「水無月ひよりは、普通に...」
放課後の教室は、日が傾くと少しだけ別の場所みたいになる。
昼間はあれだけ人の気配で埋まっていたのに、帰る生徒が増えるにつれて、机と椅子の隙間に静けさが落ちてくる。
窓から入る光はやわらかくなって、黒板の端や床の傷まで妙にきれいに見える。
その日の教室には、僕とひよりしかいなかった。
最初から約束していたわけじゃない。
でも最近は、こういう偶然が起きても前ほど不自然に感じない。
いや、たぶん違う。
偶然に見える形を、お互い少しだけ選んでいるのかもしれない。
ひよりは自分の席でノートを閉じて、僕は窓際で鞄に教科書をしまっていた。
たったそれだけの時間なのに、変に落ち着かない。
しずくの言葉が、まだ頭のどこかに残っている。
《東條が欲しかったのは、特別扱いじゃなくて普通の恋だったってこと》
その“普通の恋”が誰としたいのかは、もう分かっている。
だからこそ、言葉にするのが怖かった。
「…まだ帰らないの?」
先に口を開いたのは、ひよりだった。
「帰る」
「じゃあ何でそんなに動きが遅いの?」
「それ、ひよりさんもでしょ」
「私は今ちゃんと片づけ終わったところだから」
「僕も今終わったとこ」
言い返すと、ひよりは少しだけ笑った。
「じゃあ同じだ」
その笑い方が、妙にやさしい。
前なら、こういう時間も“話しやすいな”くらいで流していたかもしれない。
今は違う。
ひよりが笑うだけで、少しだけ胸の奥があたたかくなる。
それを、自分でももう見ないふりはできなかった。
「ひよりさん」
「なに」
名前を呼ぶと、ひよりは少しだけ姿勢を正す。
その反応だけで、僕の方が変に緊張する。
「少しだけいいかな?」
「…うん」
ひよりは立ち上がらず、そのまま椅子に座った。
僕も自分の席へ戻るのではなく、ひよりの斜め前の席を引いて座る。
距離は近すぎない。
でも、教室が静かすぎるせいで、呼吸の音までいつもより近く感じた。
「何か、改まってるね」
「そうかも」
「ちょっと…こわい」
「ごめん」
「いや、別に謝らなくていいけどね」
ひよりはそう言ってから、少しだけ視線を落とした。
「ただ、たぶん私も今ちょっと緊張してるかも」
その一言に、胸の奥で何かが静かに触れる。
僕だけじゃない。
ひよりも、今この時間をちゃんと特別なものとして受け取っている。
「…この前のさ」
僕はゆっくり言う。
「水族館、楽しかった」
「うん」
「すごく」
「私も楽しかったよ」
返事が早い。
迷いがない。
そのことが少しだけ嬉しい。
「前までの僕って、たぶん」
「誰といても“それなりに楽しい”で済ませてたんだと思う」
ひよりは黙って聞いている。
「好かれるのも気持ちよかったし」
「誰かに特別扱いされるのも悪くなかったし」
「だから、ちゃんと考えてなかった」
「うん」
「でも、ひよりさんといたときの楽しいは、それと全然違った」
そこまで言うと、ひよりの指先が机の上で少しだけ動く。
落ち着かないときの癖なのかもしれない。
「違ったって、どう違ったの?」
小さく聞かれる。
その問いが、僕の逃げ道をきれいに消す。
「…もっと、一緒にいたいって思った」
言ってしまうと、急に教室の静けさが濃くなった気がした。
「次も会いたいとか」
「また一緒にどこか行きたいとか」
「そういうのを、何かの流れじゃなくて自分から思った」
ひよりは視線を上げない。
でも、ちゃんと聞いている。
「前なら、たぶんこういう気持ちも“好かれてる感じが心地いい”で片づけてたと思う」
「でも今は、違うって分かる」
「…そっか」
ひよりの返事は小さい。
でも、心が揺れていた。
その揺れ方が、妙に胸にくる。
「ひよりさんは」
今度は僕が聞く番だった。
「最初から、普通に好きになりたいって言ってたよね」
「…うん」
「それって、ずっと変わってない?」
ひよりは少しだけ黙った。
それから、ゆっくり頷く。
「変わってないよ」
まっすぐな声だった。
「私、最初から」
「誰かより勝ちたいとか、そういうのあんまり分かんなかった」
「凪くんが希少だからとか、モテるとか、そういうのは分かるし、実際そうなんだろうなって思ってたけど」
そこで、少しだけ苦く笑う。
「でも、だからって“取った方が勝ち”みたいなのは違うなって思ってた」
その感覚が、ひよりの一番大事なところなのだと思う。
この世界では、男は資源だ。
希少で、守られて、囲われる価値がある。
その世界の中で、ひよりだけは最初からそこに疑問を持っていた。
「私がほしかったのは」
ひよりが続ける。
「選ばれること、じゃなかったんだと思う」
「…うん」
「ちゃんと対等に見られること」
「ちゃんと好きになられること」
「その方がずっと大事だった」
胸の奥が、静かに重くなる。
それはたぶん、ずっとひよりが持っていた答えだ。
そして僕は、そこに気づくのにすごく時間がかかった。
「だから」
ひよりは少しだけ笑った。
「凪くんが最初ずっとふわふわってしてたとき、正直かなりむかついてた」
「やっぱり?」
「やっぱりだよ」
その返しに、少しだけ笑いそうになる。
でも、ひよりの目は笑っていなかった。
ちゃんと本気の目だ。
「だって、誰にもちゃんと向いてないのに、みんなにやさしい顔してたから」
「それって優しいんじゃなくて、ただ楽な方に逃げてるだけじゃんって思ってた」
「うん」
「しかも凪くん、自分でそのずるさにあんまり気づいてなさそうだったし」
