「水無月ひよりは、変わっていく」
しずくと別れたあと、僕はしばらく中庭の端を一人で歩いた。
頭の中には、さっきの言葉がまだそのまま残っている。
**この世界は、男子の意思を尊重するより、男子を安定供給する方を優先してる。**
ひどい言い方だと思う。
でも、ひどいくらいに分かりやすかった。
前の僕はたぶん、その社会構造にうまく乗っていた。
好かれやすくて、扱いやすくて、やわらかい男子。
今の僕はそこから少し外れて、歓迎されにくい場所へずれている。
だから苦しい。
だから静かになる。
だから保護局の善意も、玲那の欲望も、みんな違う形で僕を囲おうとする。
そこまで状況を整理されると、少しだけ呼吸はしやすい。
でも、そのぶん世界の形が前よりはっきり見えてしまって、余計にしんどくもなる。
「凪くん」
名前を呼ばれて顔を上げる。
中庭の自販機のところに、ひよりが立っていた。
片手にペットボトルを持っていて、もう片方の手を軽く上げる。
「珍しいね、外をうろうろしてるの」
「今日は少しだけ教室にいたくなくて」
「分かる」
ひよりはそれ以上追及せず、こっちへ歩いてくる。
そのあたりの温度が、いつもありがたい。
「今、いい?」
「うん」
「じゃあ少しだけ付き合って」
僕は頷いて、ひよりと一緒にベンチの方へ向かった。
前にも何度か座った場所。
木陰になっていて、人の気配はあるけれど少し遠い。
この“遠すぎないけど聞かれにくい”距離が、最近の僕にはちょうどいい。
二人で腰を下ろす。
すぐには話さず、ひよりがペットボトルの蓋を開けて一口飲む音だけが小さく響く。
「最近さ」
先に口を開いたのは、ひよりの方だった。
「何か、前まで普通だったことが、ちょっと変に見えるんだよね」
その一言に、僕は少しだけ視線を上げる。
「変に見える?」
「うん」
「例えば?」
ひよりはすぐには答えなかった。
少し考えるみたいにボトルのラベルを指先でなぞってから言う。
「前はさ、男子って守るものだって普通に思ってたの」
「…うん」
「だってそういうふうに教わるし、周りもみんなそういう感じだし」
「大事にするのが当然で、危ないことから遠ざけるのが正しいって」
僕は黙って聞く。
それは、この世界の当たり前だ。
男は希少で、資源で、守るべき存在。
そのこと自体に、ひよりが前まで疑問を持っていなかったのも自然だと思う。
「でも最近」
ひよりが続ける。
「それって“守る”っていうより、“囲う”に近いんじゃないかって思うようになってきた」
その言葉に、しずくの言っていた“安定供給”が頭をよぎる。
守る。
囲う。
言葉は違うけれど、境目は案外あいまいだ。
「何でそう思ったの」
僕が聞くと、ひよりは少しだけ困ったように笑った。
「たぶん、凪くんを見てるから」
「僕?」
「うん」
「前の凪くんって、何ていうか」
「好かれて、気を遣われて、でもその中にずっと息苦しそうなとこもあったじゃん」
「…あったかも」
「今は今でしんどそうだけど」
「でも、少なくとも“いやなものをいやって言ってる”感じはする」
その言葉に、少しだけ胸がざわつく。
いやなものを、いやって言う。
そんな当たり前のことが、この世界では前よりずっと大きい意味を持つ。
「前は、凪くんが嫌がってるのか、困ってるのか、正直よく分かんなかった」
ひよりは正直に言う。
「だって、ずっと優しかったし」
「何でもそれっぽく受け取って、うまく逃がしてる感じだったから」
「ひどいな」
「今さらだよ」
そう言いながら、ひよりは少しだけ笑った。
その笑いに悪意はない。
「でも、今は分かる」
「何が?」
「凪くんが、嫌なものは嫌なんだなって」
その一言が、妙に静かに残る。
前の僕は、自分でもよく分からないまま優しく流していた。
嫌なのか、嬉しいのか、惜しいのか、面倒なのか。
全部をごちゃごちゃのまま、感じのいい顔だけしていた。
今は違う。
少なくとも、“いやなものはいや”が少しずつ外へ出るようになった。
その変化を、ひよりは見ていたのだ。
「それ見てるとさ」
ひよりは足元へ視線を落とす。
「今までの“守る”って、もしかして本人の嫌とか苦しいとかを、あんまり聞かないまま進んでたのかなって思う」
それは、この世界へのかなり大きな疑問だった。
でも、ひよりの口から出ると、急に実感のある言葉になる。
政治とか制度とか、そういう大きな話じゃなくて。
“本人の嫌を聞いていなかったのでは”という、とても人間の近い話になるからだ。
「…変わったね」
思わずそう言うと、ひよりは少しだけ肩をすくめた。
「凪くんに言われたくない」
