「九条澪は、手を離すことを知る」
その日の放課後、気づけば僕はまた支援棟の前に立っていた。
いつもなら、来る前に少しだけ言い訳を考えていた気がする。
今日はたまたま近かったとか。
少し聞きたいことがあったとか。
疲れているわけじゃないけど、とか。
でも今日は、そこまでしなかった。
会いたいと思ったから来た。
話したいと思ったから来た。
それだけだ。
前と違うのは、そのうえで、ここに沈みきるつもりではないと自分で分かっていることだった。
ノックをする。
「どうぞ」
中から返ってきた声は、いつも通りやわらかい。
ドアを開ける。
部屋の中は変わっていなかった。
落ち着いた照明、整った机、窓際の植物。
外の空気より少しだけぬるくて、時間の流れも少しだけゆるい。
ここへ来るたびに思う。
この部屋は本当に、疲れた人間をだめにする方向にちょうどいい。
「いらっしゃい」
澪さんがこちらを見て、静かに笑う。
「…今日は自分から来たって顔してるね」
「どういう顔ですか」
「助けて、ではなくて」
「話したい、の方の顔かな?」
そう言われて、少しだけ言葉に詰まる。
やっぱりこの人はよく見ている。
いや、見すぎているくらいかもしれない。
「…そうかもしれません」
「うん。いい変化だね」
澪さんはそう言って、いつものようにお茶の準備を始める。
その後ろ姿を見ながら、僕はソファに腰を下ろした。
前みたいに、座った瞬間から沈んでいく感じは少ない。
それでもやっぱり、ここにいると少しだけ呼吸が楽になる。
「今日は何にする?」
「少し甘いのと、普通のと~」
「普通ので」
「ほんとに?」
「…少し甘いので」
「正直でよろしい」
そのやり取りだけで、少しだけ肩の力が抜ける。
こういう軽さは、ひよりとの会話ともまた違う。
澪さんの前では、もう少し弱い自分を出していい気がしてしまう。
そこが、ずっと危うかった。
「はい」
カップがテーブルに置かれる。
湯気の立つ匂いが、静かに広がった。
僕は両手でそれを包みながら、少しだけ考える。
何から話そうか。
保護局との再調整のことか。
ひよりのことか。
それとも、たぶん今日ここへ来た本当の理由のことか。
「…今日、保護局の方ととまた話してきました」
先にその話から出る。
澪さんは向かいに座り、静かに頷いた。
「どうだった?」
「全部は受けないって言いました」
「でも、全部拒むつもりでもないって」
「うん」
「必要な保護は受ける」
「でもすべてをゆだねる気はないって」
そこまで話すと、澪さんは少しだけ目を細めた。
「ちゃんと、自分の言葉で伝えたんだ」
「…はい」
「えらいね~」
その一言は、少しだけ反則だと思う。
前の僕なら、そう言われるだけでここに長くいたくなった。
褒められて、受け止められて、楽な方へ寄っていきたくなった。
今も、まったく心が揺れないわけじゃない。
でも、そこへ沈みそうになる自分が見えるくらいには変わった。
「九条さん」
「うん?」
「前だったらたぶん、ここで“全部決めてもらえた方が楽です”って言ってたと思うんです」
澪さんは何も言わない。
ただ、続きを待つ。
「ここに来ると、やっぱり安心するし」
「何も決めなくていい感じがして」
「それで十分な気もする瞬間がある」
「うん」
「でも、それだけじゃだめなんだなって」
カップの縁に視線を落とす。
湯気がゆっくり揺れていた。
「ここがあるのは、今でもすごく助かります」
「でも、ここに何もかもをゆだねると、たぶんまた自分で選ばなくなる」
その言葉を口にした瞬間、自分でも少しだけ実感が増す。
そうだ。
僕が怖かったのはそこだ。
澪さんのやさしさが悪いんじゃない。
ここが安心できるのが悪いんじゃない。
ただ、“ここで全部済ませてしまいたくなる自分”が怖かったんだ。
「…分かってるんだね」
澪さんが静かに言う。
「前より、ちゃんと」
