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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第4章

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32/50

「九条澪は、受け入れてしまう」

 


 “話しかけにくい”という言葉は、その日の帰り道までずっと頭のどこかに残っていた。


 前の方がやさしかった。

 今の方がちゃんとしてる。

 でも、気を遣う。

 話しかけにくい。


 どれも、言われて腹が立つほど間違ってはいなかった。


 そこが余計につらい。


 ただの悪口なら、もっと簡単に怒れたかもしれない。

 でも実際は違う。

 相手もたぶん本気で責めていたわけじゃない。

 ただ、そう感じていることを小さな声で確かめ合っていただけだ。


 だから、僕の方もきれいに反発できない。


 駅まで歩く人の流れに混じりながら、僕はいつもより少し遅い歩幅で進んでいた。

 今日はすぐに帰ろうと思っていたのに、足取りだけがどこか曖昧だ。


 家へ帰って、一人で整理する。

 それが普通なんだろうと思う。

 でも、今の僕はそこまできれいに普通へ戻れなかった。


 スマホが震える。


 反射みたいに取り出して、画面を見る。


 **九条:今日は平気?**


 短い。

 それだけなのに、胸のどこかが少しだけゆるむ。


 平気?

 その聞き方はずるいと思う。

 来る?でもなく、来て、でもなく、平気?とだけ聞かれると、平気じゃない自分が前に出てくる。


 僕は歩きながら、しばらく返信欄を開いたまま止まっていた。


 行かない方がいい。

 そう思う理由はいくつかある。


 最近、澪さんの部屋へ行く回数が増えていること。

 そこへ行けば、拒絶しなくていいこと。

 決めなくていい空気があって、自分の輪郭を少しだけ外へ置いてこられること。


 それは救いだ。

 でも、救いであるぶん危ない。


 分かっている。

 分かっているのに、今日はその危なさより、救いの方が強く見えた。


 **少しだけなら**


 送ってから、思わず苦笑する。


 またその言葉だ。


 少しだけ。

 今日は。

 今だけ。

 そうやって人は、だめになる方へも少しずつ行くのかもしれない。


 ◇


 支援棟へ向かう廊下は、夕方になると本校舎よりさらに静かだ。


 窓の外は少し赤くなり始めていて、廊下の白い壁に淡い色が落ちている。

 遠くで扉が閉まる音がして、それがやけに響いた。


 九条澪の部屋の前に立つ。


 ノックをすると、少し間を置いてから、やわらかい声が返ってきた。


「どうぞ」


 その声だけで、少しだけ肩の力が抜けそうになる。


 だめだな、と思う。

 まだ部屋にも入っていないのに、もう楽になりかけている。


 ドアを開ける。


 部屋の中は今日も変わらなかった。


 整理された机。

 端にまとめられた書類。

 窓際の植物。

 静かな照明。

 それから、そこにいる澪さん。


「いらっしゃい」


 澪さんは、こちらを見るなり少しだけ目をやわらげた。


「やっぱり来たね」


「…やっぱりって何ですか」


「来る気がしてたから」


 その言い方が、押しつけじゃないのに逃げ場をなくす。

 来る気がしていた、というのは、来ると決めつけるよりずっとやわらかい。

 でも、僕の弱さを見抜かれている感じもして少し悔しい。


「今日はあったかいの入れるね」


 そう言って、澪さんはキッチンの方へ向かう。


 僕はソファに腰を下ろした。

 少し深く座るだけで、体が沈む。

 この沈み方が危ないのだと、最近ようやく分かってきた。


 沈んでしまうと、立ち上がるのが遅くなる。

 気持ちも、判断も、全部。


「…外で何かあった?」


 お湯を沸かしながら、澪さんが聞く。


「何かっていうほどでもないです」


「そういう日に来る方が多いんだよね」


 見透かされていて、少しだけ笑ってしまいそうになる。


「それ、統計取ってるんですか」


