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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第5章

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44/50

「神代玲那と、所有欲の終わり」

 


 水族館デートのあと、しばらくのあいだ世界の景色が少しだけ優しく見えた。


 教室のざわめきも、保護局の白い廊下も、今までとまったく同じはずなのに、胸の奥にあるものだけが少し違う。

 ひよりといた時間がまだ残っているのだと思う。


 待ち合わせのときの照れた顔。

 クラゲの水槽の前で、小さく「うれしい」と言った声。

 人混みではぐれそうになって、とっさに触れた手首の感触。


 思い出すたびに、妙に胸があたたかくなる。


 前なら、こういう感情も“楽しかった”で雑に片づけていたかもしれない。

 でも今は違う。

 それが誰相手でも同じ楽しさじゃないことくらい、もう分かっている。


(…ちゃんと、好きなんだろうな)


 教室の窓際で、外を見ながらそんなことを考える。


 その自覚は、まだ少し怖い。

 でも、怖いからといって戻りたいわけじゃない。

 むしろ今は、その怖さごと抱えたまま前へ行きたい気持ちの方が強かった。


「ずいぶん、穏やかな顔するようになったのね」


 声が落ちてきたのは、その日の放課後だった。


 すぐに分かる。

 この声は、聞き間違えようがない。


 顔を上げると、教室の後ろのドアのそばに神代玲那が立っていた。


 相変わらず、視界に入った瞬間に空気の重さが少し変わる。

 きれいだ。

 強い。

 隙がない。

 そして、そのすべてが少しだけ危険だ。


「…何か用ですか」


 できるだけ平たく言う。


 玲那は少しだけ口元を上げた。


「ええ」


「断ります」


「まだ何も言ってないけど」


「どうせろくな用じゃないでしょ」


 そこまで言うと、玲那はほんの少しだけ目を細めた。

 怒ったわけじゃない。

 むしろ、その返し方自体を観察しているような顔だった。


「前よりちゃんと言葉にするようになったわね」


「ありがたくない評価です」


「でも事実よ」


 玲那は教室の中を軽く見回す。


 放課後で、残っている生徒は少ない。

 でもゼロではない。

 何人かはこっちへ気づいて、すぐに見ないふりをしている。


 玲那はそういう空気を気にしない。

 むしろ、少し利用しているようなところがある。


「少し歩ける?」


「歩きません」


「即答ね」


「あなたと二人きりになる理由がないので」


 玲那は、ほんのわずかに笑った。


「じゃあここでいいわ」


 それもそれで困る。

 でも、玲那の前では“困るから別の場所へ”もたぶん逆効果だ。


「手短にしてください」


「そうする」


 そう言いながらも、玲那は急ぐ感じを見せなかった。

 ゆっくりと僕の机の近くまで来て、距離を取りすぎない位置で止まる。


「最近、水無月さんとよく一緒にいるみたいね」


 その一言で、背中に薄い緊張が走る。


 やっぱり見ている。

 見ていないわけがないとは思っていたけれど、こうして本人の口から出ると嫌な感じがする。


「…だから何ですか」


「別に」


 玲那は肩をすくめる。


「確認よ」


「何のですか?」


「あなたが、ようやく一人を見るようになったのかどうか、よ」


 その言い方は、不思議と軽蔑ではなかった。

 少しの興味と、少しの苛立ちと、あとほんの少しだけ試すような響きがある。


「前のあなたなら、誰か一人にそこまで意識を寄せることはなかった」


「否定はしません」


「今は違うのね」


 玲那の目が、まっすぐこっちを見る。


 逃げ道の少ない視線だった。


「…違うかもしれません」


 曖昧に返したつもりだった。

 でも、自分でも分かるくらい昔の曖昧さとは違う。

 認めたくないから逃がした、ではなく、まだ口の形に慣れていないから少しだけ保留しただけの曖昧さだ。


 玲那には、その違いもたぶん伝わっている。


「そう」


 短く言って、玲那は少しだけ目を伏せた。


