「かごの中の鳥」
その夜、保護局から渡された資料は机の上に置いたまま、しばらく開けなかった。
見たくないわけじゃない。
見たら、もう少しはっきりしてしまうのが嫌だった。
行動制限。
通学ルートの固定。
連絡の調整。
滞在場所の指定。
どれも“安全”という言葉で説明されていた。
その説明自体に、たぶん嘘はない。
だからこそ厄介だった。
もしこれが、露骨な拘束として出されていたなら、もっと簡単に反発できたかもしれない。
でも実際は違う。
あなたを守るため。
孤立を防ぐため。
リスクを減らすため。
そう言われてしまうと、嫌だと思う自分の方がわがままに見えてくる。
ベッドに腰を下ろし、机の上の資料を見る。
白い紙。
整理された文字。
箇条書きの項目。
どこを見ても整っていて、感情の入り込む余地が少ない。
「…正しいんだろうな」
小さく呟く。
正しい。
でも、それでいいのかは分からない。
もしこれを受け入れたら、少なくとも今よりは安全になるのかもしれない。
玲那みたいな相手から距離を取りやすくもなるだろう。
教室の外で一人になる時間も減る。
保護局にとっても、“守りやすい男子”へ少し戻るのだと思う。
でもその分、自分の動ける範囲は確実に狭くなる。
自由を持っていたから苦しかったのか。
それとも、自由を失う方がもっと苦しいのか。
今の僕には、まだきれいに答えられなかった。
◇
翌日の放課後、気づけば僕はまた九条澪の部屋の前に立っていた。
行くべきじゃないかもしれない、と思いながら来る回数が、最近また少し増えている。
自覚しているのにやめられないあたり、自分でもだいぶ弱っていると思う。
ノックをすると、すぐに返事があった。
「どうぞ」
中へ入る。
いつもの静かな部屋。
やわらかい照明。
整った机。
窓際の植物。
その全部が、今日はいつもより少しだけ“守られた場所”に見えた。
「いらっしゃい」
澪さんがこちらを見て、小さく微笑む。
「顔、だいぶ暗いね」
「そんなに分かりやすいですか」
「今日は特にね」
その言葉に苦笑しながら、僕はソファへ腰を下ろした。
「お茶でいい?」
「…お願いします」
澪さんがお湯を入れてくれるあいだ、僕は机の端に置いた資料を鞄から取り出して眺める。
その動きに気づいたのだろう。
澪さんはカップを置きながら、少しだけ表情を変えた。
「保護局?」
「うん」
「何か言われたんだ」
「提案、らしいです」
らしいです、という言い方になってしまうあたり、まだ自分でも飲み込めていないのだと思う。
「見てもいい?」
僕は少しだけ迷ったあと、資料を差し出した。
澪さんは受け取って、静かに目を通していく。
長くはかからなかった。
きっと内容は、澪さんにとっても珍しいものではないのだろう。
「…なるほど」
読み終えたあと、そう言って資料を机に戻す。
「どう思いますか」
自分でも、少し答えを欲しがっている聞き方だと思った。
澪さんはすぐには言葉を返さない。
マグカップを一度持ち直してから、静かに言う。
「安全を優先するなら、ありだと思う」
その答えは、少し痛かった。
反対してほしかったのかもしれない。
かごみたいだと言ってほしかったのかもしれない。
でも澪さんは、まず“安全なら”を置いた。
「…やっぱり、そう思いますか」
「うん」
澪さんはゆっくり頷く。
「今の東條くん、かなり精神的に参ってるし」
「外で全部自分一人で引き受け続けるのは、たぶんしんどすぎると思う
「それは…そうかもしれないです」
「少し自由が減っても、自分を守る方が大事って場面はあるよ」
その言い方は、優しい。
そして、たぶん本気だ。
澪さんは別に僕を従わせたいわけじゃない。
本当に、自分を守る方を選んでもいいと言っているだけだ。
だからこそ、すごく考えてしまう。
「守られることって、そんなに悪いことかな」
澪さんが小さく言う。
「無理して傷つき続けるより、少し預けてもいいんじゃない?」
その言葉に、胸の奥がゆっくり揺れる。
少し預ける。
全部じゃなくて、少し。
そう言われると、急に現実的に聞こえる。
少しだけ自由が減る代わりに、少しだけ安全になる。
少しだけ管理される代わりに、少しだけ自分が楽になる。
そういう交換なら、受け入れてもいいのではないか。
そんな考えが、ほんとうに自然に浮かんでしまう。
「…それで楽になるなら」
僕は資料を見たまま言う。
「その方がいいのかなって、ちょっと思いました」
「うん」
「最近、ずっとしんどいし」
「断るのも、歓迎されないのも、社会の構造としてそうなんだって分かっても」
「分かったから楽になるわけじゃないし」
そこまで言うと、澪さんは静かに聞いてくれている。
「じゃあ、少しでも安全な方へ行って」
「少しでも楽な方へ寄るのって」
「別に間違いじゃないのかもって」
その言葉は、今の僕のかなり深いところの本音だった。
