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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第5章

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42/50

「九条澪は、手を離すことを知る」

 


 その日の放課後、気づけば僕はまた支援棟の前に立っていた。


 いつもなら、来る前に少しだけ言い訳を考えていた気がする。


 今日はたまたま近かったとか。

 少し聞きたいことがあったとか。

 疲れているわけじゃないけど、とか。


 でも今日は、そこまでしなかった。


 会いたいと思ったから来た。

 話したいと思ったから来た。

 それだけだ。


 前と違うのは、そのうえで、ここに沈みきるつもりではないと自分で分かっていることだった。


 ノックをする。


「どうぞ」


 中から返ってきた声は、いつも通りやわらかい。


 ドアを開ける。


 部屋の中は変わっていなかった。

 落ち着いた照明、整った机、窓際の植物。

 外の空気より少しだけぬるくて、時間の流れも少しだけゆるい。


 ここへ来るたびに思う。

 この部屋は本当に、疲れた人間をだめにする方向にちょうどいい。


「いらっしゃい」


 澪さんがこちらを見て、静かに笑う。


「…今日は自分から来たって顔してるね」


「どういう顔ですか」


「助けて、ではなくて」

「話したい、の方の顔かな?」


 そう言われて、少しだけ言葉に詰まる。


 やっぱりこの人はよく見ている。

 いや、見すぎているくらいかもしれない。


「…そうかもしれません」


「うん。いい変化だね」


 澪さんはそう言って、いつものようにお茶の準備を始める。


 その後ろ姿を見ながら、僕はソファに腰を下ろした。

 前みたいに、座った瞬間から沈んでいく感じは少ない。

 それでもやっぱり、ここにいると少しだけ呼吸が楽になる。


「今日は何にする?」

「少し甘いのと、普通のと~」


「普通ので」


「ほんとに?」


「…少し甘いので」


「正直でよろしい」


 そのやり取りだけで、少しだけ肩の力が抜ける。


 こういう軽さは、ひよりとの会話ともまた違う。

 澪さんの前では、もう少し弱い自分を出していい気がしてしまう。

 そこが、ずっと危うかった。


「はい」


 カップがテーブルに置かれる。

 湯気の立つ匂いが、静かに広がった。


 僕は両手でそれを包みながら、少しだけ考える。


 何から話そうか。

 保護局との再調整のことか。

 ひよりのことか。

 それとも、たぶん今日ここへ来た本当の理由のことか。


「…今日、保護局の方ととまた話してきました」


 先にその話から出る。


 澪さんは向かいに座り、静かに頷いた。


「どうだった?」


「全部は受けないって言いました」

「でも、全部拒むつもりでもないって」


「うん」


「必要な保護は受ける」

「でもすべてをゆだねる気はないって」


 そこまで話すと、澪さんは少しだけ目を細めた。


「ちゃんと、自分の言葉で伝えたんだ」


「…はい」


「えらいね~」


 その一言は、少しだけ反則だと思う。


 前の僕なら、そう言われるだけでここに長くいたくなった。

 褒められて、受け止められて、楽な方へ寄っていきたくなった。


 今も、まったく心が揺れないわけじゃない。

 でも、そこへ沈みそうになる自分が見えるくらいには変わった。


「九条さん」


「うん?」


「前だったらたぶん、ここで“全部決めてもらえた方が楽です”って言ってたと思うんです」


 澪さんは何も言わない。

 ただ、続きを待つ。


「ここに来ると、やっぱり安心するし」

「何も決めなくていい感じがして」

「それで十分な気もする瞬間がある」


「うん」


「でも、それだけじゃだめなんだなって」


 カップの縁に視線を落とす。

 湯気がゆっくり揺れていた。


「ここがあるのは、今でもすごく助かります」

「でも、ここに何もかもをゆだねると、たぶんまた自分で選ばなくなる」


 その言葉を口にした瞬間、自分でも少しだけ実感が増す。


 そうだ。

 僕が怖かったのはそこだ。

 澪さんのやさしさが悪いんじゃない。

 ここが安心できるのが悪いんじゃない。


