エピローグ 「それでも、前よりはましだ」
朝は、普通に来た。
目が覚めて、天井があって、カーテンの隙間から光が入っている。
昨日、はっきり拒絶したことも、誰かの顔が変わる瞬間を最後まで見たことも、その全部を無視するみたいに、朝は何事もなく始まる。
それが少しだけ不思議だった。
もっと、分かりやすく何かが変わるような感覚が残るかと思っていた。
起きた瞬間から胃が重いとか、制服に着替える気がしないとか、そういう目に見える“後遺症”みたいなものが来るのかと思っていた。
でも実際には、体はちゃんと目覚める。
顔を洗えば目も覚めるし、シャツのボタンも留められる。
人は案外、昨日の痛みを抱えたままでも普通に朝を始められるらしい。
ただ、胸の奥にだけ鈍い重さが残っていた。
机の上のスマホを見る。
昨日の夜に見た通知の続きはもう来ていない。
静かな画面。
それを見て少しだけ安心して、同時に自分が何に安心しているのかを考えてしまう。
追加で何か責める言葉が来ていないこと。
怒りも、泣き言も、問い詰める文も来ていないこと。
たぶん、そこに安心している。
それは少し情けないけれど、今の僕にはそれが正直な本音だった。
椅子に座って、スマホを手に取る。
ひよりとのやり取りを開く。
**心が痛かったけど、前よりはましな気もする**
昨日、自分で打ったその文章を見返して、少しだけ考える。
前よりまし。
あのときは、ほとんど感覚だけでそう打った。
でも朝になっても、その言葉はまだそこに残っていた。
痛かった。
それは事実だ。
たぶんこの先も、拒絶するたびに心が痛いのだろうと思う。
でも、曖昧だった頃の痛みよりは、今の方がましだ。
前は、その場では楽だった。
感じよく笑って、やわらかく返して、相手の期待が少しだけ続くような余地を残しておく。
その方が、その瞬間は雰囲気が悪くならない。
でもそのあとで、必ず誰かが傷つくことになる。
期待が長引いたぶんだけ、傷つき方も変な形になる。
そして最後に、自分のずるさだけがきれいに残る。
あの痛みよりは、昨日の痛みの方がまだ本当だった。
その場で傷ついて、その場で引き受ける。
少なくとも、そういう形にはなっていた。
「…それでも、か」
小さく呟く。
ましだ、ではなく、
それでも、前よりはましだ。
そこに“それでも”がつくのは、たぶんこの先も楽にはならないからだ。
拒絶できるようになったからといって、世界が急に僕に優しくなるわけじゃない。
好かれることを惜しむ気持ちも、たぶんまだ完全には消えていない。
雰囲気が変わる冷たさも、制度に歓迎されない息苦しさも、これからもっとはっきりしていくのかもしれない。
それでも。
前みたいに、誰にもはっきり言えないまま、少しずつ期待をつないでいく自分には戻りたくなかった。
◇
登校途中、駅から学校までの道はいつも通り人が多かった。
朝の人の流れ。
信号待ち。
坂道。
以前なら、その中に混ざる視線の熱ばかり気にしていた。
今は少し違う。
視線はある。
でも、熱だけではない。
探る感じも、慎重さも、前よりよく分かる。
僕が変わったからだろう。
少しずつ断るようになって、前ほど気軽に近づける相手ではなくなったから。
それは寂しいことでもあるし、必要なことでもある。
その両方を同時に感じるのが、最近の僕の日常になりつつあった。
校門をくぐる。
何人かと目が合う。
軽く会釈して、そのまま歩く。
前みたいに“どう返せば感じがいいか”を最優先で考えることは、少し減った。
その代わり、“どこまでなら返していいか”を考えるようになった。
それはたぶん成長でもあるし、萎縮でもある。
まだ、どちらとも言い切れない。
教室へ入ると、雰囲気は思っていたよりいつも通りだった。
昨日のことを誰かが大声で話しているわけでもない。
気まずい沈黙が流れているわけでもない。
でも、完全に何もなかったようにもなっていなかった。
いくつかの視線が、ほんの少しだけ早く逸れる。
話しかけようとして、やめる気配がある。
その微細な変化だけで、昨日のやり取りがちゃんと残っているのが分かる。
席に座る。
ひよりがこっちを見て、小さく一度だけ頷いた。
それに頷き返す。
言葉はない。
でも、その短いやり取りだけで少しだけ呼吸がしやすくなる。
しずくは朝から本を開いていた。
こちらを見もしない。
でも、机に近づいたとき小さくぼそりと言った。
「顔、昨日よりはましね」
「…おはようより先にそれいうの?」
「そっちの方が必要そうだったから」
相変わらずだなと思う。
でも、その言い方の奥に少しだけ気遣いがあるのも、もう分かる。
「おはよう」
「おはよう」
それだけの会話だった。
澪とは今日はまだ会っていない。
会わないまま一日が終わるかもしれない。
それでもいいと思う。
昨日はあえて行かなかった。
痛みをごまかさないために。
そういう小さな選び方が、今の僕にはたぶん必要だった。
◇
昼休み、校舎裏のベンチに座って空を見上げる。
風は弱い。
雲はゆっくり流れている。
弁当箱を膝の上に置いたまま、しばらく何も食べずにその白さを見ていた。
拒絶できるようになった。
それは、たしかに前へ進んだことだと思う。
でもその先には、別の息苦しさが待っていた。
雰囲気が変わる。
扱いづらいと思われる。
保護局には歓迎されない。
欲しがる側は、引くとは限らない。
それでも、戻りたいとは思わない。
戻ればまた、やさしい顔をした先送りに逃げることになる。
誰かを待たせながら、自分だけが好かれている気持ちよさを受け取ることになる。
その自分よりは、今の方がまだましだ。
完璧じゃない。
まだ全然強くない。
たぶん次も迷うし、また震える。
それでも、前のままよりは、今の方が少しだけ自分の足で立てている気がする。
「…心が痛かったけど」
誰もいない校舎裏で、小さく呟く。
「前よりは、ましだ」
風がその言葉をさらっていく。
その先に、もっと別の代償がある気もした。
断れるようになった先で、社会の目も、周囲の雰囲気も、きっともっと変わっていく。
でも、そこから先へ進むしかない。
拒絶できるようになったことが終わりじゃない。
たぶん、ここからが本番なんだろう。
空を見上げながら、僕はゆっくり息を吐いた。
嫌われる痛みの方が、曖昧なままにする痛みよりましだった。
そのことだけを、今はまだ大事にしていたかった。
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