プロローグ 「境界線を引く男」
朝の教室は、前より少しだけ静かで、前より少しだけ自然だった。
どちらか一方なら、今までもあった。
断り始めたばかりの頃は、静かだった。
でもその静けさは、冷たさに近かった。
話しかける側も慎重で、僕の方も必要以上に身構えていた。
それより前は、自然ではあった。
でもあれは、本当に自然だったのかと言われると微妙だ。
曖昧に笑って、好意を受け流して、誰にもはっきりしないことで、表面だけ丸くおさめていた。
今は、そのどちらとも少し違う。
まだ静かだ。
でも前ほど冷えていない。
まだ距離はある。
でも、その距離を僕も相手も少しずつ分かってきた感じがある。
教室のドアを開けて、自分の席へ向かう。
何人かと目が合う。
小さく会釈を返す。
それだけで終わる視線もあるし、短く挨拶が続くこともある。
「おはよう、東條くん」
席の近くで、クラスメイトの女子が言った。
「おはよう」
僕も返す。
その子は、少しだけ迷ってから続けた。
「昨日のプリントのとこ、もし分かんなかったらあとで聞いてもいい?」
前なら、そこに余計な優しさを足していたかもしれない。
“全然いいよ”とか、“どうせ暇だし”とか、相手が話しやすくなるような軽さを乗せていたと思う。
今は少し違う。
「うん。昼休みなら大丈夫」
短く、でも冷たすぎないように返す。
「放課後は予定あるから、その前ならいいよ」
女子は少しだけほっとしたように笑った。
「分かった。ありがとう」
「うん」
それで終わる。
必要なことは伝わっている。
でも、期待は持たせない。
前より少しだけ距離感をあける返し方。
それをしている自分に、まだ少し違和感はある。
でも、前みたいに“このあと相手がどう勘違いするか”まで気にする感じはかなり減った。
(…少しは、ましになったのかな)
鞄を机の横にかけながら、そんなことを思う。
うまくやれている自信はない。
でも少なくとも、前よりは自分で選んで返している感じがある。
チャイム前のざわめきの中、ひよりが教室へ入ってきた。
友達と一緒だったけれど、席へ向かう途中で僕と目が合う。
ひよりは一瞬だけ目を細めて、それから軽く笑った。
「おはよう」
「おはよう」
それだけのやり取りなのに、僕の中のどこかが少しだけ落ち着く。
ひよりは自分の席へ向かったあと、荷物を置いてからこちらへ来た。
前なら少し意識しすぎていたかもしれないその動きも、今は妙に自然に見える。
「ちょっとだけいい?」
「うん」
ひよりは僕の机の横に立って、小さな声で言った。
「何かさ」
「何」
「最近、ちょっと自然になったね」
その言い方に、少しだけ笑いそうになる。
「何その感想」
「いや、何て言えばいいのかなって思ったけど」
「前みたいに曖昧すぎないし、でも冷た…じゃなくて」
そこでひよりが一瞬だけ言葉を止める。
自分でも変なことを言いかけたと思ったのか、軽く咳払いした。
「前より、変に突っぱねすぎてもない」
「言い直したよね、今」
「気のせい」
絶対違う。
でも、そこを突っ込むと長くなるのでやめておく。
「自然、か」
僕がそう返すと、ひよりは小さく頷いた。
「うん」
「ちゃんと距離感はあるんだけど、前みたいに“全部シャットアウトします”って感じじゃない」
「そう見える?」
「見えるよ」
ひよりは少しだけ首を傾ける。
「何か、やっと自分のやり方ができてきた感じ」
その言い方が思ったよりうれしくて、少しだけ視線を逸らす。
自分のやり方。
たぶん、僕が手に入れたかったのはそこなのだと思う。
全部受けるか、全部拒絶するか。
その二択じゃなくて。
自分で決めるやり方。
「…まだ全然、手探りだけどね」
「それでも前より全然いいよ」
ひよりはあっさり言う。
「前は、凪くんの中にある距離感が、凪くんにも見えてない感じだったし」
「ひどくない?」
「事実だし」
こういう言い方が、やっぱりひよりだ。
変に飾らない。
でも必要なことはちゃんと言う。
その温度が、今の僕にはちょうどいい。
「ひよりさんって」
「うん?」
「たまに遠慮ないよね」
「今さら?」
「今さらだった」
ひよりが少し笑う。
その笑い方を見ていると、僕の中の緊張も少しだけほどける。
「でも」
ひよりはそこで少しだけ声をやわらげた。
「前よりずっと、見てて安心する」
その一言は、思っていたより深く入ってきた。
安心する。
僕は今まで、どちらかと言えば“心配される側”だったのかもしれない。
軽薄で、危うくて、曖昧で。
自分ではうまくやっているつもりでも、ちゃんと見ている人からしたらかなり危なっかしかったのだろう。
だから“安心する”は、たぶんかなり大きな変化への言葉だった。
「…ありがとう」
少し間を置いて言うと、ひよりは「どういたしまして」とも言わず、ただ少しだけ照れくさそうに視線をずらした。
その反応が妙にかわいく見えて、僕の方が少し困る。
前なら、こういう瞬間も“好かれてる感じ”として受け取っていたのかもしれない。
でも今は違う。
ひよりが照れていること自体が、僕は少しうれしい。
そこにある感情の名前を、まだ大きな声では言えないけれど、前よりずっと自覚できていた。
◇
一限と二限のあいだの休み時間。
前の席の女子が、振り返って小さく言った。
「東條くん、さっきの話なんだけど」
「うん」
「やっぱり昼休みにちょっとだけいい?」
「いいよ」
そう返してから、僕は自分でも少しだけ意識して言葉を足した。
「十分くらいなら」
「うん、それで大丈夫」