「たしかに」
「でも、見ちゃったから」
ひよりは静かに続ける。
「前みたいに、男子は守られて当然ってだけでは、もう見られない」
「だって、その“守る”の中で、凪くんは普通に苦しそうだったし」
その言葉が、少しだけうれしかった。
うれしい、という言い方が合っているのかは分からない。
でも少なくとも、自分の苦しさが“ただのわがまま”として処理されていないことに救われる感じがした。
「…僕の拒絶って、そんなに外に出てたんだ」
「出てるよ」
ひよりは即答した。
「凪くん、自分で思ってるより分かりやすいから」
「それ前もしずくさんに言われた」
「じゃあ本当なんでしょ」
たしかにそうだ。
「でも、ただ孤立してるだけだと思ってた」
僕はぽつりと言う。
「断ることで空気が変わって、話しかけづらくなって」
「それで終わりなんだろうなって」
「終わってないんじゃない?」
ひよりはペットボトルを膝の上に置いた。
「少なくとも私は、前よりいろいろ考えるようになった」
「…僕のせい?」
「せいっていうか、影響」
少しだけ、やわらかく言い直す。
「凪くんが嫌がるの見たら」
「それまで普通だと思ってたものを、そのまま普通とは思えなくなっただけ」
影響。
その言葉が、意外なくらい重かった。
僕が拒絶して、空気が変わって、歓迎されなくなって。
それはたぶん僕自身を苦しくしている。
でも、同時に誰かの“当たり前”を少しだけ揺らしているのかもしれない。
それは、思っていなかった形の手応えだった。
「…何か」
僕は少しだけ空を見上げる。
「ちょっとだけ救われるかも」
「何が?」
「ただ場を乱してるだけじゃないって分かるの」
ひよりはその言葉を聞いて、小さく頷いた。
「うん」
「もちろん、誰かを困らせてるのも本当だけど」
「でも、今まで通りでいいって思ってた人が、少しでも“変かも”って思うなら」
「それって全部無駄でもないのかなって」
そこまで言うと、ひよりは少しだけ目を細めた。
「たぶん、そういうのを変化って言うんじゃない?」
「大げさだな」
「大げさかな」
「僕一人でそんな」
「一人じゃなくても、きっかけにはなるでしょ」
その返しは、妙にひよりらしかった。
革命とか、世界を変えるとか、そういう大きな言い方はしない。
でも、小さな違和感が広がることの意味はちゃんと信じている。
「今までの普通が、少しだけ変に見える」
ひよりが静かに言う。
「それって、たぶんすごく小さいけど、無駄じゃないから」
その言葉は、今日聞いたどの理屈よりもやわらかくて、それでいてちゃんと残った。
無駄じゃない。
この数週間で僕がやってきたことは、
空気を悪くして、
話しかけにくいと思われて、
歓迎されなくなって、
ただ自分が生きにくくなっただけだと思っていた。
でも、無駄じゃない。
少なくとも、ひよりの中では何かが少し変わった。
その事実だけで、全部が少しだけ違って見える。
「…ひよりさんも、しんどくない?」
ふと、そんなことを聞いていた。
「何が?」
「今まで普通だと思ってたものが変に見えてくるのって」
「結構きついでしょ」
ひよりは一瞬だけ目を丸くした。
それから、小さく笑う。
「優しいこと言うじゃん」
「今の流れでそうなる?」
「なるよ」
少し笑ってから、ひよりはちゃんと答えた。
「きついよ。普通に」
「だって、今まで疑わずにいたものを、急にそのままでは見られなくなるってことだし」
「うん」
「でも、その方がたぶんちゃんと物事を見てるってことなんだと思う」
ちゃんと見る。
最近、その言葉がいろんな形で自分の周りに現れる。
誰か一人をちゃんと見る。
自分の欲しさをちゃんと見る。
社会の構造をちゃんと見る。
たぶん僕は今、その“ちゃんと見る”の途中にいるのだ。
だから、前よりしんどい。
でも、前より本当でもある。
予鈴が鳴る。
昼休みが終わる合図に、ひよりは立ち上がった。
僕も少し遅れて立ち上がる。
「戻ろ」
「うん」
教室への短い道を並んで歩きながら、ひよりがぽつりと言う。
「変わったの、凪くんだけじゃないのかもね」
その一言に、僕はすぐには返事ができなかった。
でも、たぶん本当だった。
僕が拒絶したことで、僕自身が歓迎されなくなったことで、少しだけ見えるものが変わった人もいる。
全部がよくなるわけじゃない。
むしろしばらくは苦しいままだろう。
それでも、僕がやってきたことは無駄じゃない。
そのことを知れただけで、今日の空は少しだけ軽く見えた。
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