プロローグ 「静かになる」
断ったあと、最初に減るのは言葉じゃなかった。
熱だ。
朝、教室のドアを開けた瞬間に、それが分かった。
いつも通り、人はいる。
窓際では何人かが集まって話しているし、後ろの席では課題の答え合わせみたいな声がしている。
机を引く音、椅子の脚が床を擦る音、笑い声。
全部ある。
それなのに、前まで僕のまわりにあったものだけが、少し引いていた。
視線はある。
なくなったわけじゃない。
むしろ、ちゃんと感じる。
でも、前みたいに軽く近づいてくる感じが薄い。
遠くから一度だけ触れて、すぐに離れる視線。
話しかける前に、少しだけ様子を見る空気。
僕は教室の入口でほんの一瞬だけ立ち止まって、それから何もなかったみたいに自分の席へ向かった。
鞄を机の横にかける。
椅子を引く。
座る。
たったそれだけの動作なのに、昨日までとは何かが違う。
たぶん、僕が違うのだ。
そして、その違いを周りももう少しだけ知っている。
ちゃんと断る。
隙を残さない。
曖昧にやさしくしない。
そういうことを少しずつ始めて、ついに昨日、はっきりと拒絶した。
その結果が、この静けさなのだと思う。
「おはよう、凪くん」
右斜め前の席から声が飛んでくる。
顔を上げると、クラスの女子がこちらを見ていた。
前なら、そこから一言二言、軽く会話が続いていたかもしれない相手。
「…おはよう」
返す。
それだけ。
相手は小さく頷いて、自分の友達の方へ向き直る。
それで終わった。
何も変じゃない。
挨拶としては十分だ。
でも、前より短い。
前より熱がない。
たぶん向こうもそれを分かっていて、だからその先を足さない。
(…静かだな)
心の中で、そう思う。
騒がしさの中にある静けさ。
僕だけに向けられていた、少し余分な熱が引いたあとの感じ。
楽なはずだ。
前みたいに、何かの意味が勝手に膨らんでいく気配は少ない。
話しかけられて、そのたびに少し期待を受け取って、でも返せなくて、あとで自分が嫌になる。
そういう流れは、たぶん前より減っている。
だから楽なはずなのに、胸のどこかが少しだけ寒い。
ホームルーム前の短い時間、教室の空気はいつも通り流れていく。
誰かが小テストの話をして、
誰かが昨日見た動画の話で笑って、
誰かが購買の新作パンの話をする。
僕もその中にいる。
ちゃんと同じ教室にいて、同じ朝を過ごしている。
でも、前より少しだけ外側にいる感じがした。
「凪くん」
今度は後ろから声がした。
振り返ると、別の女子がプリントを持って立っていた。
「これ、先生に出しといてもらっていい?」
頼まれた内容は何でもない。
本当に何でもないことだ。
でも、言い方に少しだけためらいがある。
“だめならいいけど”を言う一歩手前みたいな顔だった。
「…いいよ」
プリントを受け取って答えると、女子は少しだけほっとしたように笑った。
「ありがとう」
「うん」
それで終わる。
その終わり方が、やっぱり前と違う。
前なら、たぶんここで少しだけやわらかく笑っていた。
“全然大丈夫”とか、“忘れそうだったら言って”とか、余計な一言を足していたかもしれない。
今はしない。
しないと決めているというより、足したらまた何かが戻ってきそうで怖い。
女子はそのまま席へ戻る。
僕は手元のプリントを眺めながら、また小さく息を吐く。
これでいい。
たぶんこれでいい。
でも、その“いい”の中には、前より少しだけ距離が含まれている。
◇
一限と二限のあいだの休み時間、ひよりが僕の机の横へ来た。
ひよりは前みたいに気安く近づいてくる。
でも、その気安さはほかの誰とも少し違う。
踏み込みすぎないことと、必要なときはちゃんと来ることのあいだの、絶妙な位置にいる。
「静かだね」
開口一番、それだった。
僕は少し苦笑する。
「いきなりだな」
「だってそうじゃん」
ひよりは僕の机の端に手を軽く置いて、教室を見渡す。
「前より、みんなからの熱量がない」
「でも見られてはいる」
「うん」
「分かる?」
「分かるよ」
僕は窓の外へ一度だけ視線を逃がした。
「前より楽かも、って思う瞬間はある」
「でも、前より距離が遠い」
ひよりは小さく頷いた。
「だよね」