相手も自然に頷く。
それで終わりだった。
前なら“全然いいよ”で広げていた。
断りたくない気持ちと、感じよく見られたい気持ちで、相手の都合に合わせる隙を無意識に増やしていた。
でも今は、最初から時間を区切る。
自分のできる範囲でだけ受ける。
必要以上に広げない。
それは冷たいだろうか。
たぶん、見る人によってはそうかもしれない。
でも僕は今、その冷たさに見えるかもしれない距離感の方を選びたいと思っていた。
距離感を意識しないまま優しく見える方が、ずっと冷たいと知ってしまったから。
「…ほんと、変わったね」
後ろから声がして振り返ると、ひよりが小さく笑っていた。
「聞いてたの?」
「近かったからね」
「盗み聞き」
「違うよ」
ひよりは机に肘をつかず、ただ立ったまま言う。
「前ならもっと濁してたでしょ」
「してたと思う」
「今はちゃんと“ここまで”って言えるんだ」
「言わないと、また後で面倒なことになるし」
「うん」
ひよりはそこで少しだけ目を細めた。
「でも、面倒だからっていうより」
「今はちゃんと、自分で決めてる感じがする」
また、その言葉だった。
自分で決める。
その感覚はたしかに、ようやく少しずつ手に入り始めている。
断ることも、受けることも、前みたいに流れでやるんじゃなくて、自分で選ぶ。
「まだ慣れないけどね」
僕がそう言うと、ひよりは少しだけ肩をすくめた。
「慣れてたら逆に怖いよ」
「それもそうか」
「うん。だって凪くん、ほんのちょっと前までかなりひどかったし」
「今その話する?」
「今、だからするんでしょ」
その返しに、思わず笑ってしまう。
笑いながら、でも同時に思う。
ひよりとこういう話をしているときの僕は、前よりずっと自然だ。
かっこつけていないし、好かれようともしていない。
それなのに、前よりずっと深いところで相手と向き合っている感じがある。
たぶん、それが今の僕にとって一番大きい変化なのだと思う。
◇
昼休み。
約束通り、前の席の女子にプリントの分からないところを説明する。
本当に十分くらいで終わった。
必要なことだけ話して、相手も納得して、変に空気を引き延ばさない。
「ありがとう。助かったよ」
「うん」
「じゃあまたね」
「またね」
その返し方にも、自分の中で少しだけ手応えがある。
必要なら。
曖昧な“またね”じゃない。
でも、切りすぎてもいない。
ひよりが教室の後ろからその様子を見ていたらしく、僕が席へ戻ると小さく言った。
「今の、よかったんじゃない?」
「何目線だよ」
「親目線だよ」
「うざっ」
「でもほんとに」
ひよりは机に頬杖をつかず、少しだけ前屈みになる。
「前だったら、もっと感じよくしようとしてたでしょ」
「してたと思う」
「今の方が、ちゃんと優しかった気がする」
その一言に、少しだけ息が止まる。
ちゃんと優しかった。
それは僕にとって、かなり大きい言葉だった。
距離感を保つのは冷たさかもしれない。
そう思ってきた。
でも、必要な分だけ受けて、それ以上期待させないことの方が、むしろちゃんと優しいのかもしれない。
その考え方は、ひよりに言われると妙に信じられた。
「…そうならいいけど」
「いいと思う」
ひよりはあっさり言う。
「今の凪くん、前よりちゃんと自分で決めれてるし」
「前より、ちゃんと相手のこと見てるよ」
その言葉は、胸の中に静かに残った。
前よりちゃんと相手を見ている。
それはたぶん、ただモテていた頃の僕には一番足りなかったものだ。
見ているつもりで、見ていなかった。
好かれている自分ばかり見ていた。
今は違う。
少なくとも、意識はしている。
そして、ひよりはその変化を一番近くで見てくれている。
◇
放課後。
教室の窓から見える空は少しだけ白く、春の終わりみたいなやわらかい光が差していた。
鞄を肩にかける。
そのとき、ひよりが席を立ちかけたところで目が合った。
「帰る?」
「うん」
「一緒に行く?」
ひよりは、ごく自然にそう言った。
前なら、この一言にも少し動揺してたかもしれない。
でも今は、前ほどではない。
いや、違う。
意識はする。
でも、その意識を必要以上にごまかさなくなった。
「行く」
僕がそう返すと、ひよりは小さく頷いた。
「じゃ、下で待ってる」
「うん」
短いやり取り。
それだけなのに、心のどこかが少しだけあたたかい。
下駄箱へ向かう途中、僕はふと考える。
前なら、この“あたたかい”も、ただ好かれている感じの延長として受け取っていたのかもしれない。
でも今は違う。
ひよりだからうれしい。
ひよりと帰るから少し気持ちが軽い。
そこにある感情は、もう前よりずっと自覚していた。
昇降口を出ると、ひよりが本当に待っていた。
壁にもたれたりせず、ただスマホを見ながら立っている。
僕に気づくと、顔を上げて小さく手を振った。
その何でもない仕草が、少しだけかわいい。
「行こ」
「うん」
並んで歩き出す。
まだ手は届かない距離。
でも、前より近い。
夕方の風はやわらかくて、校門を出るころには教室のざわめきももう遠くなっていた。
全部を拒絶するだけでは、もういられない。
でも、全部を受け入れるつもりもない。
そのあいだで、自分の距離感を選びながら歩く。
たぶん今、僕はやっとその最初の一歩を踏み出している。
そしてその隣に、ひよりがいる。
それだけで、前より少しだけ世界の形がましに思えた。
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