「条件付きの受容」
保護局へ向かう廊下は、相変わらずきれいすぎるくらい静かだった。
白い壁。
床に落ちる午後の光。
遠くで扉が閉まる音だけが小さく響いて、すぐに消える。
この場所は、いつ来ても少しだけ息が詰まる。
誰かが怒鳴るわけじゃない。
圧をかけてくる空気が露骨にあるわけでもない。
ただ、ここでは何もかもが整いすぎている。
正しい言葉も、正しい手順も、正しい配慮も、全部そろっていて、そのぶん自分の感情だけが少し浮く。
でも今日は、前回までと少しだけ違った。
嫌だ、だけでは終わらせない。
受け入れたくない、だけでも終わらせない。
どこまで受けて、どこから先は譲らないか。それを自分で持ってくる。
そう決めて来ていたからだ。
案内された部屋の前で立ち止まり、軽く息を吐く。
ノックをすると、すぐに返事があった。
「どうぞ」
入る。
中には、いつもの二人がいた。
鷹宮ひとえ。
霧島紗世。
ひとえはまっすぐにこちらを見ていて、紗世は机の上の端末に指を置いたまま、静かに視線を上げた。
どちらも落ち着いている。
それだけで、また少しだけ肩に力が入る。
「座ってください」
ひとえに促され、向かいの椅子へ座る。
机の上には前回の資料がまとめて置かれていた。
通学ルートの固定。
単独行動の制限。
接触調整。
滞在場所の指定。
全部受ければ、たぶん楽になる。
でもその楽さの先へ、僕はもう何も考えずには進めない。
「本日は、前回提案した保護強化案について、東條くんの意思を確認するための面談です」
紗世が淡々と言う。
その言い方は変わらない。
けれど今日は、聞く側の僕が少し違う。
「はい」
自分でも分かるくらい、声は前より落ち着いていた。
「ご検討いただけましたか」
ひとえが続ける。
僕は一度だけ頷いてから、言葉を選ぶ。
「…はい」
少しだけ、間を置く。
「すべては受け入れられません」
部屋の空気が、ほんの少しだけ静かになる。
それは驚きではないのかもしれない。
でも、このあと僕が何を言うかを待つ静けさだった。
「ただ」
続ける。
「すべてを断るつもりでもありません」
ひとえの目が、わずかに細くなる。
紗世は表情を変えないまま、ただ先を促すように視線を置いている。
「危険なルートの回避とか」
「接触が集中しやすい時間帯の調整とか」
「そういう、安全のための工夫なら受けるつもりです」
言いながら、自分の手が机の下で少しだけ緊張しているのが分かる。
「でも、放課後の単独行動を全部制限されたり」
「校内での滞在場所を常に指定されたり」
「連絡のたびに、全部支援担当経由になるのは受け入れたくないです」
そこまで言ってから、ようやく小さく息を吐いた。
前なら、こういう場ではもっと“嫌です”の感情が先に出ていたと思う。
でも今は、嫌だと思う気持ちをちゃんと整理して、“何がどこまで嫌なのか”を言葉にしたかった。
それが境界線なのだと、少しずつ分かり始めている。
紗世が先に口を開く。
「…一部条件付き受諾、という理解でよろしいですか」
「はい」
「全面的な拒否ではない、と」
「そうです」
そこははっきり言う。
全部を拒むつもりはない。
守られること自体を否定したいわけじゃない。
ただ、守られるという名目ですべての選択を預ける形にはしたくない。
その違いだけは、今の僕にはかなり大きかった。
「理由を聞いても?」
ひとえの声は静かだった。
「もちろんです」
僕は頷く。
「僕、最近やっと少しだけ、自分で決められるようになってきたんです」
言いながら、自分でも少しだけ不思議な感じがした。
“自分で決める”なんて、当たり前のことのはずなのに、この世界ではそれをこうして説明しないといけない。
「前までは、何でも曖昧にしてました」
「感じよく返して、断らないで、その場を丸くおさめて」
「その方が楽だったし、好かれてる感じも気持ちよかったから」
ひとえも紗世も何も言わない。
ただ、ちゃんと聞いている。
「でもそれだと、期待を待たせるし、傷つけるし、僕自身も後から全部嫌になるって分かりました」
七海の涙が、一瞬だけ頭をよぎる。
忘れないために、あえて思い出す。
