「話しかけにくい男子」
“話しかけづらい”は、ある日いきなり完成するものじゃなかった。
少しずつ、言葉の前にためらいがつく。
少しずつ、視線が一拍遅れる。
少しずつ、“前ならこうだった”がずれていく。
そうやって形になった空気のことを、たぶん人はあとからまとめて
**話しかけにくい**
と呼ぶのだと思う。
その変化がはっきり見えたのは、週の半ばにある総合学習の時間だった。
次の校外実習に向けた準備で、四人ずつの班を組んで簡単な役割分担を決める。
担任が黒板の前で説明をしているあいだ、教室の中ではもう小さな相談が始まっていた。
「じゃあ、このへんで組もうか」
「去年一緒だった人いる?」
「移動班どうする?」
いつもなら、こういう時間はわりとすぐ誰かに声をかけられていた。
前の僕は、班に入れてもそこまで空気を乱さない男子だったのだと思う。
むしろ、“いても平気そう”という安心感があったのかもしれない。
でも今日は違った。
何人かと目が合う。
でも、そのまま視線が流れる。
完全に避けられているわけじゃない。
ただ、“どうする?”と軽く引っ張る感じがない。
僕は自分の机に座ったまま、プリントの端を指でなぞる。
楽なはずだ。
勝手に輪の中へ組み込まれて、あとから近さの意味を考えるよりは、ずっと。
それなのに、妙に居心地が悪い。
教室のあちこちで班が埋まっていく音がする。
椅子を寄せる音。
名前を呼ぶ声。
小さく笑う声。
その流れの中に、僕の名前だけが少し乗り遅れている気がした。
「…東條くん」
ようやく声をかけてきたのは、前の列にいる女子だった。
クラス委員をしている、どちらかと言えばしっかりしたタイプの子だ。
「もし、まだ決まってなかったらなんだけど」
そこまで言って、少しだけ言葉を探す顔をする。
「私たちのところ、来る?」
“来る?”の前に、ほんの少しだけためらいがあった。
前ならなかったはずの間だ。
その一瞬で、いろんなことが分かる。
断られるかもしれない。
気を悪くされるかもしれない。
前みたいに軽く誘える相手じゃない。
向こうがそう思っていることが、ちゃんと伝わる。
「…いいの?」
思わずそう聞き返すと、その子は少しだけ困ったみたいに笑った。
「いいの、っていうか」
「無理なら無理で全然いいんだけど」
やっぱりその前置きが入る。
無理なら無理で全然いい。
今の僕の周りでは、その種の言葉が確実に増えていた。
「いや」
僕は小さく首を振る。
「大丈夫。入るよ」
「そっか。よかった」
女子はほっとした顔で頷いた。
その“よかった”に、少しだけ刺さるものがある。
僕が入ることに対してというより、断られなくてよかった、という安堵が混ざっているように感じたからだ。
たぶん考えすぎじゃない。
でも、向こうを責められる筋合いもない。
前より僕が断る人間になったのは事実なのだから。
◇
班の席へ移動すると、空気は表面上とても穏やかだった。
「じゃあ、役割どうする?」
「記録係やる人いる?」
「東條くん、移動経路まとめるの得意そうじゃない?」
会話そのものは普通だ。
いや、普通に見えるようにみんな気を遣ってくれているのかもしれない。
僕もそれに合わせて、必要なところだけ返す。
「じゃあ、そのまとめ役をやります」
「あとは時間の確認もやります」
「細かい調整は先に書いておいた方がいいかも」
前なら、この中にもっと余計なやわらかさを混ぜていた。
軽く笑ったり、冗談っぽくしたり、相手が話しやすいように少し多めに返したり。
今は違う。
仕事として必要な分だけはやる。
でも、そこで気安い近さを増やさないようにしている自分がいた。
その結果、進行はスムーズだった。
でも、どこか少しだけ硬い。
班の一人が、メモを取りながらぽつりと言う。
「東條くん、最近ほんと変わったよね」
その一言に、他の二人が一瞬だけ手を止めた。
悪意のある言い方じゃない。
むしろ、素朴な感想に近い。
だから返しに困る。
「…そうかな」
僕がそう言うと、別の子がすぐにフォローみたいに笑った。
「いや、何か、前よりちゃんとしてる感じ」
「それ、前はちゃんとしてなかったみたいじゃない?」
「そういう意味じゃなくて」
少しだけ場がざわつく。
ほんの小さなことだ。
でも、こういう会話の中に今の僕の位置がよく出る。
前よりちゃんとしてる。
でも、前より近づきにくい。
その両方を、みんな何となく感じている。
「前より、話しかけるときちょっと考えるかも」
最初の子が、思ったよりそのまま言った。
場の空気が一瞬だけ止まる。
自分でも、そこまで言うつもりはなかったのかもしれない。
