「初めてのデート」
日曜日の朝、待ち合わせの三十分前に家を出た。
自分でも早すぎると思う。
でも、遅れるよりずっとましだった。
駅前の時計を見て、まだかなり余裕があることを確認する。
それなのに胸のあたりは少し落ち着かない。
手持ち無沙汰でスマホを見て、すぐにしまう。
また時計を見る。
さっきからそれを何回も繰り返していた。
(…何やってるんだろう、僕)
小さく息を吐く。
ただ出かけるだけだ。
そう思おうとしても、今日は少し違う。
ひよりと二人で、休日に会う。
学園でも、帰り道でもなく。
ちゃんと約束して。
ちゃんと時間を決めて。
ちゃんと“会いに来る”。
それだけで、今までとは意味が違っていた。
待ち合わせ場所は駅前の小さな広場だった。
日曜の午前だから人は多い。
家族連れ、友達同士、カップル。
その中に一人で立っていると、自分も今日はそっち側へ少し足を踏み入れるのかもしれない、と思ってしまう。
まだ早い。
でも、もう来てしまっていた。
少し向こうからひよりが歩いてくるのが見えたのは、待ち合わせの十分前だった。
最初に分かったのは、服の色だった。
白に近い薄い色のトップスと、やわらかい色のスカート。
学園の制服とは全然違うのに、見た瞬間にひよりだと分かる。
そのあとで顔が見えて、最後に、今日のひよりがいつもより少しだけ大人っぽく見えることに気づく。
心臓が変に強く鳴った。
ひよりもこっちに気づいたらしく、歩く速さが少しだけゆるむ。
それから、近づいてきて言う。
「…早くない?」
「ひよりさんも」
「私は十分前」
「僕は三十分前」
「馬鹿じゃん」
即答だった。
その返しに、少しだけ緊張がほどける。
「自覚はあるかも」
「ま、いいや」
ひよりは少しだけ笑う。
その笑い方に、いつものひよりがちゃんといる。
それだけでかなり助かった。
でも、それでもやっぱり今日は少し違う。
制服じゃない。
休日だ。
周りの空気も違う。
そして、僕がひよりを見たときに、一瞬だけ言葉に詰まったことも違う。
「…何」
ひよりが首を傾げる。
「いや」
「今、何か言いかけたよね」
「言いかけてない」
「嘘」
見抜かれている。
少しだけ視線をずらしてから、観念した。
「…似合ってる」
一言だけ言う。
ひよりは一瞬だけ止まって、それから明らかに分かるくらい照れた。
「今…言うの?」
「今しかないかなって」
「タイミング雑すぎない?」
「でも本当だから」
そこまで言うと、ひよりは小さく息を吐いて、でも口元は少しだけ緩んでいた。
「…ありがと」
その声がいつもより少し小さくて、僕の方まで妙に落ち着かなくなる。
(かわいいな)
不意にそう思って、すぐにその言葉を頭の中へ押し戻した。
でも、押し戻しても消えなかった。
前なら、女の子のこういう反応も“好かれてる感じ”として雑に受け取っていたのかもしれない。
でも今は違う。
ひよりが照れていること自体が、ただうれしかった。
◇
今日の行き先は水族館だった。
どっちが先に言い出したのか、もう曖昧だ。
たしか前に、ひよりが「クラゲの展示、ちょっと好きかも」と何気なく言っていた。
それを僕が覚えていて、「じゃあ今度行く?」と返した。
たぶん、そんな感じだったと思う。
電車の中では最初少しだけぎこちなかった。
休日に二人で並んで座る、という状況そのものにまだ慣れていないからだ。
「…何か、変な感じがするね」
ひよりが窓の外を見ながら言う。
「うん」
「学校で会うのとは全然違う」
「制服じゃないからかな」
「それもある」
「あと、逃げ場がない感じ」
「逃げ場?」
「ほら、学校ならチャイム鳴るし、誰か来るし、授業始まるし」
「でも今日はずっと二人じゃん」
たしかにそうだった。
それを“逃げ場がない”と表現するあたりが、ひよりらしい。
「嫌?」
少し気になって聞くと、ひよりはすぐ首を振った。
「嫌じゃないよ」
「ちょっと、照れるだけ」
その答えに、また少しだけ胸の奥があたたかくなる。
「…僕も」
「何が?」
「ちょっと照れてる」
「知ってる」
「分かるの?」
「分かるよ。今日ちょっと静かだし」
図星だった。
いつもより考えて話している。
変なことを言わないように、変に格好つけないように、でもせっかくの時間を壊したくもなくて、少し慎重になっている。
「でも」
ひよりが続ける。
