「神代玲那は、折れるのを待たない」
九条澪の部屋を出たあと、外の空気は思っていたより冷たかった。
支援棟の中は静かで、ぬるくて、少しだけ時間の流れが遅い。
そこから一歩外へ出ると、風の温度だけじゃなく、世界の輪郭まで急に固くなる気がする。
僕は渡り廊下を歩きながら、澪さんの言葉を何度も思い返していた。
**ここでは無理しなくていい。**
**でも、ここだけで全部済ませる場所にはしたくない。**
やさしい。
でも、そのやさしさの奥に、ちゃんと境目がある。
それがありがたいのに、同時に少し怖くもあった。
ここへ来れば楽になれる。
でも楽になれるからといって、そこへ沈んでしまってはいけない。
そんな当たり前のことを、今の僕は意識しないと簡単に忘れそうになる。
階段を下りて本校舎へ戻る。
部活帰りの生徒が何人かいて、廊下の先に小さな笑い声が散っていた。
僕はその脇を通り抜けながら、早く帰ろうと思う。
今日はもう何も考えたくない。
誰にも話しかけられたくない。
そんなふうに思う日の方が、最近は少し増えた。
「ほんとに、毎回そういう顔するようになったのね」
声が落ちてきたのは、昇降口の手前だった。
足が止まる。
聞き覚えのある声。
しかも、今いちばん会いたくない相手の声だ。
顔を上げると、神代玲那がいた。
壁にもたれもしない。
スマホも見ていない。
ただ、最初から僕を待っていたみたいな顔でそこに立っている。
この人は本当に、そういう立ち方をする。
「…また待ってたんですか」
思わず、ため息まじりに言う。
玲那は少しだけ口元を上げた。
「ええ」
「何で」
「会いたかったから」
その即答が、やっぱり嫌だった。
ためらいも、言い訳も、照れもない。
欲しいとか会いたいとか、そういう言葉をまっすぐ出してくる。
普通なら、それは熱烈で、分かりやすい好意として扱われるのかもしれない。
でも玲那がやると、そこには必ず“相手の都合を考えない力”が混ざる。
「僕は会いたくなかったです」
できるだけ平たく返す。
前なら、ここに少しだけやわらかさを混ぜていたかもしれない。
今はしない。
玲那はそれを聞いて、少しも気分を害した様子を見せなかった。
「知ってる」
「知ってるなら近づかないでください」
「無理」
即答だった。
その短さに、少しだけ頭が痛くなる。
「どうして」
「欲しいから」
またそれだ。
この人の中では、本当にそこが全部なのだろう。
玲那は一歩だけこちらへ近づいた。
近いといっても、手が届くほどではない。
でも、こちらが下がるかどうかを試しているみたいな距離だった。
「前よりずっと価値があるように見える」
「…その言い方、ほんとにやめてください」
「何が嫌?」
「全部です」
僕は少しだけ眉を寄せる。
「価値とか、高いとか、扱うとか」
「そういう言い方で僕を見るのがまず無理です」
玲那は黙って聞いていた。
でも、その沈黙に反省とか後退の気配はない。
「あなた、最近ほんとに変わったわね」
「前から何度も言われてます」
「前はもっと、自分が好かれようとしてた」
その一言に、喉の奥が少しだけ固くなる。
図星だから腹が立つ。
「今は違う」
「ちゃんと一線を引こうとしてる」
「ちゃんと嫌われることの痛みを受けようとしてる」
玲那はそこでほんの少しだけ目を細めた。
「だから前より欲しい」
やっぱりそこへ戻る。
僕は息を吐いて、視線を逸らさずに言った。
「それ、迷惑です」
「そう」
「そう、じゃなくて」
「本当に迷惑なんです」
「僕はあなたに欲しがられたいわけじゃないし、評価されたいわけでもない」
玲那は少しだけ首を傾ける。
「評価してるつもりはないわ」
「してますよ」
「欲しいだけ」
「それを評価って言うんです」
玲那は一瞬だけ黙ったあと、少しだけ笑った。
「そうかもね」
さらっと認める。
その態度が本当に厄介だ。
「でも」
玲那は続ける。
「東條、あなたは分かってない」
「何がですか」
「今のあなたって、前よりずっと価値があるの」
またその言い方。
囲う。
価値。
僕の中の不快感が一気に立ち上がる。
「囲われるつもりはありません」
「つもりの話じゃないのよ」
「じゃあ何の話ですか」
「現実の話」
玲那の声は静かだった。
だから余計に嫌だった。
「前のあなたは、誰にでも少しずつ優しくしてた」
「だから市場としては安定しない」
「…市場?」
「比喩よ」
嘘だ、と内心で思う。
この人はきっと半分も比喩で言っていない。
「でも今は違う」
「ちゃんと断る」
「ちゃんと冷たくする」
「その分、近づける人間が限られる」
玲那は僕を見る。
「手に入れた側の価値が上がる」
「最悪ですね」
「ありがとう」
「褒めてません」
「知ってる」
まるで会話が通じていないみたいで疲れる。
いや、たぶん通じてはいるのだ。
通じたうえで、この人は自分の欲を優先している。
そこが一番怖い。
