「比良坂しずくは、言葉にする」
帰り道は、妙に静かだった。
別に周囲の音が消えたわけじゃない。
部活帰りの声も、廊下を走る足音も、窓の外から聞こえる運動部のかけ声も、全部ちゃんとある。
でも、自分の中の何かが一つきれいに終わったあとの静けさがあった。
勝った、という感じではない。
玲那を言い負かした、とも思わない。
あの人は最後まで玲那のままだったし、あの人なりの強さを失ったわけでもない。
ただ、もう行き先が違うとはっきり分かった。
欲しいものを手に入れる。
価値の高いものを囲う。
奪われる前に確保する。
そういう愛し方の中へ、僕は行かない。
それだけだった。
でも、その“それだけ”が今までの自分には難しかったのだとも思う。
教室へ戻らず、そのまま渡り廊下の方へ歩いた。
少し風に当たりたかったし、頭の中を整理したかった。
窓の外は夕方の色に変わり始めていて、空の青が少し薄くなっている。
渡り廊下の先には人影が少なく、静かな光だけが伸びていた。
そこで、壁にもたれず、窓の桟に指先だけを置いて立っている姿が見えた。
比良坂しずくだった。
またか、と思う。
でも最近は、こういう“ちょうどいいところにいる”感じにも少し慣れてきた。
「…いると思った」
僕が言うと、しずくは振り向かずに返した。
「いたよ」
「なにそれ」
「事実確認」
相変わらずだ。
でも、その相変わらずが今はありがたい。
「玲那と話してたでしょ」
やっぱり見ていたらしい。
「見てたの?」
「少しだけ」
「盗み聞き」
「違う」
「聞こえる位置にいたのが悪い」
それを盗み聞きと言うのでは、と思ったけれど、今はそこを争う気にもなれなかった。
「終わったっぽい顔してる」
しずくがこちらを見て、短く言う。
「っぽいって」
「完全にすっきりした顔じゃない」
「でも前みたいに引きずってる感じでもない」
「だから終わったっぽい」
言い方は雑なのに、妙に正確だ。
「…終わったんだと思う」
僕はしずくの少し離れた壁に背を預ける。
「少なくとも、僕の中では」
「うん」
「玲那のことを嫌いっていうのとも、ちょっと違うんだよね」
「そうだろうね」
「強いし、きれいだし、分かりやすいし」
「この世界ではたぶん、すごく正しい側にいる人なんだと思う」
「うん」
「でも、あの人の欲しがり方の中に、僕が欲しかったものはなかった」
言葉にしてみると、かなりしっくりくる。
そうだ。
僕は別に、玲那の熱量が怖かっただけじゃない。
欲しがられること自体が嫌だったわけでもない。
その欲しがり方が、僕を“モノ”として見ていたからだ。
しずくは少しだけ目を細めた。
「ようやく、そこまで言えるようになったんだ」
「前から分かってたんじゃないの」
「分かってたのと、東條が言えるのは別」
その通りだった。
前は、もやもやと嫌だった。
苦しかった。
でも、何がどう嫌なのか、きれいには言えなかった。
でも、今は少し違う。
「東條」
しずくが、窓の外を見たまま言う。
「ここまで来て、やっと一本につながった感じする」
「何が」
「最初から今までのこと」
その言葉に、僕は少し黙った。
最初から今まで。
たしかに、ここまでの道筋はかなり長かった気がする。
最初はただモテて気持ちよかった。
誰にも嫌われず、誰も選ばず、うまくやっているつもりだった。
それが七海の涙で崩れて、断る痛みを知って、不自由さにぶつかって、保護局の考え方を知って、ようやく今、“自分の意思を持つ”ところまで来ている。
「東條ってさ」
しずくが続ける。
「最初はかなりひどかったじゃん」
「言い方」
「事実でしょ」
「まあ…否定はしないけど」
「うん。ひどかった」
「モテるの楽しいです、好かれてるの気持ちいいです、誰も選びません、でも嫌われたくないです、って顔してた」
「そこまで顔に出てた?」
「出てた」
思わず苦笑する。
でも、そのくらいだったのだろう。
今振り返ると、自分でもかなり未熟だったと思う。
「で、七海の件で初めて止まった」
「うん」
「そのあと、断ることを覚えた」
「でも断るだけじゃ、今度はこの世界では生きづらいと知った」
「だから次は、一線を引きながら受けることを覚えた」
しずくの言葉は、いつもながら変に飾りがない。
でもそのぶん、本音がよく見える。
「恋愛でぐちゃぐちゃになってるように見えて」
「実際はずっと、“人としてどう扱われるか”の話をしてたんだよ」
その一言で、胸の奥の何かが静かに落ちる。
人としてどう扱われるか。