「だから、断ることを覚えました」
「ただ、それだけだと今度は生きにくくなるのも分かりました」
断れば静かになる。
歓迎はされにくくなる。
話しかけにくい男子になる。
玲那みたいに、拒絶を価値に変える人間もいる。
「だから」
机の上の資料を見る。
「必要な保護まで全部拒むつもりはありません」
「でも、全部を身の安全の方へ寄せると、たぶん僕が僕じゃなくなる」
少しだけ、部屋の空気が揺れた気がした。
それは気のせいかもしれない。
でも、僕にとってはここが今日いちばん大事な言葉だった。
「僕が僕じゃなくなる、とは?」
紗世が聞く。
「自分で決める感覚がなくなる、ってことです」
その答えは、思っていたよりすぐに出た。
「どこへ行くか」
「誰とどのくらい関わるか」
「何を受けて、何を断るか」
「そういうのを全部“安全のためだから”って」
「たぶん、今までやっと作ってきた距離感まで消える気がする」
ひとえがそこで、ほんの少しだけ視線を落とした。
考えているのだろう。
制度の側の人間としてではなく、少しだけ個人として。
「…なるほど」
紗世が静かに頷く。
「東條くんが求めているのは、保護の拒否ではなく、保護と自律の線引きですね」
「たぶん、そうです」
僕も少しだけ頷く。
そうだ。
欲しいのはそこなのだ。
保護されない自由ではなく、
全部預ける安全でもなく、
その間にある、自分の考えを残しておきたい部分。
「率直に言います」
ひとえが口を開いた。
「制度上、その立ち位置は非常に難しいです」
思わず、少しだけ笑いそうになる。
「…やっぱりそうですよね」
「はい」
ひとえはまったくごまかさなかった。
「すべて預けてくれる方が、守る側としては明らかに管理がしやすい」
「一方で、すべて拒否する方も、ある意味では判断が簡単です」
「ですが東條くんの希望は、そのあいだにあります」
「うん」
「それは最も大変で面倒なことです」
ここまできっぱり言われると、逆に少しだけ気が楽になる。
きれいな配慮で包まれるより、よほどましだ。
「でも」
ひとえはそこで少しだけ声の温度を変えた。
「面倒であることと、不当であることは同じではありません」
その一言に、胸の奥のどこかが少しだけ動いた。
面倒だ。
扱いづらい。
制度と相性がいいわけではない。
でも、それは不当ではない。
その区別を、ちゃんと言ってもらえた気がした。
「…ありがとうございます」
自然にそう言うと、ひとえはわずかに目を細めた。
紗世が端末を操作しながら続ける。
「こちらとしては再度、調整案を組み直します」
「ただし、あなた希望をすべて反映できる保証はありません」
「分かってます」
「また、本人の意思を残す分、自己判断に伴う責任も増えます」
「それも分かってます」
ここは、たぶん軽く返してはいけないところだった。
自分で決めるということは、失敗したときに誰かのせいだけにはできないということだ。
その重さも込みで選ぶ必要がある。
「東條くん」
ひとえが静かに言う。
「あなたは今、かなり困難な道を歩もうとしています」
「はい」
「自覚はあります」
そう返すと、ひとえの口元がほんのわずかに動いた。
「ですが、それは“何もかも拒絶する”より、ずっと好ましい選択です」
前にも似たことを言われた気がする。
でも今は、その言葉が前より少し真っ直ぐに入ってきた。
たぶん褒め言葉なのだろう。
「…それ、褒めてます?」
少しだけ聞くと、ひとえはあっさり答えた。
「はい」
「珍しいですね」
「珍しいことをしているのは東條くんの方です」
その返しに、ほんの少しだけ場の空気がやわらぐ。
正論ばかりでできていた部屋に、少しだけ人の温度が入る。
その感覚が、前よりちゃんと分かるようになっている自分の成長にも気づいた。
◇
面談が終わり、保護局の建物を出る。
外の空気は少しだけ乾いていて、曇り空の下でも広かった。
深呼吸すると、室内に溜まっていた緊張がゆっくりほどけていく。
全部うまくいったわけじゃない。
希望がそのまま通ったわけでもない。
まだまだこれから細かい調整はあるのだろう。
