「比良坂しずくは、社会を説明する」
神代玲那と別れたあと、帰り道の景色は妙に平たく見えた。
駅前の人の流れも、信号待ちの列も、コンビニの明かりも、全部いつも通りのはずなのに、頭の中だけがずっとざらついている。
**欲しい側は、折れるのを待ったりしない。**
玲那の言葉が、何度も浮かんでは沈んだ。
断る。
線を引く。
隙を残さない。
そこまでは、この数週間でやっと形になってきた。
でも、その先はどうだ。
断れば静かに引く人もいる。
傷ついて終わる人もいる。
でも玲那みたいに、拒絶そのものを価値に変える人間もいる。
だったら、何なんだろう。
ちゃんと断ればいい、で終わる話じゃない。
でも、だからといって曖昧に戻るのも違う。
保護局は歓迎しない。
教室では話しかけにくいと言われる。
玲那は引かない。
澪さんの部屋はやさしすぎる。
どこを向いても、少しずつ息苦しい。
(…僕、何に悩んでるんだろうな)
そんなことを思ったのは、その日の夜、机に突っ伏したままノートも開けずにいたときだった。
何に悩んでいるのか。
誰と戦っているのか。
そもそも戦うって言葉が合っているのかも分からない。
ただ一つ分かるのは、最近の苦しさが“僕の会話の下手さだけ”では説明しきれなくなってきたことだった。
◇
翌日の昼休み、僕はいつものように教室から少し早めに出た。
人の少ない場所へ行きたかった。
何かを食べたいというより、少し静かなところで呼吸を整えたかった。
階段を下りて渡り廊下へ向かう。
窓の外は薄く晴れていて、グラウンドの隅には体育の授業らしい集団が見えた。
そのまま中庭の端へ出ようとしたところで、窓際に立つ見慣れた姿が目に入る。
比良坂しずくだった。
壁にもたれず、ただ窓の桟に片手を置いて外を見ている。
こっちに気づいているのかどうか分からない横顔。
でも、この人の場合、気づいていないように見えてたいてい気づいている。
「…何してるの」
声をかけると、しずくは振り向きもせずに言った。
「東條待ち」
「最近みんなそれ好きだね」
「東條が分かりやすく一人になるから」
返しが早い。
そしてちょっと腹が立つくらい正しい。
「用事?」
「うん」
しずくはそこでようやく振り返った。
「最近の東條、中途半端に浮いてるから」
会って二言目でそれを言う人は、この人くらいだと思う。
「…言い方」
「事実でしょ」
「事実でも、もう少し言い方ってものがあるでしょ」
「やさしい言い方にすると、また東條が逃げるから無理」
返す言葉がなくなる。
しずくは僕のそういうところを、ほんとうによく見ている。
見ているし、逃がさない。
「浮いてるって、どういうこと」
僕が聞くと、しずくは小さく肩をすくめた。
「そのまま」
「好かれやすい立ち位置からは降りた」
「でも、嫌われて完全に外へ出たわけでもない」
「制度には守られてる」
「でも、歓迎はされてない」
最後の一言で、胸の奥が少しだけ重くなる。
歓迎はされてない。
昨日、保護局で聞いた言葉にも近い感覚だった。
「…それ、自分でも分かってる」
「うん。だから話が早い」
「話って何」
「東條が今どこにいるかの状況整理」
しずくらしい言い方だと思う。
相談でも慰めでもなく、状況整理。
僕は窓際の反対側の壁に寄りかかる。
この人と話すときは、立ったままの方が少し楽だ。
座ると、妙に長くなる気がするから。
「じゃあ、状況を整理して」
「了解」
しずくは本当にそういう役に入ると、声の温度が少しだけ変わる。
冷たいわけじゃない。
ただ、余計な感情を混ぜずに物事を並べるための声になる。
「まず」
人差し指を軽く立てる。
「この世界は、“受け入れやすい男子”を前提にできてる」
「…前提」
「うん」
「好かれやすくて」
「扱いやすくて」
「管理しやすい男子」
その三つを並べられると、思っていた以上に生々しい。
「それって、そんなに露骨?」
「露骨だよ」
しずくは即答する。
