「神代玲那と、所有欲の終わり」
水族館デートのあと、しばらくのあいだ世界の景色が少しだけ優しく見えた。
教室のざわめきも、保護局の白い廊下も、今までとまったく同じはずなのに、胸の奥にあるものだけが少し違う。
ひよりといた時間がまだ残っているのだと思う。
待ち合わせのときの照れた顔。
クラゲの水槽の前で、小さく「うれしい」と言った声。
人混みではぐれそうになって、とっさに触れた手首の感触。
思い出すたびに、妙に胸があたたかくなる。
前なら、こういう感情も“楽しかった”で雑に片づけていたかもしれない。
でも今は違う。
それが誰相手でも同じ楽しさじゃないことくらい、もう分かっている。
(…ちゃんと、好きなんだろうな)
教室の窓際で、外を見ながらそんなことを考える。
その自覚は、まだ少し怖い。
でも、怖いからといって戻りたいわけじゃない。
むしろ今は、その怖さごと抱えたまま前へ行きたい気持ちの方が強かった。
「ずいぶん、穏やかな顔するようになったのね」
声が落ちてきたのは、その日の放課後だった。
すぐに分かる。
この声は、聞き間違えようがない。
顔を上げると、教室の後ろのドアのそばに神代玲那が立っていた。
相変わらず、視界に入った瞬間に空気の重さが少し変わる。
きれいだ。
強い。
隙がない。
そして、そのすべてが少しだけ危険だ。
「…何か用ですか」
できるだけ平たく言う。
玲那は少しだけ口元を上げた。
「ええ」
「断ります」
「まだ何も言ってないけど」
「どうせろくな用じゃないでしょ」
そこまで言うと、玲那はほんの少しだけ目を細めた。
怒ったわけじゃない。
むしろ、その返し方自体を観察しているような顔だった。
「前よりちゃんと言葉にするようになったわね」
「ありがたくない評価です」
「でも事実よ」
玲那は教室の中を軽く見回す。
放課後で、残っている生徒は少ない。
でもゼロではない。
何人かはこっちへ気づいて、すぐに見ないふりをしている。
玲那はそういう空気を気にしない。
むしろ、少し利用しているようなところがある。
「少し歩ける?」
「歩きません」
「即答ね」
「あなたと二人きりになる理由がないので」
玲那は、ほんのわずかに笑った。
「じゃあここでいいわ」
それもそれで困る。
でも、玲那の前では“困るから別の場所へ”もたぶん逆効果だ。
「手短にしてください」
「そうする」
そう言いながらも、玲那は急ぐ感じを見せなかった。
ゆっくりと僕の机の近くまで来て、距離を取りすぎない位置で止まる。
「最近、水無月さんとよく一緒にいるみたいね」
その一言で、背中に薄い緊張が走る。
やっぱり見ている。
見ていないわけがないとは思っていたけれど、こうして本人の口から出ると嫌な感じがする。
「…だから何ですか」
「別に」
玲那は肩をすくめる。
「確認よ」
「何のですか?」
「あなたが、ようやく一人を見るようになったのかどうか、よ」
その言い方は、不思議と軽蔑ではなかった。
少しの興味と、少しの苛立ちと、あとほんの少しだけ試すような響きがある。
「前のあなたなら、誰か一人にそこまで意識を寄せることはなかった」
「否定はしません」
「今は違うのね」
玲那の目が、まっすぐこっちを見る。
逃げ道の少ない視線だった。
「…違うかもしれません」
曖昧に返したつもりだった。
でも、自分でも分かるくらい昔の曖昧さとは違う。
認めたくないから逃がした、ではなく、まだ口の形に慣れていないから少しだけ保留しただけの曖昧さだ。
玲那には、その違いもたぶん伝わっている。
「そう」
短く言って、玲那は少しだけ目を伏せた。
「だったら、なおさら確認しておきたかったの」
「何を」
「それでも、まだ私を選ぶ余地があるかどうかよ」
教室の空気が、ほんの少しだけ止まった気がした。