それだけの相づちなのに、少しだけ助かる。
誰かと同じ現象を見ている感覚があるからだろうか。
「断ると、こんな感じなんだなって思った」
僕が言うと、ひよりは少しだけ目を細めた。
「どんな感じ?」
「…静かになる」
「うん」
「でも、その静けさって、別に安心だけじゃないんだね」
ひよりは数秒黙ってから言った。
「自由と孤立って、ちょっと似てるからね」
その言葉は、朝から僕の中にぼんやりあったものを、そのまま形にした感じがした。
自由と孤立。
確かに似ている。
話しかけられすぎない。
期待を向けられすぎない。
好き勝手に意味をつけられにくい。
それは自由に近い。
でも同時に、少しずつ人が引いていく感じもある。
慎重に扱われる。
近づかれにくくなる。
それは孤立にも近い。
「…前より楽なはずなんだけどな」
思わずそう呟くと、ひよりは肩をすくめた。
「その分、前より寂しいんじゃない?」
その言い方が妙にまっすぐで、僕は少しだけ言葉に詰まる。
寂しい。
認めるのが少し情けない言葉だった。
でも、たぶん少しはそうだった。
前みたいな熱はしんどかった。
曖昧なまま受け取る好意も、あとで自分を苦しくさせた。
それでも、その熱が引いていくと、今度は“もう簡単には触れられない”みたいな距離だけが残る。
人間って勝手だなと思う。
いや、勝手なのは僕かもしれない。
「…少しだけ」
素直にそう言うと、ひよりは「でしょ」とも「ほら」とも言わなかった。
ただ、同じ高さの声で返す。
「そりゃそうだよ」
その返し方が、やっぱりひよりだと思う。
「何も失わずに変われるわけじゃないし」
「手厳しいな」
「今さら?」
「今さらだね」
ひよりはそこで少しだけ笑った。
僕も、つられてほんの少しだけ笑う。
でも、その笑いも長くは続かなかった。
すぐにまた、教室の空気が目に入る。
前より少しだけ慎重。
前より少しだけ遠い。
でも、完全に切れたわけではない。
だから余計に曖昧だった。
「ねえ」
ひよりが少しだけ声を落とす。
「今のこの感じ、嫌?」
質問の仕方が、いつも少しだけずるい。
はいかいいえで簡単に答えにくいところを真ん中から聞いてくる。
僕は少し考えてから言う。
「嫌っていうか」
「うん」
「まだ慣れない」
「そっか」
「でも、前に戻りたいわけでもない」
そこは、かなりはっきりしていた。
前みたいな曖昧さに戻れば、その場の熱は戻るかもしれない。
話しかけやすさも、近さも、少しは戻るかもしれない。
でも、その先に何があるかを僕はもう知っている。
だから戻れない。
ひよりはその答えを聞いて、小さく頷いた。
「じゃあ、たぶん今はこれでいいんだと思う」
「これでいい、かあ」
「いいっていうか、必要な準備期間」
準備期間。
その言い方は少しだけ救いがあった。
今のこの静けさが完成形じゃない。
ただの準備期間。
そう思えるだけで、少し息がつきやすくなる。
「…断ったあとって、こんなに静かになるんだね」
僕が言うと、ひよりは少しだけ視線をやわらげた。
「うん」
「でも、その静けさはずっと悪いものでもないよ」
「そうかな」
「少なくとも、前みたいに誰かが勝手に期待を育てる音は減ってるでしょ」
その言葉で、七海の顔が一瞬だけ浮かぶ。
胸の奥が小さく痛む。
でも、前みたいな痛みではない。
忘れないための痛みだと思う。
チャイムが鳴る。
次の授業が始まる合図。
ひよりは机から手を離して、自分の席へ戻りかける。
その途中で、振り返らずに言った。
「静かになるの、怖いよね」
「うん」
「でも、それでしか聞こえないものもあるから」
その言葉を残して、ひよりは席へ戻っていった。
僕はしばらくその背中を見たあと、机の上のペンを指で転がす。
断ったあと、世界は少し静かになった。
楽になったはずなのに、少しだけ置いていかれた気もする。
でも、その静けさの中でしか見えないものも、たしかにあるのだと思う。
前より近づかれにくいこと。
前より好かれにくいこと。
前より、僕がちゃんと線を引いたこと。
それら全部が、この静けさの中にちゃんと残っていた。
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