「だったら、なおさら確認しておきたかったの」


「何を」


「それでも、まだ私を選ぶ余地があるかどうかよ」


 教室の空気が、ほんの少しだけ止まった気がした。


 周囲の生徒たちは聞こえないふりをしている。

 でもたぶん、完全には無理だろう。

 玲那はそういうぎりぎりの場所で平然と話せる人だ。


「ないです」


 今度は、迷わず言えた。


 玲那は驚かなかった。

 ただ、目だけが少し細くなる。


「ずいぶん早いのね」


「早くないと思います」


「そう」


 少し間が空く。


「水無月さんだから?」


「…それもあります」


「それも?」


「あなたには関係ないことです」


 そこまで言うと、玲那はほんの少しだけ笑った。

 でもその笑みは、以前よりずっと弱い。


「あるわよ」


「ありません」


「ある」


「ないです」


 まるで子どもみたいな応酬なのに、雰囲気は全然軽くない。


 玲那は一歩だけ近づいた。

 手が届くほどではない。

 でも、前よりその距離に対する僕の警戒もはっきりしている。


「東條」


 名前を呼ばれる。


「私はまだ、あなたを欲しいと思ってる」


 その言葉は今まで何度も聞いた。

 でも今日は、響きが少し違った。


 いつものような余裕だけじゃない。

 どこか、最後の確認をしているような響きがある。


「あなたは希少で」

「扱いづらくて」

「簡単には従わなくて」

「今のこの世界で、一番“価値がある”男よ」


 やっぱりそこへ戻るのか、と思う。


 意味。

 持つ。

 価値。


 その単語の並びを聞いているだけで、胸の奥に冷たいものが広がる。


「そういうところです」


 僕は静かに言う。


「何が?」


「あなたが、僕を僕として見てないところ」


 玲那の表情が、ほんの少しだけ止まる。


「見てるわよ」


「見てません」


「見てる」


「見てたら、“価値がある”なんて言い方しない」


 言葉にすると、自分でも驚くほどはっきりしていた。


 前なら、ここまで断定できなかったかもしれない。

 でも今は違う。


 玲那が欲しがっているものは、僕自身じゃない。

 僕を手に入れたという形。

 誰にも簡単には触れさせないという所有権。

 “価値のある男を囲っている自分”という立ち位置。


 そこには確かに執着がある。

 熱もある。

 でも、僕が欲しかった普通の恋とは違う。


「あなたが欲しいのは、僕じゃなくて」


 喉の奥で一度だけ言葉を整える。


「僕を手に入れたっていう事実の方です」


 玲那は黙った。


 教室の空気も静かだった。

 誰も口を挟まない。

 でも、たぶんみんな何かを感じ取っている。


「そう思うの?」


 ようやく玲那が言う。


「思います」


「ひどいわね」


「でも、合ってますよね」


 玲那は視線を逸らさない。

 でも、その目の奥にほんの少しだけ揺れが見えた。


「仮にそうだとして」


 低い声。


「それの何が悪いの?」


 その問いは、玲那だけのものじゃない気がした。

 この世界そのものが、同じ問いを持っているのかもしれない。


 男は希少だ。

 資源だ。

 囲う価値がある。

 だったら、欲しいものを手に入れようとして何が悪いのか。


 その理屈は、この世界では完全に異常とは言い切れない。

 だからこそ、ちゃんと否定しなければいけない。


「全部悪いです」


 僕は言う。


「僕は物じゃない」

「資源として価値があるかどうかで、誰かのものになるつもりはありません」


「きれいごと」


「そうかもしれません」


「この世界で、そんなふうに生きるのは面倒よ」


「知ってます」


「苦しいわよ」


「それも知ってます」


 そこで、少しだけ息を吸う。


「でも」


 玲那の目を見る。


「それでも、あなたの愛し方は受け入れられない」


 その一言が、教室の空気をさらに静かにした。


 ただ“嫌いです”ではない。

 ただ“迷惑です”でもない。


 玲那の考え方そのもの。

 欲しいから手に入れる。

 囲えるなら囲う。

 価値が高いから独占する。

 そういう愛し方そのものを、僕は受け入れない。


 それが今の僕にとって、一番大きな拒絶の理由だった。