「感覚」


「そっちの方が嫌だな」


「ひどい」


 言いながらも、澪さんは少し笑っていた。


 そういう軽いやり取りが、今はありがたい。

 教室の中では、最近こういう小さな会話のやわらかさすら慎重になることが増えたからだ。


「はい」


 マグカップが、静かにテーブルへ置かれる。


 立ちのぼる湯気に視線を落としながら、僕は両手でそれを包んだ。

 温かい。

 それだけのことが、今日は少し大きい。


「で?」


 澪さんが向かいへ座る。


「何がそんなに疲れたの」


 その聞き方には、答えを急がせる感じがない。

 でも、誤魔化して終わらせるつもりもない響きがある。


 僕は少し黙ってから言った。


「今日、教室で」


「うん」


「“話しかけにくい”って聞きました」


 澪さんは一瞬だけ目を瞬かせた。

 驚いたというより、やっぱりそこまで来たか、という反応に近い。


「直接?」


「いや、たまたま聞こえただけです」


「そっか」


 それだけ返して、澪さんはすぐに何も言わなかった。


 その沈黙がありがたい。

 すぐ慰めに入られたら、たぶん今は余計につらかった。


「前よりちゃんとしてるけど、話しかけづらいって」

「前の方がやさしかったって」

「そういう感じで」


 言葉にしていくと、胸の奥のざらつきがまた少し浮いてくる。


「…腹立つのに、間違ってない感じもするんです」


 澪さんは小さく頷いた。


「うん」


「そこがきつい」


「そうだね」


 否定しない。

 でも、乗っかりすぎもしない。

 その返し方が澪さんらしい。


「前の僕は、たぶん話しかけやすかったんだと思います」

「軽く返して、笑って、変に空気を悪くしないで」

「でも、それって結局、曖昧な態度だっただけでもあって」


「うん」


「今は前よりちゃんと断るし、一線も引く」

「その分、扱いやすくなくなってる」


 マグカップを持ったまま、少し俯く。


「多分、それ自体は間違ってないんです」

「でも、こうやって居心地が悪くなると」

「前みたいな方が、少なくともその場は楽だったのかなって思ってしまう」


 そこまで言ってから、情けないなと思う。


 戻りたいわけじゃない。

 でも、楽だった頃を少しだけ思い出してしまう。


 澪さんはしばらく黙っていた。

 それから、とても静かな声で言う。


「楽だったと思うよ」


 その返答は意外だった。


「否定しないんですね」


「しないよ」


 澪さんは少しだけ首を傾ける。


「その場だけなら、前の方が楽だったと思う」

「断らなくていいし、嫌われるかもしれないって痛みもその場では来ないし」


「……」


「ただ、その楽さって、あとで別の形で返ってきてたんでしょ」


 その言葉に、七海の顔が頭をよぎる。


 隙を残されると、期待しちゃうよ。

 あの声は、まだきれいには消えていない。


「…そうですね」


「なら、今しんどいのは、それを先にしてるってことかもね」


 その表現は少しだけしっくりきた。


 今までなら、ずっと後へ送っていたものを、その場で精算する。

 だから心が痛い。

 でも、誤魔化しは少ない。


「でも、それって疲れませんか?」


 思わずそう言うと、澪さんは少しだけ目をやわらげた。


「疲れるよ」


「…ですよね」


「だから、休む場所は必要」


 その言葉は、僕の疲れた部分へすごく自然に入ってくる。


 休む場所。

 そうだ。

 今の僕はたぶん、ただ反省しているだけじゃもたない。

 線を引くたびに少しずつ疲れるなら、その疲れた分を戻す場所がいる。


「ここ、ですか」


 そう聞くと、澪さんは少しだけ笑った。


「そう思ってくれるなら、そう」


 その笑い方はやわらかくて、押しつけがない。

 でもだからこそ、余計に抗いにくい。


「東條くん」


「はい」


「外でちゃんと断って、ちゃんと疲れてるなら」

「ここでは無理しなくていいよ」


 その言葉に、胸の奥が少しだけゆるむ。


 無理しなくていい。

 その一言を、今の僕はすごく欲しがっている。


「…ここに来ると」