「東條、今まで気づいてなかっただけで、かなり露骨」
「学校だってそう」
「保護局だってそう」
「男の意思を尊重してるように見せつつ、実際には“自分たちにとって都合がいいか”をかなり重視してる」
その言い方には、昨日の保護局で感じた息苦しさとぴったり重なるものがあった。
自由はある。
でも、歓迎はされない。
受け入れやすい男子の方が、守る側にとっては都合がいい。
「…つまり」
僕はゆっくり言う。
「前の僕の方が、この世界と相性よかったってこと?」
「うん」
ためらいなく頷かれる。
「前の東條は、だいぶ相性よかった」
「やさしく見えて」
「好意も受け取りやすくて」
「周囲も近づきやすい」
「制度側から見ても、管理しやすい希少な男子」
言われて、少しだけ胃のあたりが重くなる。
前の僕は、この世界に合っていた。
でもその“合っていた”の中には、僕の曖昧さとずるさもかなり含まれている。
「じゃあ今の僕は?」
「相性悪い」
また即答。
「かなり」
「…そこは即答なんだ」
「そこが今回の本題だから」
しずくは窓の外へ一瞬だけ視線をやってから、またこっちを見る。
「今の東條は断る」
「隙を減らす」
「近づきすぎる相手には一線を引く」
「うん」
「それ自体は間違ってない」
「うん」
「でも、この世界からすると“話しかけにくい男子”になる」
しずくの言葉は、前に教室の後ろで聞いた誰かの小さな声よりも、ずっと冷静で、ずっと逃げ場がない。
「好かれやすい男子は守りやすい」
「断る男子は自由だけど、歓迎はされない」
「意思がある男子は、制度から見ると不安定要素」
不安定要素。
その単語が、妙にきつかった。
「不安定って」
思わず言う。
「別に僕、何かやらかしてるわけじゃないのに」
「もちろんそう」
しずくは頷く。
「でも制度って、“悪いことをするかどうか”だけで見てるわけじゃない」
「“予測しやすいかどうか”でも見る」
その説明が、嫌になるくらいしっくりくる。
受け入れる男子は、動きが読みやすい。
断る男子は、その場ごとに自分の意思で選ぶ。
それは個人としては健全でも、管理する側から見れば面倒だ。
「…何かさ」
僕は窓の外を見たまま言う。
「全部、悪意がないのが一番きつい」
しずくは少しだけ目を細めた。
「そうだね」
「誰かがわざと苦しめようとしてるなら、まだ反発しやすい」
「でも実際は、みんなそれぞれ正しい理由を持ってる」
「うん」
「保護局は守るためって言うし」
「クラスの子たちだって、前より慎重になるのは普通だし」
「玲那は玲那で…いや、あれはちょっと別かもしれないけど」
最後だけ思わず苦笑が混じる。
しずくもほんの少しだけ口元を動かした。
「玲那は欲望が分かりやすすぎるから、むしろ例外のようでいて本質側」
「やめてよ、その言い方」
「でもそうでしょ」
否定しきれないのが嫌だった。
玲那のやり方は露骨だ。
でも、この世界にある“男は資源で、囲う価値がある”という発想を、一番そのまま体現しているのかもしれない。
「…じゃあ、今の苦しさって」
僕は少しだけ声を落とす。
「僕が断るの下手だからだけじゃないんだ」
「半分はそう」
「半分はそうなんだ」
「うん」
しずくはまったく容赦しない。
「東條の下手さもある」
「でも、それだけじゃない」
そこで、少しだけ声が低くなる。
「今の東條が悩んでるのは、個人の好悪だけじゃなくて社会の構造だよ」
構造。
その言葉が、今日いちばんしっくりきた。
構造。
僕が誰を好きか、誰にどう返すか、そういう個人的な話だけじゃない。
男子がどう扱われるか。
どんな男子が歓迎されるか。
どんな男子が守りやすいか。
そういう大きな仕組みの中で、今の僕は少しずつ引っかかり始めている。
「この世界は」
しずくが静かに言う。
「男子の意思を尊重するより、男子を安定供給する方を優先してる」
その一言で、胸の中のもやもやが少しだけはっきりした形を持つ。
