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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第5章

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47/50

「水無月ひよりは、普通に...」

 


 放課後の教室は、日が傾くと少しだけ別の場所みたいになる。


 昼間はあれだけ人の気配で埋まっていたのに、帰る生徒が増えるにつれて、机と椅子の隙間に静けさが落ちてくる。

 窓から入る光はやわらかくなって、黒板の端や床の傷まで妙にきれいに見える。


 その日の教室には、僕とひよりしかいなかった。


 最初から約束していたわけじゃない。

 でも最近は、こういう偶然が起きても前ほど不自然に感じない。

 いや、たぶん違う。

 偶然に見える形を、お互い少しだけ選んでいるのかもしれない。


 ひよりは自分の席でノートを閉じて、僕は窓際で鞄に教科書をしまっていた。

 たったそれだけの時間なのに、変に落ち着かない。


 しずくの言葉が、まだ頭のどこかに残っている。


 《東條が欲しかったのは、特別扱いじゃなくて普通の恋だったってこと》


 その“普通の恋”が誰としたいのかは、もう分かっている。

 だからこそ、言葉にするのが怖かった。


「…まだ帰らないの?」


 先に口を開いたのは、ひよりだった。


「帰る」


「じゃあ何でそんなに動きが遅いの?」


「それ、ひよりさんもでしょ」


「私は今ちゃんと片づけ終わったところだから」


「僕も今終わったとこ」


 言い返すと、ひよりは少しだけ笑った。


「じゃあ同じだ」


 その笑い方が、妙にやさしい。


 前なら、こういう時間も“話しやすいな”くらいで流していたかもしれない。

 今は違う。

 ひよりが笑うだけで、少しだけ胸の奥があたたかくなる。


 それを、自分でももう見ないふりはできなかった。


「ひよりさん」


「なに」


 名前を呼ぶと、ひよりは少しだけ姿勢を正す。

 その反応だけで、僕の方が変に緊張する。


「少しだけいいかな?」


「…うん」


 ひよりは立ち上がらず、そのまま椅子に座った。

 僕も自分の席へ戻るのではなく、ひよりの斜め前の席を引いて座る。


 距離は近すぎない。

 でも、教室が静かすぎるせいで、呼吸の音までいつもより近く感じた。


「何か、改まってるね」


「そうかも」


「ちょっと…こわい」


「ごめん」


「いや、別に謝らなくていいけどね」


 ひよりはそう言ってから、少しだけ視線を落とした。


「ただ、たぶん私も今ちょっと緊張してるかも」


 その一言に、胸の奥で何かが静かに触れる。


 僕だけじゃない。

 ひよりも、今この時間をちゃんと特別なものとして受け取っている。


「…この前のさ」


 僕はゆっくり言う。


「水族館、楽しかった」


「うん」


「すごく」


「私も楽しかったよ」


 返事が早い。

 迷いがない。

 そのことが少しだけ嬉しい。


「前までの僕って、たぶん」

「誰といても“それなりに楽しい”で済ませてたんだと思う」


 ひよりは黙って聞いている。


「好かれるのも気持ちよかったし」

「誰かに特別扱いされるのも悪くなかったし」

「だから、ちゃんと考えてなかった」


「うん」


「でも、ひよりさんといたときの楽しいは、それと全然違った」


 そこまで言うと、ひよりの指先が机の上で少しだけ動く。

 落ち着かないときの癖なのかもしれない。


「違ったって、どう違ったの?」


 小さく聞かれる。


 その問いが、僕の逃げ道をきれいに消す。


「…もっと、一緒にいたいって思った」


 言ってしまうと、急に教室の静けさが濃くなった気がした。


「次も会いたいとか」

「また一緒にどこか行きたいとか」

「そういうのを、何かの流れじゃなくて自分から思った」


 ひよりは視線を上げない。

 でも、ちゃんと聞いている。


「前なら、たぶんこういう気持ちも“好かれてる感じが心地いい”で片づけてたと思う」

「でも今は、違うって分かる」


