「拒絶だけでは...」
その夜は、なかなか眠れなかった。
机の上に置いた保護局の資料を、開いて、閉じて、また開く。
書いてあることは変わらない。
読むたびに新しい情報が増えるわけでもない。
それでも、何度も見てしまう。
通学ルートの固定。
単独行動の制限。
接触調整。
行動報告。
滞在場所の指定。
どれも、やろうと思えば理解できる。
いや、理解できてしまうから困るのだ。
玲那みたいな相手がいる。
教室では“話しかけにくい男子”として少しずつ距離ができている。
好かれやすくて管理しやすい男子の方が、この世界では守りやすい。
そういう構造を一つ一つ考えていけば、保護局の提案はきれいに理屈が通っている。
でも、理屈が通っていることと、自分がその中で息をしやすいことは、やっぱり別だった。
ベッドの端に座りながら、僕はスマホを手に取る。
ひよりとの会話を見て、閉じる。
しずくの短い文を見て、閉じる。
澪さんの「無理しすぎないでね」を見て、閉じる。
みんな違うことを言っていた。
でも、結局は同じところへ戻ってくる。
**自分で選べ**
それが、今日一日の結論だった。
「…分かってるよ」
誰にともなく呟く。
分かっている。
でも、選ぶための材料がどれも苦い。
保護局の提案を全部受け入れれば、安全性は上がる。
少なくとも今よりは、外で一人で疲れる場面が減る。
玲那みたいな圧も、少しは防ぎやすくなるかもしれない。
でも、その分だけ自由は減る。
自分で決められる範囲が狭くなる。
そして一度それに慣れたら、たぶん戻るのはしんどい。
逆に、全部拒絶して今のままでいればどうなるか。
自分で一線を引ける。
自由も残る。
でも、歓迎はされない。
空気は冷える。
孤立も増える。
欲しい側からすれば、“近づける人間が限られる男子”として価値が上がることもある。
どちらか片方を選ぶだけでは、どちらにしても疲れていく。
「…だめだな」
小さく息を吐く。
今までの僕はずっと、二択で考えてきたのかもしれない。
受け入れるか。
拒絶するか。
やさしくするか。
冷たくするか。
でも、この世界はたぶん、その二択だけだと息苦しすぎる。
ただ拒絶するだけでは、生きにくい。
ただ受け入れるだけでは、自分が薄くなる。
そのあいだが必要なのだ。
そこまで思ったとき、しずくの言葉が頭に浮かぶ。
**全部受けるか、全部断るかの二択で考えると詰む**
「…ああ」
ようやく少しだけ、何を考えればいいのかが見えた気がした。
全部受け入れる必要はない。
全部拒絶する必要もない。
必要なのはたぶん、
**どこまで受けるか**
**どこから先は譲らないか**
を、自分で決めることだ。
拒絶すること自体が目的じゃない。
囲われないために、一線を引くこと。
でも、その線を“全部閉じる”の形でしか引けないなら、今度は自分の意思が薄くなっていく。
◇
翌日、放課後。
保護局の建物へ向かう足取りは、前回より少しだけ重かった。
そのかわり、頭の中は前より少しだけ整理されている。
答えは出たわけじゃない。
でも少なくとも、“全部受けるか全部断るか”で苦しくなっていた昨日よりは、少しだけ先が見えていた。
案内された部屋に入ると、ひとえと紗世はすでに席についていた。
「座ってください」
僕は頷いて、向かいの椅子へ座る。
机の上には前回と同じ資料。
端末も開いている。
今日も部屋は静かで、白くて、きちんとしていた。
「ご検討いただけましたか」
紗世が静かに聞く。
「…はい」
僕は一度だけ息を整える。
「全部は受け入れません」
その一言で、部屋の空気がほんの少しだけ締まる。
ひとえがまっすぐこちらを見る。
紗世は端末に視線を落とさず、ただ待っている。
ここで言葉を濁したら、また前に戻る気がした。
「でも」
続ける。
「何も受けないつもりでもないです」
ひとえの目が、ほんの少しだけ動く。
「…具体的には?」
その問いに、僕は昨夜整理した言葉を一つずつ出していく。
「通学ルートの推奨や、危険な場所の回避は受けます」
「必要な連絡調整も、内容によっては従います」
「でも、放課後の単独行動を全部制限される形や、滞在場所を常に指定される形は受け入れたくないです」
言いながら、自分でも少し驚いていた。
前なら、こういう場ではもっと感情的になっていたかもしれない。
嫌だとか、息苦しいとか、そういう本音を先に出していたかもしれない。
今は違う。
嫌だと思う気持ちはある。
でも、それをそのままぶつけるより、どこを受けてどこを譲らないかを言葉にしたかった。
「…なるほど」
紗世が小さく頷く。
「一部条件付き受諾、ということですね」
「はい」
「全部あなた方に預けるつもりはありません」
そこは、はっきり言う。
ひとえが少しだけ息を吐いた。
困ったような、でも完全に否定はしない表情。