 ぽつりと口に出す。


「何も決めなくていい気がするんです」


 澪さんはすぐには返さなかった。

 ただ、視線だけを少しだけやわらげる。


「拒絶しなくていいし」

「ちゃんとしてなくても、空気が悪くならないし」

「そういうのが、すごく楽で」


「うん」


「そのままここにいたくなる」


 言いながら、自分でそれがかなり危うい本音だと分かった。


 澪さんは数秒黙ってから、静かに言った。


「いてもいいよ」


 その一言が、ひどく甘い。


「今すぐ何かを決めなくても、生きてはいける」

「全部に答えを出さなくても、壊れないように休むことはできる」


 やさしい。

 本当にやさしい。


 たぶん、この人は本気でそう思っている。

 僕を閉じ込めたいわけじゃなくて、疲れているならまず休ませたいのだ。


 だから余計に危ない。


「…でも」


 僕はマグカップに視線を落としたまま言う。


「それって、外で頑張る理由までなくなりませんか」


 澪さんは少しだけ驚いたように瞬きをした。


「ちゃんと分かってるんだね」


「分かってるつもり、です」


「うん」


「ここがあると、助かるのは本当です」

「でも同時に、ここに寄りかかりすぎると、外に出るのがどんどん面倒になりそうで」


 そこまで言うと、部屋の空気が少しだけ静かになる。


 やっぱり言わない方がよかったかもしれない、と一瞬思う。

 でも、ここを濁したらまた同じだ。


 澪さんはしばらく何も言わなかった。

 やがて、ゆっくり頷く。


「そうだね」


 その一言に、少しだけ救われる。


 否定されない。

 でも、ごまかしもしない。


「ここは、東條くんを休ませる場所にはできる」


 澪さんは静かに言う。


「でも、ここだけで全部済ませる場所にはしたくない」


「……」


「そうしたら、たぶん東條くんが外で頑張った分まで、少しずつ消えちゃうから」


 その言葉は思っていたよりまっすぐだった。


 澪さんはやさしい。

 でも、全部を曖昧に受け入れたいわけじゃない。

 少なくとも今は、そこに踏みとどまってくれている。


「…九条さんって」


「うん?」


「思ってたより厳しいですね」


 そう言うと、澪さんは少しだけ笑った。


「やさしいだけの人に見えてた?」


「見えてました」


「ひどい」


「だって、やさしいじゃないですか」


「やさしいよ」


 あっさり認める。


「でも、やさしいのと、何でも受け入れるのは少し違うから」


 その一言が、この部屋の危うさと救いを両方表している気がした。


 何でも受け入れるわけじゃない。

 でも、今の僕にはかなり深くまで受け入れてくれる。


 だから、ここは甘い。

 だから、ここは少し危ない。


「…今日は、少しだけ休みます」


 僕がそう言うと、澪さんは静かに頷いた。


「うん」


「でも、ここにいれば全部大丈夫って思わないようにはします」


「うん」


「できるかは分かんないですけど」


「分かんなくてもいいよ」


 澪さんは少しだけ目を細めた。


「分かんなくても、そう思ってるならまだ大丈夫」


 その言葉に、また少しだけ力が抜ける。


 こうやって受け入れられるたびに、自分が少しずつここへ寄っていくのも分かる。

 それでも、今はこのぬるさに少し助けられていた。


 外で拒絶して、教室で“話しかけにくい”と言われて、制度に歓迎されない気配を感じる。


 そんな日のあとに、この部屋の温度は少しやさしすぎる。


 そして、やさしすぎるものほど、疲れた人間には危ない。


 その両方を、僕はマグカップの残りの温度と一緒に、ゆっくり飲み込んでいた。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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また、ブックマークや感想も今後の執筆の支えになります。

引き続きよろしくお願いいたします。

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