「…そっか」


 ひよりの返事は小さい。

 でも、心が揺れていた。


 その揺れ方が、妙に胸にくる。


「ひよりさんは」


 今度は僕が聞く番だった。


「最初から、普通に好きになりたいって言ってたよね」


「…うん」


「それって、ずっと変わってない?」


 ひよりは少しだけ黙った。

 それから、ゆっくり頷く。


「変わってないよ」


 まっすぐな声だった。


「私、最初から」

「誰かより勝ちたいとか、そういうのあんまり分かんなかった」

「凪くんが希少だからとか、モテるとか、そういうのは分かるし、実際そうなんだろうなって思ってたけど」


 そこで、少しだけ苦く笑う。


「でも、だからって“取った方が勝ち”みたいなのは違うなって思ってた」


 その感覚が、ひよりの一番大事なところなのだと思う。


 この世界では、男は資源だ。

 希少で、守られて、囲われる価値がある。

 その世界の中で、ひよりだけは最初からそこに疑問を持っていた。


「私がほしかったのは」


 ひよりが続ける。


「選ばれること、じゃなかったんだと思う」


「…うん」


「ちゃんと対等に見られること」

「ちゃんと好きになられること」

「その方がずっと大事だった」


 胸の奥が、静かに重くなる。


 それはたぶん、ずっとひよりが持っていた答えだ。

 そして僕は、そこに気づくのにすごく時間がかかった。


「だから」


 ひよりは少しだけ笑った。


「凪くんが最初ずっとふわふわってしてたとき、正直かなりむかついてた」


「やっぱり?」


「やっぱりだよ」


 その返しに、少しだけ笑いそうになる。

 でも、ひよりの目は笑っていなかった。

 ちゃんと本気の目だ。


「だって、誰にもちゃんと向いてないのに、みんなにやさしい顔してたから」

「それって優しいんじゃなくて、ただ楽な方に逃げてるだけじゃんって思ってた」


「うん」


「しかも凪くん、自分でそのずるさにあんまり気づいてなさそうだったし」


「ボロカスに言うね」


「今だから言うの」


 それでも、声の奥には怒りだけじゃないものがある。

 たぶん、ずっと見守ってきたからこその苦さだ。


「でもさ」


 ひよりは少しだけ視線をやわらげた。


「そのあと、ちゃんと変わっていったじゃん」


 その一言が、思っていたより深く入る。


 変わっていった。

 完璧ではない。

 まだ怖い。

 迷いもある。

 でも、変わってきたのは事実だった。


「七海のときに気付いて」

「断るのを覚えて」

「嫌われるのも承知して」

「それでも全部断るだけじゃだめで」

「ちゃんと一線を引くようになって」


 ひよりは一つずつ数えるみたいに言う。


「私、ずっと見てたから」


 その言葉に、息が少しだけ詰まる。


 一番近くで見ていた。

 前にもひよりはそう言っていた。

 でも今この場で聞くと、意味が全然違う。


「…見守られてたんだなぁ」


「見てたよ」


 ひよりはあっさり言う。


「すごく近くで」

「たぶん、凪君が思ってるよりもずっと…」


 その真っ直ぐさに、胸の奥が静かに揺れる。


 ひよりは、最初からただ“待っていた”わけじゃない。

 見ていた。

 怒っていた。

 むかついていた。

 でも、それでも目を離さなかった。


 それはたぶん、すごく根気のいることだ。


「…僕さ」


 言葉を選びながら、でも逃げないように言う。


「誰かを好きになるのが、怖かったんだと思う」


 ひよりが静かに顔を上げる。


「うん」


「好かれてる方が楽だった」

「選ばなくて済むし、責任もないし、誰か一人をちゃんと見るのは怖いから」


 そこまで言うと、自分でも少しだけ苦しくなる。


 でも、ここを通らないとたぶん何も進まない。


「誰か一人を好きになったら」

「その分だけ、ちゃんと向き合わないといけないし」

「傷つける怖さも、失う怖さも、前よりずっと多くなる」


「…うん」


「だからずっと、そうならないようにしてた」


 教室の空気は静かだった。

 窓の外では運動部の声がかすかに聞こえるのに、この席の周りだけ別の時間みたいに感じる。