強くありたい。
自分で決めたい。
囲われたくない。
そう思う一方で、もう少し楽になりたい気持ちも確かにある。
「間違いじゃないよ」
澪さんは静かに言った。
「少なくとも、私はそう思う」
「東條くんが楽に生きれる方を選ぶのは、逃げとは限らない」
その一言に、少しだけ肩の力が抜けそうになる。
逃げじゃない。
そう言ってもらえると、かなり楽だ。
でも、その楽さの奥に、妙な怖さもある。
楽になる。
肯定される。
守られる。
それが重なると、人は案外簡単に、そこで考えるのをやめてしまうのかもしれない。
「…でも」
僕は小さく言う。
「それで楽になるのが、ちょっと怖いです」
澪さんは少しだけ目を上げた。
「怖い?」
「うん」
「だって、これ」
「今は“安全のために少し預ける”って話だけど」
「そのまま預けるのに慣れたら、戻れなくなりそうで」
そこまで言うと、自分で言葉の全容が少しはっきりする。
戻れなくなる。
それが怖いのだ。
自分で一線を引くこと。
断ること。
嫌われるかもしれなくても、曖昧にしないこと。
そういう面倒で苦しいものを、少しずつ手放してしまいそうで怖い。
澪さんはしばらく黙っていた。
それから、とてもやわらかい声で言った。
「うん。それは怖いと思う」
否定されない。
そこがまたこの人らしい。
「守られることに慣れると、自分で立つのがしんどくなることはある」
「楽な方が正しいとは限らないしね」
そこで少しだけ笑う。
「私が言うのも変だけどね」
「ほんとに」
思わず少し笑ってしまう。
でも、その笑いはすぐに消える。
「じゃあ、どうしたらいいんですか」
聞きながら、答えを求めている自分がいるのが分かる。
澪さんはカップを持ち上げ、少しだけ息をかけてから言った。
「それを、誰かに決めてもらおうとすること自体が危ないんだと思う」
その返答は、思ったより厳しかった。
「…九条さんまでそう言うんですね」
「言うよ」
やさしい声のまま、でもはっきりと。
「守られるのがいいか、自由を残したいか」
「その二つのどっちをどこまで取るかは、東條くんが選ばないと意味がない」
僕は黙る。
結局そこへ戻る。
楽な方がある。
でも、それを“自分で選ぶ”ことを手放した瞬間に、たぶん何か大事なものも一緒に失う。
「今日は、誰かに答えをもらいに来たの?」
澪さんが静かに聞く。
「…少し」
「うん」
「だと思った」
責める感じはない。
でも、見抜かれていた。
「少しなら預けてもいいって言ってほしかった?」
「…たぶん」
「その気持ちは分かるよ」
澪さんはそう言ってから、少しだけ視線を落とす。
「でも、私がそれでいいって言ったら」
「東條くん、たぶんそれを理由にしちゃうでしょ」
その一言で、胸の奥が小さく痛む。
理由にする。
たしかにそうかもしれない。
九条さんが言ったから。
安全のためだから。
仕方ないから。
そうやって、自分で選んだ重さを少し軽くしたくなる。
でも、それをやったらたぶん、あとでまた苦しくなる。
「…ずるいですね」
思わずそう言うと、澪さんは少しだけ笑った。
「うん。今日はちょっとずるい方でいるかも」
その返しに、少しだけ救われる。
全部を包み込まず、でも突き放しもしない。
それが今の僕には必要なのかもしれない。
◇
そのあと、しずくにも会った。
放課後の渡り廊下。
窓のそばに立っていたしずくに、僕の方から声をかけた。
「少しいい?」
「珍しい」
しずくは本を閉じもせずに言う。
「東條から来るの」
「今はその感想どうでもいいから」
「じゃあ、用件」
相変わらずだ。
でも、今はその切り替えの早さが助かる。
僕は保護局の提案のことを簡単に話した。
内容。
条件。
澪さんと話したこと。
しずくは途中で何度か小さく頷いただけで、最後まで遮らなかった。
「…で?」
全部聞き終えてから、しずくが言う。
「東條はちょっと傾いてる」
「傾いてるって」
「受ける方に」
はっきりしていた。
「だって楽になるから」
「…まあ」
「うん。そこまでは自然」
しずくはそこで本を閉じた。
今日のこの人は、少しだけ本気の話をする顔だった。
「でも、それで楽になるなら、たぶん危ない」
その言葉は静かだった。
でも、かなり強かった。
「楽になるなら危ない?」
「うん」
「かごの中ってって、苦しいときより楽なときの方が入りやすいから」
その表現に、背中が少しだけ冷える。
かご。
やっぱり、そういう言葉になるのだ。
「悪意で閉じ込められるかごは、まだ分かりやすい」
「でも、善意で守られて、ちゃんと楽になって、ちゃんと傷つかなくなるかごは、入り口が一番見えにくい」
しずくは窓の外を見たまま続ける。
「で、一回そこに慣れると、自分で出る理由がなくなる」
それは、さっき僕が言葉にしかけていた怖さそのものだった。
戻れなくなる。
自分で立つのがしんどくなる。