「分かってきた、の方かもしれません」
「それでも十分だよ」
その声は、やっぱりやさしい。
でも今日のやさしさは、前より少しだけ遠い。
遠いというより、ちゃんと送り出す向きのやさしさだ。
それが少しだけ寂しくて、でもありがたかった。
「本音を言うとね」
澪さんがカップを持ったまま言う。
「少しだけ、残念かな」
僕は顔を上げる。
澪さんは笑っていない。
でも、悲しそうというほどでもない。
ただ、静かに本当のことを言っている顔だった。
「東條くんがここに来て、少しずつ力を抜いていく感じ、好きだったから」
その言葉に、胸の奥が小さく痛む。
好きだった。
その言い方には、恋愛の意味も、きっと少しは混ざっている。
でもそれだけじゃない。
澪さんはたぶん、“僕がこの部屋を頼ること”そのものにも意味を感じてくれていたのだ。
「…ごめんなさい」
小さく言うと、澪さんは首を振る。
「謝らなくていいよ」
「でも」
「ううん。これは私の気持ちの話だから」
そう言って、少しだけやわらかく笑う。
「本当はね、もう少しここに寄ってきてくれてもよかった」
その一言は、やさしいのにかなり危ない。
たぶん昔の僕なら、その言葉だけで十分だった。
ここに来ていい。
寄りかかっていい。
もっと頼っていい。
そう言われたら、僕はきっとそうした。
しばらくは本当に楽になれたと思う。
でも、その先で何かを失うことも、今の僕には分かる。
「…そうしたかったです」
正直にそう言う。
澪さんが少しだけ目を細めた。
「うん」
「何度も、ここにいた方が楽だって思ったし」
「もう面倒なこと全部やめて、ここで休んでいたいとも思いました」
「うん」
「でも、今それをやると」
「たぶん、あとでまた自分を嫌いになる気がする」
そこまで言うと、澪さんはゆっくり頷いた。
「そうだね」
否定しない。
責めない。
でも、ごまかしもしない。
「今の東條くんはちゃんとしてる」
「ちゃんとしてる、ですか」
「うん」
澪さんはカップをテーブルに戻す。
「ここへ来たいって思うことも」
「楽な方へ行きたいって思うことも」
「全部あるまま、それでもそこに沈み切らないでいられるなら」
「前よりずっと、ちゃんとしてる」
その言葉は、ひよりの“前よりちゃんとしてる”とも少し似ていた。
でも澪さんが言うと、また別の重さがある。
この人は、僕が沈みたがる場所そのものだったからだ。
その人に、“沈まないでいられるようになった”と認められるのは、かなり大きい。
「…九条さん」
「なに」
「本当は、止めたかったですか」
聞くか迷った。
でも、今は聞かない方が中途半端だと思った。
澪さんは少しだけ視線を落とす。
それから、ゆっくり答えた。
「うん」
短い。
「本当は、もう少しここにいてほしかった」
「もう少しだけ、頼ってほしかった」
「東條くんが外で疲れるたびに、ここで甘やかしてしまえたらって思ったこともある」
やっぱり、と思う。
分かっていた。
でも、ちゃんと言葉にされるとやっぱり苦しい。
「でもね」
澪さんは少しだけ笑う。
「それをやったら、東條くんが東條くんじゃなくなる」
その一言は、とても静かで、でも決定的だった。
「それは嫌だった」
胸の奥が、じわっと熱くなる。
この人は、僕を自分のそばへ置いておきたい気持ちもあった。
でも、それ以上に、僕が僕のままでいられなくなることの方を嫌がってくれた。
それはたぶん、すごく楽なことだ。
そして、かなり痛いことでもある。
「…ずるいですね」
ぽつりと言うと、澪さんは少しだけ首を傾ける。
「どっちが?」
「九条さんがです」
「何で」
「そんなふうに言われたら、余計にちゃんとしなきゃって思うから」
そう言うと、澪さんは少しだけ笑った。
「それでいいんじゃない?」
「よくないです」
「でも、東條くんはそういう方が進めるでしょ」
否定できない。
この人は本当に、僕の弱さも癖も見ている。