「東條くん」
「はい」
「管理と自律の両立は、簡単ではありません」
「分かってます」
「また、部分的な保護では十分な安全性が確保できない場面もあります」
「それも分かってます」
言いながら、自分の声が思ったより落ち着いていることに気づく。
怖くないわけじゃない。
ただ、ここで“全部は無理です”だけで終わるのも違うと思った。
「でも」
僕は言う。
「全部預けると、たぶん今度は自分で決める感覚までなくなる気がするんです」
ひとえと紗世が黙って聞いている。
「僕は最近、やっと断れるようになってきたところです」
「それは正直、かなりしんどかった」
「歓迎されないのも分かったし、話しかけにくいと思われるのも分かった」
一度だけ、机の上で手を組み直す。
「でも、そのしんどさごと全部消すために、今度は何もかも管理してもらう形になるのは違うと思うんです」
そこまで言うと、部屋はしばらく静かだった。
僕の言ったことが正しいのかどうかは分からない。
でも少なくとも、今の僕の中ではかなり本音に近い。
ようやく、ひとえが口を開いた。
「…自分で決める感覚を残したい、という理解でいいですか」
「はい」
「安全性を下げてでも?」
その問いは厳しい。
でも、逃げずに答えたかった。
「下げたいわけじゃないです」
「保護は受けたいです」
「でも、全部を保護の方へ寄せると、自分の意思が薄くなる感じがする」
ひとえはその答えを聞いて、少しだけ視線を落とした。
考えているようだった。
紗世が代わりに言う。
「つまり、東條くんが求めているのは“保護か自由か”の二択ではなく」
「“どこまで保護を受け、どこから先は自由を残すか”の線引きですね」
その言葉は、僕の考えていたことをとてもきれいに言い換えていた。
「…はい。たぶん、そうです」
「分かりました」
紗世は淡々と頷く。
「その希望自体は理解しました」
そこで少しだけ、胸の奥の緊張がゆるむ。
拒絶ではない。
少なくとも、最初から却下されたわけではない。
「ただし」
やはり続く。
「運用上はかなり調整が必要になります」
「支援側としては、曖昧な線引きがいちばん難しい」
その一言に、少しだけ苦笑しそうになる。
「…やっぱり扱いづらいんですね」
思わずそう言うと、ひとえがわずかに口元を緩めた。
「率直に言えば、はい」
「そこは正直なんですね」
「ここで濁しても意味がありませんから」
その返しが少しだけおかしくて、僕もほんの少しだけ肩の力が抜けた。
でも、その“扱いづらい”の中に、今の僕の立ち位置がきれいに出ている気がした。
全部受け入れるなら守りやすい。
全部拒絶するなら危険で、ある意味分かりやすい。
でも、そのあいだで“ここまでは受ける、ここから先は自分で決める”をやろうとする人間は、制度からすると一番面倒なのだろう。
それでも。
たぶん今の僕には、その面倒な位置が必要だった。
「…調整案を再作成します」
紗世が端末を操作しながら言う。
「希望をすべて反映できる保証はありません」
「ですが、本人の意思を残す形での再提案は可能です」
「ありがとうございます」
その言葉は、自然に出た。
通った、というほどではない。
でも少なくとも、“全部かゼロか”ではなくなった。
ここからまた別の息苦しさは出てくるだろう。
それでも、ただ断るだけの段階よりは少し先へ進んでいる気がした。
ひとえが、最後に静かに言う。
「東條くん」
「はい」
「あなたは今、かなり矛盾したことをしています」
「自覚はあります」
僕がそう返すと、ひとえはほんの少しだけ目を細めた。
「ですが、それは“何もかも拒絶する”より、ずっと成熟した矛盾さです」
その言い方に、少しだけ驚く。
褒められているのかどうか分かりにくい。
でも少なくとも、否定だけではない。
「…ありがとうございます」
そう返すと、ひとえは小さく頷いた。
◇
保護局の建物を出ると、夕方の空気は少しひんやりしていた。
空は曇っていたけれど、雲の向こうから薄い光が差している。
白い壁にその光が反射して、少しだけやわらかく見える。
僕は立ち止まって、ひとつ息を吐いた。
拒絶できるようになった。
それは大きかった。
でも、拒絶できるだけでは足りない。
ただ断って、ただ離れて、それで生きていけるほど、この世界はやさしくない。
受け入れれば安全かもしれない。
でも、何もかも受け入れたら、自分で立っている感じがなくなる。
だから必要なのは、たぶんそのあいだだ。
どこまで受けるか。
どこから先は譲らないか。
どう線を引いて、どう生き残るか。
「…拒絶だけじゃ、足りないんだな」
小さく呟く。
その言葉は、今の僕の中でかなりはっきりしていた。
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