 ただ、“ここで全部済ませてしまいたくなる自分”が怖かったんだ。


「…分かってるんだね」


 澪さんが静かに言う。


「前より、ちゃんと」


「分かってきた、の方かもしれません」


「それでも十分だよ」


 その声は、やっぱりやさしい。


 でも今日のやさしさは、前より少しだけ遠い。

 遠いというより、ちゃんと送り出す向きのやさしさだ。


 それが少しだけ寂しくて、でもありがたかった。


「本音を言うとね」


 澪さんがカップを持ったまま言う。


「少しだけ、残念かな」


 僕は顔を上げる。


 澪さんは笑っていない。

 でも、悲しそうというほどでもない。

 ただ、静かに本当のことを言っている顔だった。


「東條くんがここに来て、少しずつ力を抜いていく感じ、好きだったから」


 その言葉に、胸の奥が小さく痛む。


 好きだった。

 その言い方には、恋愛の意味も、きっと少しは混ざっている。

 でもそれだけじゃない。

 澪さんはたぶん、“僕がこの部屋を頼ること”そのものにも意味を感じてくれていたのだ。


「…ごめんなさい」


 小さく言うと、澪さんは首を振る。


「謝らなくていいよ」


「でも」


「ううん。これは私の気持ちの話だから」


 そう言って、少しだけやわらかく笑う。


「本当はね、もう少しここに寄ってきてくれてもよかった」


 その一言は、やさしいのにかなり危ない。

 たぶん昔の僕なら、その言葉だけで十分だった。


 ここに来ていい。

 寄りかかっていい。

 もっと頼っていい。


 そう言われたら、僕はきっとそうした。

 しばらくは本当に楽になれたと思う。


 でも、その先で何かを失うことも、今の僕には分かる。


「…そうしたかったです」


 正直にそう言う。


 澪さんが少しだけ目を細めた。


「うん」


「何度も、ここにいた方が楽だって思ったし」

「もう面倒なこと全部やめて、ここで休んでいたいとも思いました」


「うん」


「でも、今それをやると」

「たぶん、あとでまた自分を嫌いになる気がする」


 そこまで言うと、澪さんはゆっくり頷いた。


「そうだね」


 否定しない。

 責めない。

 でも、ごまかしもしない。


「今の東條くんはちゃんとしてる」


「ちゃんとしてる、ですか」


「うん」


 澪さんはカップをテーブルに戻す。


「ここへ来たいって思うことも」

「楽な方へ行きたいって思うことも」

「全部あるまま、それでもそこに沈み切らないでいられるなら」

「前よりずっと、ちゃんとしてる」


 その言葉は、ひよりの“前よりちゃんとしてる”とも少し似ていた。

 でも澪さんが言うと、また別の重さがある。


 この人は、僕が沈みたがる場所そのものだったからだ。

 その人に、“沈まないでいられるようになった”と認められるのは、かなり大きい。


「…九条さん」


「なに」


「本当は、止めたかったですか」


 聞くか迷った。

 でも、今は聞かない方が中途半端だと思った。


 澪さんは少しだけ視線を落とす。

 それから、ゆっくり答えた。


「うん」


 短い。


「本当は、もう少しここにいてほしかった」

「もう少しだけ、頼ってほしかった」

「東條くんが外で疲れるたびに、ここで甘やかしてしまえたらって思ったこともある」


 やっぱり、と思う。

 分かっていた。

 でも、ちゃんと言葉にされるとやっぱり苦しい。


「でもね」


 澪さんは少しだけ笑う。


「それをやったら、東條くんが東條くんじゃなくなる」


 その一言は、とても静かで、でも決定的だった。


「それは嫌だった」


 胸の奥が、じわっと熱くなる。


 この人は、僕を自分のそばへ置いておきたい気持ちもあった。

 でも、それ以上に、僕が僕のままでいられなくなることの方を嫌がってくれた。


 それはたぶん、すごく楽なことだ。

 そして、かなり痛いことでもある。


「…ずるいですね」


 ぽつりと言うと、澪さんは少しだけ首を傾ける。


「どっちが?」


「九条さんがです」


「何で」


「そんなふうに言われたら、余計にちゃんとしなきゃって思うから」


 そう言うと、澪さんは少しだけ笑った。


「それでいいんじゃない?」


「よくないです」


「でも、東條くんはそういう方が進めるでしょ」


 否定できない。