言ったあとで少しだけ困った顔をしている。
「ごめん、変な意味じゃなくて」
と続けた、その“変な意味じゃなくて”に、僕は妙な既視感を覚える。
ああ、これ、前の僕だ。
相手の表情が変わりそうになると、すぐ埋めにいく。
角が立たないように、意味をやわらかくする。
少し前まで、僕はずっとそれをやっていた。
「…分かるよ」
僕はできるだけ平たい声で言った。
「前より、そうなってると思う」
三人が少しだけ驚いた顔をした。
たぶん、否定されると思っていたのだろう。
「断ること増えたし」
「前みたいに、何でも軽く返す感じじゃなくなったから」
そこまで言うと、場の空気が少しだけ戻る。
ちゃんと認めた方が、むしろ変な緊張は減るのかもしれない。
「…でも」
クラス委員の子が小さく言った。
「冷たいって感じではないよ」
すぐに、別の子も頷く。
「うん。何か、前より慎重って感じ」
「こっちも慎重になるけど」
その表現の方が正確だった。
冷たいわけじゃない。
ただ、軽く触れにくくなった。
気を遣う相手になった。
それを、人はたぶん
**話しかけにくい**
と呼ぶ。
「…まあ、話しかけやすくはないかもね」
自分でそう言うと、少しだけ場が静まったあと、誰かが苦笑した。
「本人で言うんだ」
「分かってるから」
「そっか」
その“そっか”には、妙な納得があった。
前より話しかけづらい。
でも、それは本人も分かっている。
少なくとも、それで少しだけ安心する部分があるのかもしれない。
◇
授業が終わって席へ戻る途中、僕は教室の後ろで小さな声を聞いた。
「前の方がやさしかったよね」
「うーん…でも今の方がちゃんとしてる感じもする」
「分かる。でもちょっと気を遣う」
「何か、話しかけにくいっていうか」
そこで足が止まりかけて、でもそのまま歩いた。
聞こえてしまった。
偶然。
たぶん向こうに悪意はそこまでない。
ただ、感想としてそうなのだろう。
前の方がやさしかった。
今の方がちゃんとしている。
でも、気を遣う。
話しかけにくい。
全部、半分ずつ正しい気がした。
席に戻って、静かに鞄を開く。
教科書をしまいながら、胸の奥が少しだけざらつく。
反発したい気持ちもある。
勝手なこと言うな、とも思う。
僕だって好きで面倒な人間になっているわけじゃない。
でも同時に、全部が的外れとも言い切れない。
前の僕は、感じがよかった。
でもその感じのよさは、かなりの部分が曖昧さでできていた。
今の僕は、前より誠実であろうとはしている。
その代わり、気軽に近づける感じは減った。
その変化を、“話しかけにくい”と受け取る人がいても不思議ではない。
「…めんどくさいな」
小さく呟く。
自分が、だ。
ただ断るだけでいいわけでもなく、
ただやさしくすればいいわけでもない。
そのあいだでどう見られるかまで全部ついてくる。
放課後のチャイムが鳴る。
教室がまたざわつき始める。
そのざわめきの中で、ひよりが僕の席の横を通りながら、ほんの小さく言った。
「聞こえてた?」
僕は少しだけ肩をすくめる。
「まあ」
「…そっか」
「別に、そんなに間違ってないし」
そう返すと、ひよりは一瞬だけ目を見開いた。
でもすぐに、少しだけやわらかい顔になる。
「前より、ちゃんと自分のこと見てるね」
「うれしくない褒め方だな」
「でも大事だよ」
ひよりはそこで立ち止まらず、そのまま数歩進んでから振り返る。
「話しかけやすい方が、生きやすいのは本当だと思う」
「うん」
「でも、話しかけやすいだけの凪くんも、たぶんもう無理でしょ」
その言葉は、静かに本当だった。
戻れない。
前みたいな、誰にでも少しずつやわらかい男子には。
その代わり、今の僕は前より少しだけ厄介で、前より少しだけ誠実だ。
その両方を持ったまま、この世界ではたぶん“話しかけにくい”になる。
「…だろうね」
僕がそう言うと、ひよりは小さく頷いた。
「じゃあ、その話しかけにくさごと生きるしかないんじゃない?」
軽く言うくせに、内容は重い。
扱いづらさごと生きる。
たぶんそれが、この巻の最初の問いなのだろうと思った。
前みたいなやさしい男子には戻れない。
でも、話しかけにくい男子になって終わるわけにもいかない。
そのあいだで、どう立つか。
そこを考えなければいけない段階に、もう来ているのだと感じた。
教室の窓の外では、夕方の光が少しだけ傾き始めていた。
好かれやすい男子じゃなくなったぶん、話しかけにくい男子にはなったらしい。
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