「そのくらいの方が今日っぽいかも」
「今日っぽいって何」
「ちゃんとデートっぽいってこと」
その単語に、僕の思考が一瞬だけ止まる。
デート。
もちろん、今日がそういう時間だとは分かっていた。
でも、ひよりがその言葉をさらっと出すと、一気に現実感がでてくる。
「…言うね」
「だってそうでしょ」
「そうだけど」
「じゃあ…いいじゃん」
ひよりは照れを隠すみたいに前を向いたまま言う。
でも耳が少し赤い。
僕はそれを横目で見て、変に意識しないようにするのにかなり苦労した。
◇
水族館の中は少し暗くて、青い光がゆっくり揺れていた。
休日の人出はそれなりに多い。
でも騒がしいというほどではなく、ガラスの向こうを泳ぐ魚の光が、会話の温度を自然に少し下げてくれる。
それがありがたかった。
ずっと真正面から見つめ合う必要がない。
同じものを見ながら話せる。
だから、余計な力が入らなくて済む気がした。
「っわ!!」
ひよりが小さく声を上げる。
大きな水槽の前。
銀色の魚の群れが、一斉に向きを変えて光を散らした。
「きれい」
「うん」
僕もつられて立ち止まる。
ガラス越しの青い光が、ひよりの横顔を少しだけ違って見せる。
頬も、目も、笑う口元も、普段の教室では見ない色に映る。
「凪くん」
「ん?」
「…魚みてる?」
不意にそう言われて、心臓が妙に跳ねた。
「…魚も見てる」
「“も”って何」
「いや」
「今、絶対魚以外見てたでしょ!!」
ばれていた。
言い逃れしようかと思ったけれど、今日それをするとたぶんすごく格好悪い。
「…ひよりさんも、少し」
素直に言うと、ひよりは数秒黙った。
それから、すごくわずかに視線を外す。
「そういうの、さらっと言うのずるい」
「さらっとは言ってない」
「じゃあ…何?」
「かなり勇気出した」
そこまで言うと、ひよりが小さく笑う。
「それなら…まあ、許してあげましょう」
その“許す”が妙にかわいくて困る。
僕は軽く息を吐いて、水槽に視線を戻した。
でも、頭の中ではもう別のことを考え始めている。
ひよりといると楽しい。
それは前から少しずつ感じていた。
でも今日は、楽しいだけじゃない。
見ていたくなる。
反応を見たい。
照れた顔がうれしい。
そういう小さい感情が、一つずつはっきりしていく。
◇
クラゲの展示コーナーで、ひよりの足が少しだけ止まった。
照明はさらに落ちていて、青白い光の中をクラゲがゆっくり漂っている。
静かで、少し幻想的で、時間がゆるくなるみたいな空間だった。
「…ここ、好きかも」
ひよりが小さく言う。
「前に言ってたよね」
「え」
その反応で、僕は口に出してから気づく。
覚えていたことを、わりと自然にばらしてしまった。
「覚えてたの?」
「まあ…」
「へえ」
ひよりがちょっとだけ意地悪そうに見る。
「そんなの覚えてるんだ~」
「別に、そんなのってほどでも」
「でも私、自分で言ったの忘れてたよ」
「僕は覚えてた」
そこまで言うと、今度はひよりの方が少し黙った。
ガラス越しの青い光の中で、横顔がほんの少しだけやわらかくなる。
「…うれしい」
小さくそう言った声が、思っていたよりずっと近くに響いた。
その一言だけで、胸の奥が静かに満たされる感じがする。
前なら、“うれしいって言われた”“好かれてるな”で終わっていたかもしれない。
でも今は違う。
ひよりがうれしいこと自体が、僕にとってうれしい。
感情が、ちゃんと相手の方へ向いている。
それが少しこわくて、でもかなり本当だった。
「…僕も」
気づけばそう言っていた。
「何が?」
「ひよりさんがうれしそうだと、うれしい」
言ってから、さすがに少し言いすぎたかと思う。
でも、取り消したくはなかった。
ひよりはその場でほんの少しだけ目を丸くして、それからクラゲの方を見るふりをした。
「今日、ちょっと変な感じ」
「ごめん」
「謝るほどじゃない」
少し間があってから、ひよりが続ける。
「ただ、心臓に悪いってだけ」
その言い方に、僕は思わず少し笑ってしまう。
笑いながら、でも同時に思う。
ああ、やっぱり僕は、ひよりのことが特別なんだ。
◇
館内のカフェで休憩を取った。
ひよりはメニューを見ながら迷っていて、その横顔が少しだけ真剣すぎておかしい。
「そんな悩む?」
「悩むでしょ」