「…たぶん」
「うん。知ってる」
静かに返されると、もう笑うしかなかった。
◇
しばらく、二人で何も言わずにお茶を飲んだ。
沈黙は痛くない。
でも、前より少しだけ意味が変わった気がする。
前は“何も言わなくても受け入れてくれる沈黙”だった。
今は“ちゃんと送り出すための沈黙”に近い。
その違いは少し寂しい。
でも、たぶん必要な変化だった。
「ひよりちゃんのこと、好きなんでしょ」
唐突にそう言われて、危うくむせそうになる。
「…何でそうなるんですか」
「顔」
「雑すぎません?」
「あと、話すときの間かな~」
澪さんはあっさり言う。
「東條くん、他の子の話するときより、ひよりちゃんの話するときの方が笑顔だからさ」
そんなところまで見られているのかと思うと、変な汗が出そうになる。
「まだ、そこまで…」
反射的にそう言いかけて、止まる。
まだそこまで。
その逃げ方はもうしたくなかった。
「…好き、なんだと思います」
言ってから、自分の心臓が一気にうるさくなる。
はっきり口にしたのは、これがたぶん初めてだった。
澪さんは少しだけ目を細める。
「うん」
「思います、じゃなくて?」
「そこはまだ、ちょっと怖いです」
正直に言うと、澪さんは小さく笑った。
「そっか」
「でも前みたいに、好かれてるから気になる、ではないです」
「一緒にいると楽しいし」
「ひよりさんが見てくれてると、ちょっと安心するし」
「…ちゃんと、うれしい」
その言葉を口にするたび、自分の中で何かが少しずつ定まっていく。
好き。
たぶん、そうなのだ。
まだ不器用で、きれいに扱えないけれど。
でも、もう誤魔化したくはない。
「よかった」
澪さんが静かに言う。
「東條くん、やっとちゃんと一人を見られるようになったんだね」
その言葉は、祝福みたいで、少しだけ泣きそうになる。
澪さん自身にとっては、それは自分が選ばれないことの確認でもあるはずなのに。
それでもこうして言ってくれる。
「…ありがとうございます」
「うん」
「何か、もっと気まずくなるかと思ってました」
「なってるよ、少しは」
そう言って、澪さんは少しだけいたずらっぽく笑った。
「でも、そのくらいの痛さはあった方がほんとっぽいでしょ」
「それ、みんな同じこと言いますね」
「じゃあ本当なんだよ」
その返し方まで、やっぱりやさしい。
◇
帰る時間になって、僕はソファから立ち上がる。
澪さんも立ち上がった。
でも前みたいに、「またいつでも」と簡単には言わなかった。
少しだけ間を置いてから、静かに言う。
「疲れたら来ていいよ」
「はい」
「でも、ここには逃げに来るんじゃなくて」
「ちゃんと帰るために来て」
その言葉に、僕は小さく頷く。
「…そうします」
「うん」
それで十分だった。
ドアの前まで行って、振り返る。
部屋の中はいつも通り落ち着いていて、少しぬるくて、やさしい。
でももう、それだけじゃない。
ここは僕を沈ませる場所ではなく、帰るための場所に変わろうとしている。
「九条さん」
「なに」
「僕、たぶん前よりちゃんとします」
「たぶん?」
「そこはまだ保険です」
「ふふ」
澪さんは小さく笑った。
「じゃあ、たぶんちゃんとしなよ」
「はい」
「ひよりちゃんのこと、ちゃんと大事にしてね」
その一言には、やっぱり少しだけ痛みが混じっていた。
でも、まっすぐだった。
「…はい」
今度は、ちゃんと即答できた。
澪さんは静かに頷く。
「いってらっしゃい」
その言葉は、不思議と“さよなら”ではなかった。
ドアを開けて廊下へ出る。
外の空気は少し冷たくて、でも前より軽い。
やさしい場所から離れるのは、まだ少し寂しい。
でも、それでもそこに沈みきらずにいられたことは、たぶんちゃんとした前進なのだと思う。
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