「僕は」
少しだけゆっくり言う。
「あなたに何かをするつもりはありません」
「期待にも応えません」
「仲良くなることもしません」
玲那はその言葉を受けて、少しだけ目を細めた。
「ほんとにちゃんと言えるようになったのね」
「前から言ってるじゃないですか」
「前はまだ定まっていなかった」
「今は、それでも言う」
その違いを、この人はちゃんと見ている。
見ているからこそ、余計に厄介だった。
「…それで?」
僕は少しだけ声を落とす。
「それが分かったなら、少しは引いてください」
「引かない」
やっぱり即答。
「どうして」
「折れるのを待つ趣味がないから」
その一言は、思ったよりずっと冷たかった。
折れるのを待たない。
つまり、時間をかけて自然にこちらが弱るのを見ているつもりもない。
もっと直接的に、もっと能動的に、欲しいものへ手を伸ばす側だと言っている。
「普通、断られたら少しは距離を取るでしょう」
僕がそう言うと、玲那は小さく首を振った。
「普通の話をしてるわけじゃないもの」
「…そういうところです」
「うん。自覚ある」
自覚があるくせに直さない。
むしろ、それを武器みたいに持っている。
「東條」
玲那が僕の名前を呼ぶ。
声は低い。
前みたいに面白がる感じより、もっとまっすぐだった。
「あなたがちゃんと拒絶するようになったのは知ってる」
「だから、前みたいに適当に期待するつもりはない」
「……」
「でも、それで諦める理由にもならない」
その言い方は、今までの誰とも違う怖さを持っていた。
期待しない。
でも諦めない。
普通なら、期待しないなら少しは離れる。
でも玲那は違う。
期待の形を変えているだけだ。
“もしかしたら”ではなく、“いつか折る”へ。
「あなたが冷たくするなら」
玲那は言う。
「あなたの心を開く方法を考えるだけ」
背中が少し冷える。
冗談みたいな言い方なのに、冗談に聞こえない。
それがこの人の厄介さだ。
「…やめてください」
「嫌なら防いで」
「そういう問題じゃない」
「そういう問題よ」
玲那は淡々としている。
「欲しい側は、折れるのを待ったりしない」
「待ってるあいだに誰かに取られるかもしれないもの」
その言葉には、この人の世界の見方が全部詰まっている気がした。
誰かに取られる前に。
先に囲う。
先に確保する。
それは恋愛というより、資源の奪い合いに近い。
そして、この世界ではたぶん、それがそこまでおかしくもない。
だからこそ気持ち悪い。
「僕は」
今度は、一語ずつ区切るように言う。
「誰にも、取られるつもりはありません」
玲那は数秒黙った。
その沈黙のあと、ゆっくりと笑う。
「そういうところ」
「何ですか」
「だから欲しいのよ」
もう、本当にだめだと思った。
この人には、拒絶がそのままブレーキにならない。
むしろ、はっきり拒むほど“自分だけのものにしたい”が強くなる。
今まで何となく分かってはいた。
でも、今日のこの会話ではっきりした。
拒絶だけでは、この人に対して安全になれない。
「…もう帰ります」
僕は言う。
玲那はそれを止めなかった。
でも、すれ違う直前に小さく言う。
「東條」
振り返らないまま足を止める。
「あなた、自分で思ってるより危ないよ」
その言葉が、妙に真面目で、一瞬だけ意味を取り損ねる。
「断れるようになったのはいいこと」
「でも、断られて静かに引く人ばかりじゃない」
玲那の声は低い。
「欲しい側は、折れるのを待ったりしない」
その一言はさっきと同じなのに、今度は少しだけ忠告に近く聞こえた。
いや、忠告ですらないのかもしれない。
この人自身がそうだから、ただ事実として言っているだけかもしれない。
それでも、重かった。
「…あなたに言われたくないです」
そう返すと、玲那は少しだけ笑った。
「そうでしょうね」
それで会話は終わった。
僕は振り返らずに歩き出す。
足音が廊下に響く。
外の空気は冷たいはずなのに、背中には妙な熱が残っていた。
拒絶は、防壁になる。
でも、それが壁として機能する相手ばかりじゃない。
相手によっては、拒絶そのものが火種になる。
欲を煽る。
執着を深める。
むしろ、ちゃんと心を閉じたことで“こじ開ける価値がある”と見なされる。
「…最悪だな」
小さく呟く。
でも、そこで思う。
それでも、曖昧に開いたままではいられない。
火種になるからといって、最初から全部受け入れるわけにはいかない。
じゃあ、どうする。
断るだけでは足りないのかもしれない。
防ぐ方法。
線の引き方。
距離の取り方。
そういうものが、次に必要になるのだろう。
玲那みたいな相手がいる限り、拒絶は終わりじゃなくて始まりにもなる。
その現実だけが、帰り道の冷たい空気の中で、妙にはっきり僕の中へ残っていた。
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