安定供給。
言葉としてはひどく事務的で、だからこそ怖い。
男が資源である世界。
希少で、守られて、価値がある。
でも、その守られ方は結局“安定して扱えるかどうか”にかなり寄っている。
僕が苦しいのは、たぶんそこに逆らい始めたからだ。
「…最悪だな」
ぽつりとそう言うと、しずくは肩をすくめる。
「最悪だよ」
「否定しないんだ」
「する理由ある?」
ない。
少なくとも今のところは。
「でも」
しずくはそこで少しだけ言い方を変えた。
「東條にとって全部が悪いことでもない」
「何で」
「前より、自分が何に引っかかってるか分かるから」
その返しは、思ったより静かに効いた。
たしかにそうだ。
今までは、ただ自分が下手だから苦しいのかと思っていた。
断り方が悪いから。
会話がまずいから。
罪悪感に弱いから。
それも間違いじゃない。
でも、それだけじゃない。
世界の方も、僕みたいな“ちゃんと断る男子”を歓迎しない。
そういう構造があって、その上で僕は今、自分の下手さも抱えている。
全部が自分だけのせいじゃないと分かるだけで、少しだけ呼吸がしやすくなる。
「…救われるような、余計しんどいような話だね」
僕がそう言うと、しずくは少しだけ頷いた。
「両方だと思う」
「やっぱり?」
「うん。個人の問題だけなら練習で何とかなる」
「でも構造が相手だと、練習しても歓迎はされない」
その通りだった。
だから今、僕は前よりずっと正しくなろうとしているのに、前より生きやすくはなっていない。
その理由が、ようやく見えた気がする。
「東條」
「何」
「今の位置、しんどいでしょ」
「うん」
「でもたぶん、やっと本当にこの世界と戦い始めたってことでもある」
その言い方が、少しだけ意外だった。
「戦い始めた?」
「前は流れてたから」
「今は流れない」
「だから、初めて世界の歯車とちゃんとぶつかってる」
その表現は妙に残った。
ぶつかっている。
たしかに、そうなのかもしれない。
前は、何となくこの世界に合わせて、何となく好かれて、何となく流されていた。
でも今は違う。
自分で拒絶して、自分で一線を引いて、その結果として世界の側からも押し返されている。
それは苦しい。
でも、少なくとも初めて“自分で立っている”感覚に近いものでもあった。
「…比良坂さんって」
「何」
「たまにすごい嫌な言い方するけど」
「たまに、ちゃんと助かることも言うよね」
しずくは一瞬だけ黙って、それから淡々と返した。
「たまにじゃなくて、いつもそうだよ」
「自分で言うんだ」
「事実だから」
思わず少しだけ笑ってしまう。
その笑いは長く続かなかったけれど、さっきまでの重さを少しだけ薄くしてくれた。
しずくはペットボトルを持ち直し、壁から背を離す。
「じゃあ、状況整理終わり」
「短いね」
「長くすると東條が考えすぎるから」
「もう十分考えてるよ」
「知ってる」
そう言って、しずくは階段の方へ歩き出す。
その途中で、一度だけ立ち止まった。
「東條」
「何」
「自由はある。でも、歓迎はされない」
昨日も聞いたような言葉。
でも今日は、その意味が前より少し深く分かった気がした。
「そこを分かった上で、どう生きるか考えた方がいいよ」
それだけ言って、しずくは今度こそ行ってしまった。
一人残された渡り廊下で、僕はしばらく動けなかった。
自由はある。
でも、歓迎はされない。
それが今の僕の立ち位置。
そしてこの世界は、男子の意思を尊重するより、男子を安定供給する方を優先している。
その構造に、僕はやっと戦い始めた。
息苦しいはずだった。
歓迎されないはずだった。
でも、その苦しさが自分の下手さだけじゃないと分かったことは、少しだけ救いでもあった。
窓の外の空は、薄く白んで明るかった。
なのに胸の奥だけが、まだ少し重い。
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