 この人は本当に、僕の弱さも癖も見ている。


「…たぶん」


「うん。知ってる」


 静かに返されると、もう笑うしかなかった。


 ◇


 しばらく、二人で何も言わずにお茶を飲んだ。


 沈黙は痛くない。

 でも、前より少しだけ意味が変わった気がする。


 前は“何も言わなくても受け入れてくれる沈黙”だった。

 今は“ちゃんと送り出すための沈黙”に近い。


 その違いは少し寂しい。

 でも、たぶん必要な変化だった。


「ひよりちゃんのこと、好きなんでしょ」


 唐突にそう言われて、危うくむせそうになる。


「…何でそうなるんですか」


「顔」


「雑すぎません?」


「あと、話すときの間かな~」


 澪さんはあっさり言う。


「東條くん、他の子の話するときより、ひよりちゃんの話するときの方が笑顔だからさ」


 そんなところまで見られているのかと思うと、変な汗が出そうになる。


「まだ、そこまで…」


 反射的にそう言いかけて、止まる。


 まだそこまで。

 その逃げ方はもうしたくなかった。


「…好き、なんだと思います」


 言ってから、自分の心臓が一気にうるさくなる。


 はっきり口にしたのは、これがたぶん初めてだった。


 澪さんは少しだけ目を細める。


「うん」


「思います、じゃなくて?」


「そこはまだ、ちょっと怖いです」


 正直に言うと、澪さんは小さく笑った。


「そっか」


「でも前みたいに、好かれてるから気になる、ではないです」

「一緒にいると楽しいし」

「ひよりさんが見てくれてると、ちょっと安心するし」

「…ちゃんと、うれしい」


 その言葉を口にするたび、自分の中で何かが少しずつ定まっていく。


 好き。

 たぶん、そうなのだ。


 まだ不器用で、きれいに扱えないけれど。

 でも、もう誤魔化したくはない。


「よかった」


 澪さんが静かに言う。


「東條くん、やっとちゃんと一人を見られるようになったんだね」


 その言葉は、祝福みたいで、少しだけ泣きそうになる。


 澪さん自身にとっては、それは自分が選ばれないことの確認でもあるはずなのに。

 それでもこうして言ってくれる。


「…ありがとうございます」


「うん」


「何か、もっと気まずくなるかと思ってました」


「なってるよ、少しは」


 そう言って、澪さんは少しだけいたずらっぽく笑った。


「でも、そのくらいの痛さはあった方がほんとっぽいでしょ」


「それ、みんな同じこと言いますね」


「じゃあ本当なんだよ」


 その返し方まで、やっぱりやさしい。


 ◇


 帰る時間になって、僕はソファから立ち上がる。


 澪さんも立ち上がった。

 でも前みたいに、「またいつでも」と簡単には言わなかった。


 少しだけ間を置いてから、静かに言う。


「疲れたら来ていいよ」


「はい」


「でも、ここには逃げに来るんじゃなくて」

「ちゃんと帰るために来て」


 その言葉に、僕は小さく頷く。


「…そうします」


「うん」


 それで十分だった。


 ドアの前まで行って、振り返る。


 部屋の中はいつも通り落ち着いていて、少しぬるくて、やさしい。

 でももう、それだけじゃない。


 ここは僕を沈ませる場所ではなく、帰るための場所に変わろうとしている。


「九条さん」


「なに」


「僕、たぶん前よりちゃんとします」


「たぶん?」


「そこはまだ保険です」


「ふふ」


 澪さんは小さく笑った。


「じゃあ、たぶんちゃんとしなよ」


「はい」


「ひよりちゃんのこと、ちゃんと大事にしてね」


 その一言には、やっぱり少しだけ痛みが混じっていた。

 でも、まっすぐだった。


「…はい」


 今度は、ちゃんと即答できた。


 澪さんは静かに頷く。


「いってらっしゃい」


 その言葉は、不思議と“さよなら”ではなかった。


 ドアを開けて廊下へ出る。

 外の空気は少し冷たくて、でも前より軽い。


 やさしい場所から離れるのは、まだ少し寂しい。

 でも、それでもそこに沈みきらずにいられたことは、たぶんちゃんとした前進なのだと思う。



最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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