でも少なくとも、“全部受けるか全部断るか”の二択ではなくなった。
その事実だけで、前より少しだけ呼吸がしやすい。
「…条件付き、か」
小さく呟く。
前の僕には、その発想自体がなかったのかもしれない。
好かれるか、嫌われるか。
受けるか、断るか。
そういう極端な方へ、気持ちごと流されていた。
今は少し違う。
全部を受けなくてもいい。
全部を拒まなくてもいい。
その代わり、自分で決める。
その面倒さを、引き受ける。
校舎へ戻る途中、中庭の端にひよりの姿が見えた。
ベンチの横に立って、ペットボトルの蓋を閉めたところだった。
こっちに気づくと、小さく手を上げる。
「おつかれ」
「…見つけるの早いね」
「来るかなって思ってた」
最近、本当にみんな待ち伏せが好きだなと思う。
でも、ひよりに言われるとそこまで嫌じゃない。
「どうだった?」
まっすぐ聞いてくる。
でも、“答えたくなければ答えなくていい”という逃げ道も少し残した聞き方だった。
「うまくいった…っていうほどではないけど」
僕はベンチの背に軽く手を触れながら答える。
「全部かゼロか、ではなくなった」
ひよりは一瞬だけ目を丸くして、それから少し笑った。
「へえ」
「へえって何」
「いや、ちゃんとそこまで考えてるんだなって」
その言い方には、少しだけ感心した温度があった。
「前の凪くんなら、たぶん“嫌です”か“もういいです”のどっちかだったでしょ」
「ひどい言い方するなあ」
「でもそうじゃん」
「否定はしないけど」
僕がそう言うと、ひよりはペットボトルを両手で持ちながら少しだけ首を傾けた。
「それで、今は?」
「今は…」
少し考える。
「面倒だけど、前よりちゃんと自分で決めてる感じがする」
「うん」
「全部預けて楽になるのも違うし」
「全部拒絶して疲れるのも違うし」
「その間を選ぶ方が、たぶん今の僕には合ってる」
ひよりはじっと聞いていた。
それから、小さく笑う。
「やっぱり、ちょっと自然になったね」
またその言葉だ。
でも今度は、朝よりも少しだけうれしかった。
「…自然って便利な褒め方だね」
「便利だよ」
「雑とも言う」
「でも伝わってるでしょ」
たしかに伝わっていた。
格好よくなった、とか。
強くなった、とか。
そういう言い方じゃない。
ただ、前より自然。
それはたぶん、“人として無理のない場所へ少し近づいた”みたいな意味なのだと思う。
「ひよりさん」
「なに」
「ありがとう」
「何が?」
「たぶん、前よりちゃんと見てもらってる感じがする」
言ってから少し照れくさくなる。
でも、今さら変にごまかすのも違う気がした。
ひよりは少しだけ目を瞬かせて、それから視線を外した。
「…見てるよ、そりゃ」
その返し方が少しだけ照れていて、僕の方まで変に落ち着かなくなる。
「一番近くで見てるのかも」
続けたその一言は、思ったより小さかった。
でも、はっきり聞こえた。
胸の奥が少しだけあたたかくなる。
前なら、そのあたたかさを“好かれてる”として気持ちよく受け取っていたかもしれない。
今は違う。
ひよりが見ていてくれること自体が、ただうれしい。
「…そっか」
うまく返せたのは、それだけだった。
ひよりはそこで、少しだけ笑う。
「うん」
「じゃ、今日はそのくらいで満足しといてね」
「何それ」
「褒めすぎると調子に乗るでしょ」
「ひどい」
「今さらだよ」
そのやり取りが妙に心地いい。
強すぎない。
甘すぎない。
でも、ちゃんと近い。
たぶん、こういう時間の積み重ねで、人は誰か一人を好きになるのだろうと思う。
夕方の光はやわらかくて、校舎の白い壁に少しだけ淡く反射していた。
全部を拒絶するだけでは、もういられない。
でも、全部を預けるつもりもない。
そのあいだを、自分で決めて歩く。
今日の面談でできたのは、たぶんその最初の実践だった。
そしてそのあとで、こうしてひよりと話している時間がある。
それだけで、前より少しだけ、自分の選んだ道が間違っていない気がした。
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