「え、何!?」
「いや」
「そっち、人が多いから」
半分は本当だ。
でも半分は違う。
ただ、少しだけ自分の近くにいてほしかった。
ひよりは数秒こっちを見て、それから少しだけ笑う。
「…それだけ?」
「それだけ」
「ふうん」
何かを見抜いたみたいな顔をしている。
その顔に少しだけ観念して、僕は小さく言う。
「あと、ちょっとだけ離したくなかった」
ひよりの耳が、目に見えて赤くなった。
「それ、ちゃんと言うんだ」
「言った方がいい気がしたから」
「…うん」
ひよりは少しだけ俯く。
「それなら、私ももうちょっとこっちにいる」
そう言って、手を握り返してくる。
その返し方が、たまらなくひよりだった。
押しつけない。
でもちゃんと応えてくれる。
僕はそのやわらかい返しに、胸の奥が静かに満たされていくのを感じる。
これがたぶん、普通の恋だ。
奪い合うものじゃない。
所有するものでもない。
どちらかが上に立つものでもない。
ただ、お互いにちゃんと見て、ちゃんと好きで、ちゃんと隣にいたいと思うこと。
ここまで来るのに、すごく時間がかかった。
回り道もした。
人も傷つけた。
自分もかなり傷ついた。
それでも、その先があるなら、ちゃんと歩いてきてよかったと思える。
駅前の横断歩道で信号待ちをしているとき、ひよりがふと僕の方を見た。
少しだけ照れていて、でもすごくうれしそうな顔だった。
「ねえ」
「ん?」
ひよりは一度だけ息を整えるみたいにしてから、笑った。
「やっと普通に好きになってくれたね」
その一言に、胸の奥がきゅっとなる。
やっと。
本当にその通りだ。
最初はモテることに酔っていた。
曖昧にして、選ばなくて、好かれている気持ちよさだけを受け取っていた。
そこからここまで来るのに、すごく時間がかかった。
でも、今ならちゃんと返せる。
「…うん」
僕は少しだけ照れながら言う。
「たぶん、やっと」
ひよりが笑う。
僕も少しだけ笑う。
信号が青に変わる。
人の流れが前へ動く。
その中を、僕たちは手をつないだまま歩き出した。
世界はまだ完全には変わらない。
男はまだ資源だし、希少だし、この先も面倒なことはきっとある。
それでも、僕はもう前みたいには流されない。
自分の意思で生きていく。
そしてその隣には、ひよりがいる。
それだけで、十分幸せだと思えたから。
ここまで『貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい』を最後まで読んでいただき、本当にありがとうございました。
この物語は、男が少ない世界で主人公がモテる、という分かりやすい楽しさから始まりました。
けれど書き進めるうちに、ただ好かれるだけではなく、誰か一人をちゃんと好きになることの方が、ずっと大事な話になっていきました。
凪は最初、かなり未熟で、軽くて、逃げる主人公でした。
誰も選ばず、曖昧なままでいて、好かれている気持ちよさの中にいた子です。
でも、だからこそ最後にひよりへたどり着けたことに、この物語の意味があったと思っています。
ひよりの「勝ちたいんじゃなくて、ちゃんと好きになられたい」という気持ちは、この物語の芯でした。
そして凪が遠回りしながらも最後にそこへたどり着けたことが、この作品にとっていちばん大切な結末です。
またこの作品は、恋愛だけではなく、好かれることと好きになることの違い、そして誰か一人とちゃんと向き合うことの尊さを描きたかった物語でもありました。
物語は、書くだけでは完成しません。
最後のページまで読んでくださる方がいて、はじめて一つの物語になります。
だからこうして、凪やひよりたちの最後まで見届けていただけたことが、本当にうれしいです。
ひよりも、澪も、玲那も、しずくも、ひとえも、みんなそれぞれ違う形で凪に影響を与え、この物語をここまで連れてきてくれました。
誰か一人でも、心に残るキャラクターがいたなら、とてもうれしいです。
そして願わくば、この物語を読み終えたあとに、「たくさんの人に好かれることより、たった一人をちゃんと好きになることの方が大切かもしれない」と少しでも感じていただけたなら、こんなにうれしいことはありません。
改めて、本当にありがとうございました。
この物語を手に取ってくださったこと、最後まで付き合ってくださったことに、心から感謝しています。




