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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第3章

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29/50

エピローグ 「それでも、前よりはましだ」

 


 朝は、普通に来た。


 目が覚めて、天井があって、カーテンの隙間から光が入っている。

 昨日、はっきり拒絶したことも、誰かの顔が変わる瞬間を最後まで見たことも、その全部を無視するみたいに、朝は何事もなく始まる。


 それが少しだけ不思議だった。


 もっと、分かりやすく何かが変わるような感覚が残るかと思っていた。

 起きた瞬間から胃が重いとか、制服に着替える気がしないとか、そういう目に見える“後遺症”みたいなものが来るのかと思っていた。


 でも実際には、体はちゃんと目覚める。

 顔を洗えば目も覚めるし、シャツのボタンも留められる。

 人は案外、昨日の痛みを抱えたままでも普通に朝を始められるらしい。


 ただ、胸の奥にだけ鈍い重さが残っていた。


 机の上のスマホを見る。


 昨日の夜に見た通知の続きはもう来ていない。

 静かな画面。

 それを見て少しだけ安心して、同時に自分が何に安心しているのかを考えてしまう。


 追加で何か責める言葉が来ていないこと。

 怒りも、泣き言も、問い詰める文も来ていないこと。

 たぶん、そこに安心している。


 それは少し情けないけれど、今の僕にはそれが正直な本音だった。


 椅子に座って、スマホを手に取る。

 ひよりとのやり取りを開く。


 **心が痛かったけど、前よりはましな気もする**


 昨日、自分で打ったその文章を見返して、少しだけ考える。


 前よりまし。


 あのときは、ほとんど感覚だけでそう打った。

 でも朝になっても、その言葉はまだそこに残っていた。


 痛かった。

 それは事実だ。

 たぶんこの先も、拒絶するたびに心が痛いのだろうと思う。


 でも、曖昧だった頃の痛みよりは、今の方がましだ。


 前は、その場では楽だった。

 感じよく笑って、やわらかく返して、相手の期待が少しだけ続くような余地を残しておく。

 その方が、その瞬間は雰囲気が悪くならない。


 でもそのあとで、必ず誰かが傷つくことになる。

 期待が長引いたぶんだけ、傷つき方も変な形になる。

 そして最後に、自分のずるさだけがきれいに残る。


 あの痛みよりは、昨日の痛みの方がまだ本当だった。


 その場で傷ついて、その場で引き受ける。

 少なくとも、そういう形にはなっていた。


「…それでも、か」


 小さく呟く。


 ましだ、ではなく、

 それでも、前よりはましだ。


 そこに“それでも”がつくのは、たぶんこの先も楽にはならないからだ。


 拒絶できるようになったからといって、世界が急に僕に優しくなるわけじゃない。

 好かれることを惜しむ気持ちも、たぶんまだ完全には消えていない。

 雰囲気が変わる冷たさも、制度に歓迎されない息苦しさも、これからもっとはっきりしていくのかもしれない。


 それでも。


 前みたいに、誰にもはっきり言えないまま、少しずつ期待をつないでいく自分には戻りたくなかった。


 ◇


 登校途中、駅から学校までの道はいつも通り人が多かった。


 朝の人の流れ。

 信号待ち。

 坂道。

 以前なら、その中に混ざる視線の熱ばかり気にしていた。


 今は少し違う。


 視線はある。

 でも、熱だけではない。

 探る感じも、慎重さも、前よりよく分かる。


 僕が変わったからだろう。

 少しずつ断るようになって、前ほど気軽に近づける相手ではなくなったから。


 それは寂しいことでもあるし、必要なことでもある。

 その両方を同時に感じるのが、最近の僕の日常になりつつあった。


 校門をくぐる。

 何人かと目が合う。

 軽く会釈して、そのまま歩く。


 前みたいに“どう返せば感じがいいか”を最優先で考えることは、少し減った。

 その代わり、“どこまでなら返していいか”を考えるようになった。


 それはたぶん成長でもあるし、萎縮でもある。

 まだ、どちらとも言い切れない。


 教室へ入ると、雰囲気は思っていたよりいつも通りだった。


 昨日のことを誰かが大声で話しているわけでもない。

 気まずい沈黙が流れているわけでもない。


 でも、完全に何もなかったようにもなっていなかった。


 いくつかの視線が、ほんの少しだけ早く逸れる。

 話しかけようとして、やめる気配がある。

 その微細な変化だけで、昨日のやり取りがちゃんと残っているのが分かる。


 席に座る。

 ひよりがこっちを見て、小さく一度だけ頷いた。

 それに頷き返す。

 言葉はない。

 でも、その短いやり取りだけで少しだけ呼吸がしやすくなる。


 しずくは朝から本を開いていた。

 こちらを見もしない。

 でも、机に近づいたとき小さくぼそりと言った。


「顔、昨日よりはましね」


「…おはようより先にそれいうの?」


「そっちの方が必要そうだったから」


 相変わらずだなと思う。

 でも、その言い方の奥に少しだけ気遣いがあるのも、もう分かる。


「おはよう」


「おはよう」


 それだけの会話だった。


 澪とは今日はまだ会っていない。

 会わないまま一日が終わるかもしれない。

 それでもいいと思う。

 昨日はあえて行かなかった。

 痛みをごまかさないために。


 そういう小さな選び方が、今の僕にはたぶん必要だった。


 ◇


 昼休み、校舎裏のベンチに座って空を見上げる。


 風は弱い。

 雲はゆっくり流れている。

 弁当箱を膝の上に置いたまま、しばらく何も食べずにその白さを見ていた。


 拒絶できるようになった。

 それは、たしかに前へ進んだことだと思う。


 でもその先には、別の息苦しさが待っていた。


 雰囲気が変わる。

 扱いづらいと思われる。

 保護局には歓迎されない。

 欲しがる側は、引くとは限らない。


 それでも、戻りたいとは思わない。


 戻ればまた、やさしい顔をした先送りに逃げることになる。

 誰かを待たせながら、自分だけが好かれている気持ちよさを受け取ることになる。


 その自分よりは、今の方がまだましだ。


 完璧じゃない。

 まだ全然強くない。

 たぶん次も迷うし、また震える。

 それでも、前のままよりは、今の方が少しだけ自分の足で立てている気がする。


「…心が痛かったけど」


 誰もいない校舎裏で、小さく呟く。


「前よりは、ましだ」


 風がその言葉をさらっていく。


 その先に、もっと別の代償がある気もした。

 断れるようになった先で、社会の目も、周囲の雰囲気も、きっともっと変わっていく。


 でも、そこから先へ進むしかない。


 拒絶できるようになったことが終わりじゃない。

 たぶん、ここからが本番なんだろう。


 空を見上げながら、僕はゆっくり息を吐いた。


 嫌われる痛みの方が、曖昧なままにする痛みよりましだった。


 そのことだけを、今はまだ大事にしていたかった。



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