周囲の生徒たちは聞こえないふりをしている。
でもたぶん、完全には無理だろう。
玲那はそういうぎりぎりの場所で平然と話せる人だ。
「ないです」
今度は、迷わず言えた。
玲那は驚かなかった。
ただ、目だけが少し細くなる。
「ずいぶん早いのね」
「早くないと思います」
「そう」
少し間が空く。
「水無月さんだから?」
「…それもあります」
「それも?」
「あなたには関係ないことです」
そこまで言うと、玲那はほんの少しだけ笑った。
でもその笑みは、以前よりずっと弱い。
「あるわよ」
「ありません」
「ある」
「ないです」
まるで子どもみたいな応酬なのに、雰囲気は全然軽くない。
玲那は一歩だけ近づいた。
手が届くほどではない。
でも、前よりその距離に対する僕の警戒もはっきりしている。
「東條」
名前を呼ばれる。
「私はまだ、あなたを欲しいと思ってる」
その言葉は今まで何度も聞いた。
でも今日は、響きが少し違った。
いつものような余裕だけじゃない。
どこか、最後の確認をしているような響きがある。
「あなたは希少で」
「扱いづらくて」
「簡単には従わなくて」
「今のこの世界で、一番“価値がある”男よ」
やっぱりそこへ戻るのか、と思う。
意味。
持つ。
価値。
その単語の並びを聞いているだけで、胸の奥に冷たいものが広がる。
「そういうところです」
僕は静かに言う。
「何が?」
「あなたが、僕を僕として見てないところ」
玲那の表情が、ほんの少しだけ止まる。
「見てるわよ」
「見てません」
「見てる」
「見てたら、“価値がある”なんて言い方しない」
言葉にすると、自分でも驚くほどはっきりしていた。
前なら、ここまで断定できなかったかもしれない。
でも今は違う。
玲那が欲しがっているものは、僕自身じゃない。
僕を手に入れたという形。
誰にも簡単には触れさせないという所有権。
“価値のある男を囲っている自分”という立ち位置。
そこには確かに執着がある。
熱もある。
でも、僕が欲しかった普通の恋とは違う。
「あなたが欲しいのは、僕じゃなくて」
喉の奥で一度だけ言葉を整える。
「僕を手に入れたっていう事実の方です」
玲那は黙った。
教室の空気も静かだった。
誰も口を挟まない。
でも、たぶんみんな何かを感じ取っている。
「そう思うの?」
ようやく玲那が言う。
「思います」
「ひどいわね」
「でも、合ってますよね」
玲那は視線を逸らさない。
でも、その目の奥にほんの少しだけ揺れが見えた。
「仮にそうだとして」
低い声。
「それの何が悪いの?」
その問いは、玲那だけのものじゃない気がした。
この世界そのものが、同じ問いを持っているのかもしれない。
男は希少だ。
資源だ。
囲う価値がある。
だったら、欲しいものを手に入れようとして何が悪いのか。
その理屈は、この世界では完全に異常とは言い切れない。
だからこそ、ちゃんと否定しなければいけない。
「全部悪いです」
僕は言う。
「僕は物じゃない」
「資源として価値があるかどうかで、誰かのものになるつもりはありません」
「きれいごと」
「そうかもしれません」
「この世界で、そんなふうに生きるのは面倒よ」
「知ってます」
「苦しいわよ」
「それも知ってます」
そこで、少しだけ息を吸う。
「でも」
玲那の目を見る。
「それでも、あなたの愛し方は受け入れられない」
その一言が、教室の空気をさらに静かにした。
ただ“嫌いです”ではない。
ただ“迷惑です”でもない。
玲那の考え方そのもの。
欲しいから手に入れる。
囲えるなら囲う。
価値が高いから独占する。
そういう愛し方そのものを、僕は受け入れない。
それが今の僕にとって、一番大きな拒絶の理由だった。
玲那は数秒、何も言わなかった。
表情は崩れない。
でも、きれいに整っていたもののどこかが、ほんの少しだけ崩れた気がした。