「でも」


 ひよりの顔を見る。


「ひよりさんといると、それじゃダメなんだって思ったんだ」


 その言葉は、自分でも驚くほど自然に出た。


「楽だからだけじゃない」

「安心するからだけでもない」

「一緒にいたいし、ちゃんと向き合いたいって思う」


 ひよりの目が、少しだけ揺れる。

 強がりでもなく、演技でもなく、本当に心が動いたときの揺れ方だった。


「…その言い方、ずるいね」


 小さくそう言われる。


「え」


「今それ言うのって、なんかずるい」


「ごめん」


「だから何で謝るの」


 少しだけ笑う。

 でも、ひよりの目は少し潤んでいた。


「私さ」


 ひよりがゆっくり言う。


「最初から、凪くんが他の子に囲まれてるの見てても」

「別に“私を選んで”って思ってたわけじゃないんだよね」


「…うん」


「ただ、誰か一人くらいちゃんと見なよって思ってた」


「手厳しいな」


「そうだよ」


 それから、少しだけ息を吐く。


「でも、今の話を聞いたらさ」


 ひよりが机の端を指でなぞる。


「やっと、同じ目線で話してくれたのかなって思う」


 その一言は、痛いくらい優しかった。


 やっと。

 そうだ。

 僕はすごく遠回りして、ようやくここまで来た。


 ひよりはたぶん、最初からずっとここにいたのだ。

 普通に好きになりたいという場所に。

 僕だけが、そこへ来るのをずっと怖がっていた。


「…遅くてごめん」


 ぽつりとそう言うと、ひよりは少しだけ笑った。


「うん。遅いよ」


「否定してくれないんだ」


「しないよ」


 その返しに、僕も少しだけ笑う。

 でも次の瞬間、ひよりの表情はまた少しだけやわらかくなった。


「だって、もう同じところに来てくれたから」


 その言葉に、胸の奥があたたかくなる。

 同時に、次に言うべきこともはっきり見えてくる。


 でも、まだ今日はそこまで言わない方がいい気がした。

 今ここで告白まですると、意味が少し変わってしまう気がした。


 そう思った瞬間、ひよりが立ち上がりかけて、机の角に手をついた。

 その手の甲に、僕の指先がほんの少し触れる。


 反射で引こうとして、やめた。


 ひよりも引かなかった。


 ほんの少しだけ触れたまま、二人で止まる。


 強く握るわけじゃない。

 でも、ただの偶然として流さないくらいには、どちらもその手の感触を意識していた。


「…凪くん」


「うん」


「今、離さないんだ」


「…うん」


 正直に答える。


 ひよりが少しだけ目を細めた。

 照れているのか、困っているのか、うれしいのか、全部が少しずつ混ざった顔だった。


「前だったら、絶対すぐ引いてたよね」


「そうだと思う」


「何で今日は離さないの?」


 その問いに、心臓が少しだけ強く鳴る。


 でも、ここで逃げたくなかった。


「…離したくないから」


 ひよりの指先が、わずかに動く。


 それでも、離れない。


 教室の中に、夕方の光が少しだけ伸びる。

 机の端、椅子の影、ひよりの髪。

 全部がやわらかく見えて、その中で触れている手だけが妙にはっきり熱を持っていた。


「…そっか」


 ひよりが小さく言う。


 それ以上は、何も言わなかった。

 でも、その“そっか”の中に、たぶんすごくたくさんの意味が入っている。


 僕は、もう分かっていた。


 次に言うべき言葉も、次に進むべき場所も、もう全部。


 好きになるのが怖かった。

 でも、それでももうひよりからは目を逸らしたくなかった。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

もし作品を気に入っていただけましたら、

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★★★★★を入れていただけると作者のやる気が大幅に上がります(^^)/


また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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