「甘いのにするか、しょっぱいのにするかで一日の気分が変わるし」
「大げさだな」
「大げさじゃない」
僕は苦笑しながら、自分の分を決めたあとひよりのメニューを見た。
「この前、キャラメル系好きって言ってなかった?」
「…言ったっけ」
「言った」
「また覚えてる」
「覚えてるよ」
ひよりが少しだけ視線を上げる。
「凪くん、今日ずっとそういうの多いね」
「そういうのって」
「私のこと、思ってたよりちゃんと見てるって感じ」
その言葉に、今度は僕の方が少しだけ言葉に詰まる。
たしかにそうだ。
でも、それを相手の口から言われると、一気に自覚が濃くなる。
「…見てるんだと思う」
小さくそう返す。
ひよりは数秒黙ってから、ふっと笑った。
「そっか」
「嫌?」
「嫌じゃない」
すぐに返ってきたその答えが、やけに嬉しかった。
注文を済ませて席に座る。
運ばれてきたドリンクは、ひよりが結局キャラメル系の甘いものを選んでいて、僕は少しだけ満足してしまう。
「な~に、その顔~」
「いや、ちゃんとキャラメルにしたんだなって」
「だってたぶん、今日はそれ選んだ方が正解っぽかったし」
「正解ってあるの?」
「今はあったの!!」
そう言ってひよりがストローをくわえる。
その仕草まで妙に目に入る。
まずいな、と思う。
でも、目が行ってしまうものは仕方ない。
ひよりはひと口飲んで、少しだけ満足そうに息をついた。
「うん。正解だった」
「よかった」
「凪くん、何でそんなにうれしそうなの」
「…分かんない」
本当は少し分かっている。
ひよりがうれしそうだからだ。
その小さな満足を、僕が一緒に喜んでいる。
たったそれだけのことで幸せな気持ちになるのは、たぶんもうかなり深いところまでひよりがいる証拠だった。
◇
帰り道、人の流れが少し多かった。
駅へ向かう途中の歩道で、前を歩くグループが急に止まる。
ひよりがそれを避けようとして、少しだけ足をもつらせた。
とっさに手が出た。
ひよりの手首に触れて、支える。
そのまま数歩だけ、人混みを抜ける。
「…大丈夫?」
聞くと、ひよりは少しだけ目を瞬かせた。
「うん、大丈夫」
でも、その手はまだ離れていない。
僕の手の中にあるひよりの体温が、変に生々しい。
柔らかいとか、細いとか、そういうことを考えた瞬間に全部が急に意識の中心へ来る。
離した方がいい。
たぶんそうだ。
でも、すぐには離せなかった。
ひよりもまた、すぐには引かなかった。
ほんの数秒。
でも、その数秒はかなり長かった。
やがて人の流れが落ち着いて、僕はようやく手を離す。
「…ごめん」
「何で謝るの」
「いや、急に触ったから」
「助けてもらったのに?」
ひよりは少しだけ笑う。
でも、耳は少し赤い。
「むしろ、ありがとうでしょ」
「…じゃあ、ありがとう」
「うん」
そのあと、二人とも少しだけ黙る。
さっき触れた場所が、妙に残っていた。
手首に。
手のひらに。
離したあとも、そこだけ少しあたたかい。
駅前に着くころには、夕方の光がだいぶやわらかくなっていた。
「今日は楽しかった」
ひよりが言う。
「うん」
「ちゃんとデートだったね」
その一言に、僕はまた少しだけ心臓がうるさくなる。
「…そうだね」
「何、今さら照れてるの」
「今日ずっと照れてる」
「知ってる」
ひよりは笑う。
その笑顔を見た瞬間、胸の奥のどこかがはっきりと動いた。
ああ、と思う。
僕はこの子といると、楽しい。
ただ楽なだけじゃない。
気を遣わなくていいだけでもない。
笑ってほしいし、うれしそうでいてほしいし、もっと一緒にいたい。
それはたぶん、もう十分すぎるほど答えだった。
「…ひよりさん」
「ん?」
「また、行こう」
言うと、ひよりは少しだけ驚いた顔をした。
すぐに、うれしそうに目を細める。
「うん。いいよ」
その返事が、胸にまっすぐ入る。
前なら、この“また”も曖昧に使っていたかもしれない。
でも今は違う。
また会いたい。
ひよりと出かけたい。
ちゃんとそう思って言っている。
電車が来るアナウンスが流れる。
人の流れが少し動く。
好かれているからじゃない。
誰かに特別扱いされているからでもない。
ひよりだから、うれしい。
その気持ちは、もうごまかせなかった。
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