 玲那は数秒、何も言わなかった。


 表情は崩れない。

 でも、きれいに整っていたもののどこかが、ほんの少しだけ崩れた気がした。


「…水無月さんは違うの?」


 その質問は、思っていたよりシンプルなものだった。


「違います」


「どう違うの」


 そこに皮肉はなかった。

 むしろ、少しだけ本気で知ろうとしているようにも聞こえる。


 だから僕も、逃げない方がいい気がした。


「ひよりさんは」


 口にした瞬間、胸の奥が少しだけあたたかくなる。


「僕を“持ちたい”とは言わないです」

「“勝ちたい”とも言わない」

「ただ、ちゃんと好きになってほしいって思ってる」


 玲那の目が、静かに揺れる。


「それは、弱いわ」


「そうかもしれない」


「奪えない」


「うん」


「所有もできない」


「うん」


「不安定すぎる」


 その言葉に、少しだけ笑いそうになる。


「だからこそ、たぶんそれが恋なんだと思います」


 自分で言って、自分でも少し驚く。

 でも、本音だった。


 確保できない。

 奪えない。

 相手の意思を無視できない。

 だから不安定で、だから怖い。


 でも、その不安定さを受け入れた先にしか、普通の恋はたぶんない。


「…そう」


 玲那はゆっくりと言った。


 怒ってもいない。

 泣いてもいない。

 でも、初めてこの人が、はっきり負けたのかもしれないと思った。


 欲しいものを欲しいと言い切って、手を伸ばせば届く側にいた人が。

 今回は届かない。

 届いても意味がない。

 そう認めるしかない場所まで来てしまった。


「東條」


 玲那が最後に僕の名前を呼ぶ。


「私は、あなたの考え方は嫌いじゃない」


「…光栄です」


「でも、理解はできないわ」


「別にいいです」


 そう返すと、玲那はほんの少しだけ笑った。


「そこまで言うのね」


「今日は、ちゃんと言う日なので」


 その言葉に、玲那は少しだけ目を細める。


「そう」

「じゃあ、最後に一つだけ」


「何ですか」


「その“普通の恋”とやらが、壊れないといいわね」


 呪いみたいにも聞こえるし、少しだけ祈りにも聞こえる、不思議な一言だった。


「壊したくないです」


 僕は即答する。


「だから、ちゃんと好きになります」


 玲那は、それを聞いてわずかに視線を落とした。

 それから、何も言わずに踵を返す。


 去っていく背中は、最後まできれいだった。

 強くて、まっすぐで、少しだけさびしい。


 僕はその背中を見送りながら思う。


 神代玲那は、たぶんこの世界の正しさに一番近い女だ。

 欲しいものを手に入れる。

 価値あるものを囲う。

 奪われる前に所有する。


 この世界では、それは決して完全な間違いじゃない。


 だからこそ、その人を拒絶することは、この世界の歪みそのものに線を引くことができた気がした。


「…終わったの?」


 後ろから小さな声がして振り返ると、ひよりが教室の入口に立っていた。


 いつからいたのか分からない。

 でも、最後の方はたぶん聞いていた。


「うん」


 僕がそう返すと、ひよりはまっすぐこちらを見る。


「大丈夫?」


 その聞き方が、ありがたかった。


 勝ったとか、負けたとか、そういう話じゃない。

 大丈夫かどうか。

 今の僕に必要なのはそっちだった。


「…大丈夫」


「ほんとに?」


「うん」


 少しだけ息を吐く。


「たぶん、やっとちゃんと言えた気がする」


 ひよりは数秒黙ってから、小さく頷いた。


「そっか」


「うん」


「じゃあ、よかった」


 その一言で、胸の奥に残っていた緊張が少しだけほどける。


 玲那との決着は、気持ちのいい勝利ではなかった。

 苦くて、静かで、少しさびしい。

 でも、それでよかったのだと思う。


 欲しいから手に入れる。

 その論理を、僕はもう選ばない。


 そして、選ばないと決めた先に、ひよりがいる。


 そのことが、今は何よりはっきりしていた。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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