たしかに、そうだった。
誰かに好かれるとか、誰かを断るとか、表面だけ見れば全部恋愛の話だ。
でも、その奥でずっと引っかかっていたのは別のものだった。
男だから。
希少だから。
資源だから。
守られるべきだから。
囲われる価値があるから。
そうやって、“人として”より先に“役割として”見られることへの息苦しさ。
「…僕、別に世界を変えたいとか思ってたわけじゃないんだよね」
ぽつりと言う。
「うん」
「革命とか、男の権利がどうとか、そういう大きなことじゃなくて」
「ただ、ちゃんと一人の人間として見てほしかっただけで」
「そう」
しずくは短く頷いた。
「東條が欲しかったのは、特別扱いじゃなくて普通の恋だったってこと」
その言葉は、今まで聞いたどの整理よりもしっくりきた。
特別扱いじゃなくて普通の恋。
この世界でそれを望むこと自体が、たぶんかなり面倒だ。
でも、僕が最初からずっと欲しかったのはそこなのだと思う。
特別に守られたいわけじゃない。
価値が高いと思われたいわけでもない。
囲われたいわけでも、奪い合われたいわけでもない。
ただ、普通に誰かを好きになって、普通に好きになられたかった。
「…ひよりさんって、たぶん最初からそこにいたんだよね」
自然にそう口に出る。
しずくが、ほんの少しだけ口元を動かした。
「いたね」
「僕だけが、ずっと遠回りしてた感じ」
「かなり遠回りしてた」
「ひどいな」
「でも必要な遠回りだったんじゃない?」
その言い方は、しずくらしからぬやさしさを含んでいた。
「最初から東條がひよりのとこにまっすぐ行ってても、たぶんちゃんと見えてなかったよ」
「…そうかも」
「好かれてる自分に酔ってたからね」
「痛いところばっか言うなあ」
「役目なので」
役目。
たしかに、この人はずっとそういう役目だった。
きついことを言う。
逃げ道を塞ぐ。
でも、その先でようやく見えるものをちゃんと見せる。
たぶん僕は、この人の言葉に何度も助けられてきたのだと思う。
玲那との決着もついた。
澪からは送り出された。
ひとえとも一歩進んだ。
そして今、しずくがここまでを言葉にしてくれた。
残っているのは、たぶんいちばん怖かったものだ。
好きになること。
たった一人を見ること。
好かれていたい自分じゃなくて、好きでいたい自分を選ぶこと。
「…怖いんだけど」
思わず本音が漏れる。
しずくは少しだけ目を細めた。
「知ってる」
「それでも、たぶんもう逃げたくない」
「それも知ってる」
その返しが、なぜだか少しうれしい。
「比良坂さんって」
「何」
「ほんと、最初から最後まで見てるね」
しずくはすぐには返さなかった。
少しだけ窓の外を見る。
「見てたよ」
短いけれど、それで十分だった。
「まあ、途中かなりひどかったけど」
「最後にそれ入れる?」
「事実だから」
思わず少し笑う。
しずくも、ほんの少しだけ口元を緩めた。
風が、渡り廊下を抜けていく。
夕方の光が白く伸びて、窓の端で少しだけ揺れた。
僕はその光を見ながら、ようやく少しだけ分かった気がする。
ここまでの物語は、恋の話だった。
でもそれだけじゃなかった。
“特別な男子”として扱われる世界で、“普通の一人の人間”として立ちたかった話でもあった。
だから、ここまで苦しかった。
だから、ここまで遠回りした。
そして、その先でようやく、ひよりのところまで来た。
「…ありがとう」
小さく言うと、しずくは一瞬だけこっちを見た。
「何が」
「言葉にしてくれて」
しずくは少しだけ考えるみたいに目を逸らしてから、短く返した。
「どういたしまして」
珍しい返しだった。
「今の、けっこうレアじゃない?」
「うるさい」
でもその“うるさい”も、前より少しやさしい気がする。
しずくは本を抱え直すと、そのまま歩き出した。
途中で一度だけ立ち止まって、振り向かずに言う。
「ちゃんと好きになりなよ」
「…うん」
「そこまで来たんだから」
それだけ言って、今度こそ行ってしまった。
一人残された渡り廊下で、僕はしばらく動かなかった。
ちゃんと好きになる。
その言葉は、ここまでのどんな拒絶よりも重くて、そして今の本当の気持ちだった。
ひよりの顔を思い出す。
笑った顔。
照れた顔。
少し厳しい目。
まっすぐな声。
胸の奥が、静かに熱くなる。
もう、この気持ちをごまかしたくなかった。
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