安全の代わりに、選ぶことまで手放す。
「…でも」
僕は少し声を落とす。
「楽になりたいって思うのは、そんなにだめ?」
「だめじゃない」
しずくは即答した。
「そこは勘違いしないで」
振り向いた目は、思ったよりまっすぐだった。
「楽になりたいのは自然」
「安全を選びたいのも自然」
「問題は、“楽になれるなら何を渡すか”を自分で決めないこと」
その一言が、かなり深く入る。
何を渡すか。
そうだ。
安全を得る代わりに、何を手放すのか。
そこを自分で決めないまま進むのが危ない。
「東條、今の提案って」
しずくが続ける。
「たぶんかなり正しいよ」
「保護局としても、周囲から見ても」
「しかも今の東條には、ちゃんと魅力的にも見える」
「うん」
「だからこそ危ない」
同じ結論に戻る。
正しい。
魅力的。
楽になる。
だから危ない。
「じゃあどうすればいいんだよ」
思わず言葉が強くなる。
「拒絶し続けるのもきつい」
「受け入れれば楽になるかもしれない」
「でもそうするのも怖い」
「じゃあどうすればいい?」
廊下の空気が少しだけ張る。
しずくは、数秒黙っていた。
それから、思っていたより静かな声で言った。
「自分で選ぶしかない」
やっぱりそこに戻る。
でも、まだ続きがあった。
「ただし、“全部受けるか、全部断るか”の二択で考えると詰む」
その一言で、少しだけ呼吸が止まる。
「…二択じゃない?」
「二択に見えてるだけ」
「じゃあ何があるの」
「そこを考えるのが次の段階」
しずくは本を抱え直した。
「東條、今まで拒絶することを覚えた」
「次は、拒絶の仕方を選ぶ段階」
その言葉は、今の僕にはまだ少しだけ早い気がした。
でも同時に、必要な方向でもあると感じた。
全部拒絶するか。
全部受け入れるか。
その間を、自分で作る。
たぶん、それができないとこの世界では生きづらいのだ。
◇
そのあと、ひよりとも話した。
下駄箱へ向かう廊下。
ちょうど帰るタイミングが重なって、自然に歩幅が揃う。
「保護局、何だったの?」
ひよりが聞く。
僕は少し迷ってから、ざっくりと内容を話した。
細かい文言は抜いて、要点だけ。
安全のための管理強化。
行動の制限。
連絡の調整。
少し自由が減る代わりに、少し安全が増える提案。
ひよりは黙って最後まで聞いていた。
「…どうするの?」
「分かんない」
「そっか」
それ以上すぐに答えを言わないところが、やっぱりひよりだった。
下駄箱の前で立ち止まり、靴を履き替える。
そのあいだの沈黙は、変に重くない。
「ねえ」
ひよりが靴を履きながら言う。
「私はさ」
「うん」
「こうした方がいい、とは言えない」
その言葉に、少しだけ目を上げる。
「…言わないんだ」
「うん」
「だってそれ、凪くんが選ばないと意味ないでしょ」
ひよりはまっすぐ僕を見る。
「安全を取るのも、自由を残すのも、どっちもたぶん間違いじゃない」
「でも、誰かに決められた方をあとから持ち続けるのって、たぶんすごいしんどいと思う」
その言い方は静かで、でも芯があった。
「怖いなら怖いって思ったまま選べばいいし」
「楽になりたいなら、そう思ったまま選べばいい」
「でも、凪くんが自分で選ばないと、あとで全部誰かのせいにしたくなるんじゃない?」
その一言が、胸の奥にすっと入る。
誰かのせいにしたくなる。
たしかにそうだ。
九条さんが言ったから。
保護局が勧めたから。
安全のためだったから。
そうやって、自分で選ばなかった責任の重さを、あとから外へ押し出したくなるかもしれない。
「…厳しいね」
思わず言うと、ひよりは少しだけ苦笑した。
「今日はそういう気分なんじゃない?」
その言い方に、ほんの少しだけ笑ってしまう。
澪さんは、やさしくしながらも決めてはくれなかった。
しずくは、二択にするなと言った。
ひよりは、選ばないと意味がないと言う。
結局、誰も僕の代わりにはなってくれない。
でも、それはたぶん、ちゃんと僕を人として見ているからでもある。
「…善意でできたかごって」
ふと、口に出る。
「たぶんこういうのだね」
ひよりが少しだけ目を細める。
「やさしいのに、息苦しいやつ?」
「うん」
「守ろうとしてるのに、閉じていくやつ」
ひよりは静かに頷いた。
「この世界、そういうの多いのかもね」
その一言が、妙にさびしく響いた。
でも、たぶん本当なのだろう。
この世界では、善意がそのまま拘束の形をしていることがある。
悪意より、よほど逃げにくい形で。
外へ出ると、夕方の空は少し薄暗くなっていた。
風は弱い。
でも胸の中には、まだずっと揺れるものが残っている。
楽になることと、自由でいられることは同じじゃない。
その当たり前のことを、今日一日で何度も別の角度から突きつけられた気がした。
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