「…水無月さんは違うの?」
その質問は、思っていたよりシンプルなものだった。
「違います」
「どう違うの」
そこに皮肉はなかった。
むしろ、少しだけ本気で知ろうとしているようにも聞こえる。
だから僕も、逃げない方がいい気がした。
「ひよりさんは」
口にした瞬間、胸の奥が少しだけあたたかくなる。
「僕を“持ちたい”とは言わないです」
「“勝ちたい”とも言わない」
「ただ、ちゃんと好きになってほしいって思ってる」
玲那の目が、静かに揺れる。
「それは、弱いわ」
「そうかもしれない」
「奪えない」
「うん」
「所有もできない」
「うん」
「不安定すぎる」
その言葉に、少しだけ笑いそうになる。
「だからこそ、たぶんそれが恋なんだと思います」
自分で言って、自分でも少し驚く。
でも、本音だった。
確保できない。
奪えない。
相手の意思を無視できない。
だから不安定で、だから怖い。
でも、その不安定さを受け入れた先にしか、普通の恋はたぶんない。
「…そう」
玲那はゆっくりと言った。
怒ってもいない。
泣いてもいない。
でも、初めてこの人が、はっきり負けたのかもしれないと思った。
欲しいものを欲しいと言い切って、手を伸ばせば届く側にいた人が。
今回は届かない。
届いても意味がない。
そう認めるしかない場所まで来てしまった。
「東條」
玲那が最後に僕の名前を呼ぶ。
「私は、あなたの考え方は嫌いじゃない」
「…光栄です」
「でも、理解はできないわ」
「別にいいです」
そう返すと、玲那はほんの少しだけ笑った。
「そこまで言うのね」
「今日は、ちゃんと言う日なので」
その言葉に、玲那は少しだけ目を細める。
「そう」
「じゃあ、最後に一つだけ」
「何ですか」
「その“普通の恋”とやらが、壊れないといいわね」
呪いみたいにも聞こえるし、少しだけ祈りにも聞こえる、不思議な一言だった。
「壊したくないです」
僕は即答する。
「だから、ちゃんと好きになります」
玲那は、それを聞いてわずかに視線を落とした。
それから、何も言わずに踵を返す。
去っていく背中は、最後まできれいだった。
強くて、まっすぐで、少しだけさびしい。
僕はその背中を見送りながら思う。
神代玲那は、たぶんこの世界の正しさに一番近い女だ。
欲しいものを手に入れる。
価値あるものを囲う。
奪われる前に所有する。
この世界では、それは決して完全な間違いじゃない。
だからこそ、その人を拒絶することは、この世界の歪みそのものに線を引くことができた気がした。
「…終わったの?」
後ろから小さな声がして振り返ると、ひよりが教室の入口に立っていた。
いつからいたのか分からない。
でも、最後の方はたぶん聞いていた。
「うん」
僕がそう返すと、ひよりはまっすぐこちらを見る。
「大丈夫?」
その聞き方が、ありがたかった。
勝ったとか、負けたとか、そういう話じゃない。
大丈夫かどうか。
今の僕に必要なのはそっちだった。
「…大丈夫」
「ほんとに?」
「うん」
少しだけ息を吐く。
「たぶん、やっとちゃんと言えた気がする」
ひよりは数秒黙ってから、小さく頷いた。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、よかった」
その一言で、胸の奥に残っていた緊張が少しだけほどける。
玲那との決着は、気持ちのいい勝利ではなかった。
苦くて、静かで、少しさびしい。
でも、それでよかったのだと思う。
欲しいから手に入れる。
その論理を、僕はもう選ばない。
そして、選ばないと決めた先に、ひよりがいる。
そのことが、今は何よりはっきりしていた。
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