「ボロカスに言うね」
「今だから言うの」
それでも、声の奥には怒りだけじゃないものがある。
たぶん、ずっと見守ってきたからこその苦さだ。
「でもさ」
ひよりは少しだけ視線をやわらげた。
「そのあと、ちゃんと変わっていったじゃん」
その一言が、思っていたより深く入る。
変わっていった。
完璧ではない。
まだ怖い。
迷いもある。
でも、変わってきたのは事実だった。
「七海のときに気付いて」
「断るのを覚えて」
「嫌われるのも承知して」
「それでも全部断るだけじゃだめで」
「ちゃんと一線を引くようになって」
ひよりは一つずつ数えるみたいに言う。
「私、ずっと見てたから」
その言葉に、息が少しだけ詰まる。
一番近くで見ていた。
前にもひよりはそう言っていた。
でも今この場で聞くと、意味が全然違う。
「…見守られてたんだなぁ」
「見てたよ」
ひよりはあっさり言う。
「すごく近くで」
「たぶん、凪君が思ってるよりもずっと…」
その真っ直ぐさに、胸の奥が静かに揺れる。
ひよりは、最初からただ“待っていた”わけじゃない。
見ていた。
怒っていた。
むかついていた。
でも、それでも目を離さなかった。
それはたぶん、すごく根気のいることだ。
「…僕さ」
言葉を選びながら、でも逃げないように言う。
「誰かを好きになるのが、怖かったんだと思う」
ひよりが静かに顔を上げる。
「うん」
「好かれてる方が楽だった」
「選ばなくて済むし、責任もないし、誰か一人をちゃんと見るのは怖いから」
そこまで言うと、自分でも少しだけ苦しくなる。
でも、ここを通らないとたぶん何も進まない。
「誰か一人を好きになったら」
「その分だけ、ちゃんと向き合わないといけないし」
「傷つける怖さも、失う怖さも、前よりずっと多くなる」
「…うん」
「だからずっと、そうならないようにしてた」
教室の空気は静かだった。
窓の外では運動部の声がかすかに聞こえるのに、この席の周りだけ別の時間みたいに感じる。
「でも」
ひよりの顔を見る。
「ひよりさんといると、それじゃダメなんだって思ったんだ」
その言葉は、自分でも驚くほど自然に出た。
「楽だからだけじゃない」
「安心するからだけでもない」
「一緒にいたいし、ちゃんと向き合いたいって思う」
ひよりの目が、少しだけ揺れる。
強がりでもなく、演技でもなく、本当に心が動いたときの揺れ方だった。
「…その言い方、ずるいね」
小さくそう言われる。
「え」
「今それ言うのって、なんかずるい」
「ごめん」
「だから何で謝るの」
少しだけ笑う。
でも、ひよりの目は少し潤んでいた。
「私さ」
ひよりがゆっくり言う。
「最初から、凪くんが他の子に囲まれてるの見てても」
「別に“私を選んで”って思ってたわけじゃないんだよね」
「…うん」
「ただ、誰か一人くらいちゃんと見なよって思ってた」
「手厳しいな」
「そうだよ」
それから、少しだけ息を吐く。
「でも、今の話を聞いたらさ」
ひよりが机の端を指でなぞる。
「やっと、同じ目線で話してくれたのかなって思う」
その一言は、痛いくらい優しかった。
やっと。
そうだ。
僕はすごく遠回りして、ようやくここまで来た。
ひよりはたぶん、最初からずっとここにいたのだ。
普通に好きになりたいという場所に。
僕だけが、そこへ来るのをずっと怖がっていた。
「…遅くてごめん」
ぽつりとそう言うと、ひよりは少しだけ笑った。
「うん。遅いよ」
「否定してくれないんだ」
「しないよ」
その返しに、僕も少しだけ笑う。
でも次の瞬間、ひよりの表情はまた少しだけやわらかくなった。
「だって、もう同じところに来てくれたから」
その言葉に、胸の奥があたたかくなる。
同時に、次に言うべきこともはっきり見えてくる。
でも、まだ今日はそこまで言わない方がいい気がした。
今ここで告白まですると、意味が少し変わってしまう気がした。
そう思った瞬間、ひよりが立ち上がりかけて、机の角に手をついた。
その手の甲に、僕の指先がほんの少し触れる。
反射で引こうとして、やめた。
ひよりも引かなかった。
ほんの少しだけ触れたまま、二人で止まる。
強く握るわけじゃない。
でも、ただの偶然として流さないくらいには、どちらもその手の感触を意識していた。
「…凪くん」
「うん」
「今、離さないんだ」
「…うん」
正直に答える。
ひよりが少しだけ目を細めた。
照れているのか、困っているのか、うれしいのか、全部が少しずつ混ざった顔だった。
「前だったら、絶対すぐ引いてたよね」
「そうだと思う」
「何で今日は離さないの?」
その問いに、心臓が少しだけ強く鳴る。
でも、ここで逃げたくなかった。
「…離したくないから」
ひよりの指先が、わずかに動く。
それでも、離れない。
教室の中に、夕方の光が少しだけ伸びる。
机の端、椅子の影、ひよりの髪。
全部がやわらかく見えて、その中で触れている手だけが妙にはっきり熱を持っていた。
「…そっか」
ひよりが小さく言う。
それ以上は、何も言わなかった。
でも、その“そっか”の中に、たぶんすごくたくさんの意味が入っている。
僕は、もう分かっていた。
次に言うべき言葉も、次に進むべき場所も、もう全部。
好きになるのが怖かった。
でも、それでももうひよりからは目を逸らしたくなかった。
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