「残るもの」
拒絶したら、それで終わるわけじゃなかった。
終わらせるために言ったはずなのに、終わったあとには後味の悪い何かが残る。
雰囲気。
視線。
沈黙。
それから、自分の中に沈んでいく鈍い痛み。
先輩が教室を出ていったあとも、僕はしばらく席に座れなかった。
立ったまま、鞄の持ち手を握っている。
指先には力が入っているのに、膝のあたりだけが少し心もとない。
さっきまでちゃんと息ができていたはずなのに、今は胸の奥が変に固い。
周りのざわめきは戻っていた。
でも、それは“何もなかったみたいに”戻ったわけじゃない。
誰も露骨にこっちを見続けたりはしない。
ただ、視線が一度だけ僕を捉えて、すぐに外れる。
その短い動きの中に、さっきのやり取りがちゃんと残っていた。
聞こえていたのかもしれない。
全部じゃなくても、それでも雰囲気は十分伝わったはずだ。
「…凪くん」
ひよりがもう一度だけ小さく呼ぶ。
僕はようやく席に座り、鞄を机の横にかけ直した。
「うん」
「帰れそう?」
その聞き方が、ありがたかった。
大丈夫か、じゃない。
帰れそうか。
今の僕に必要なのは、そのくらい具体的な確認だった。
「…多分」
「多分か」
「ちょっと、まだ変な感じするけどね」
「そりゃそうでしょ」
ひよりは僕の隣の席の背に軽く手を置いたまま、少しだけ声を落とした。
「痛くないわけないよ」
「うん」
「でも、前みたいな痛さとは違うでしょ」
その一言で、僕は少しだけ目を上げる。
前みたいな痛さ。
つまり、曖昧にしたあとで自分のずるさに気づく痛み。
誰かを待たせたまま、結局泣かせたあとに来る痛み。
今のこれは、たしかに少し違った。
相手を傷つけたことは分かる。
その顔も見た。
それでも、前みたいに“何も決めなかったくせに全部後から傷つく”感じではない。
「…うん」
小さく頷く。
「違う」
ひよりは何も言わず、ただその返事を待った。
「きついけど」
「でも、変に引き延ばした感じはしない」
「うん」
「痛いのは痛いけど、前みたいに、あとで自分が嫌になる感じとはちょっと違う」
言葉にしてみると、その違いがようやく自分でも掴めた気がした。
ひよりはそこで、ほんの少しだけ口元をやわらげた。
「なら、ちゃんと前に進んでるってことだよ」
その言葉にすぐ頷くことはできなかった。
前に進んだ、なんて言い方をしていいのかまだ自信がなかったからだ。
でも少なくとも、戻ってはいない。
それだけははっきりしていた。
◇
廊下へ出ると、夕方の雰囲気は少し冷たかった。
教室の中より静かで、人の足音が少しだけ響く。
窓の外は薄く赤くなっていて、グラウンドから遠くに声が聞こえる。
ひよりは下駄箱の手前まで一緒に来て、それ以上はついてこなかった。
「今日はもう、ちゃんと帰って休みなよ」
「うん」
「変に一人で反省しすぎないようにね」
「無理かも」
「まあ、するだろうけど」
ひよりは少しだけ笑う。
「でも、今日のは“失敗した反省”だけじゃないから」
「そこは忘れないでね」
僕は靴を履き替えながら、その言葉を頭の中で反芻する。
失敗した反省だけじゃない。
確かに、傷つけたことは事実だ。
そこから目を逸らすつもりはない。
でも、それだけでもない。
今回はちゃんと断った。
自分で引き受けた。
そこも事実なのだ。
「…分かった」
立ち上がってそう言うと、ひよりは小さく頷いた。
「じゃあまた明日!!」
「うん。また明日」
その“また”は、不思議と軽かった。
期待とかじゃなくて、ただ明日も同じ教室で会うというだけの言葉通りの“また”。
そういう言葉の軽さも、今の僕には少し心地よかった。
◇
帰り道、駅までの人の流れの中を歩きながら、僕は何度もさっきのやり取りを思い返していた。
先輩の顔。
「はっきり言うんだね」という声。
「前みたいにやさしい方が、まだ楽だったかも」という言葉。
どれも、重たい。
あの一言は、かなり心の中に残るだろうと思った。
前みたいにやさしくするほうが心が楽だった。
それはたぶん本音だ。
相手にとっても、僕にとっても、その場だけならそうだったのかもしれない。
前の僕は、終わらせなかったから。
だからその場では誰も傷つかない。
少し期待を残したまま、きれいに終わらすことだけはうまかった。
でも、その先で誰かが泣く。
誰かが勘違いしたまま時間を使う。
僕自身も、いつまでもずるさを引きずる。
それに比べれば、今日の痛みはまだましなのかもしれない。
電車に乗って、窓際に立つ。
揺れる景色をぼんやり見ながら、自分の手を軽く握る。
拒絶したあとに残るものは、すっきりした達成感なんかじゃなかった。
罪悪感は残る。
雰囲気も少し冷える。
言い方を間違えたんじゃないかと何度も考える。
嫌われたかもしれないとも思う。
でも、その中にもう一つ、前にはなかったものがあった。
逃げなかった、という感覚だ。
完璧じゃない。
声も少し硬かったし、たぶんかなりぎこちなかった。
でも、やわらかい嘘みたいな期待を残さなかった。
それが、今日の僕にとっては大きかった。
◇
夜、部屋に戻ると、さすがに体が重かった。
制服を脱いで椅子にかけ、ベッドへ腰を下ろす。
机の上には教科書とノートが積んだままになっている。
スマホの画面は暗い。
今日はすぐには何もしたくなかった。
風呂にも入らず、着替えのTシャツのまましばらく天井を見ていた。
静かだ。
静かなはずなのに、頭の中はまだ少し熱をもってる。
僕は目を閉じる。
相手を傷つけた。
それは事実だった。
その事実は、たぶんこの先も軽くはならない。
ちゃんと断ったからといって、傷つけたことが消えるわけじゃない。
でも。
待たせ続けたわけじゃなかった。
期待をつないだまま、あとで傷つけたわけでもなかった。
自分が気持ちよく好かれているために、相手の気持ちを保留にしたままでもなかった。
そこは、前と違う。
「…痛かったな」
小さく呟く。
本当に、痛かった。
相手の表情が変わる瞬間を見るのも。
そのあと何も足さずに引くのも。
教室の雰囲気が少しだけ変わるのを感じるのも。
全部、思っていた以上に痛かった。
でも、それでも、前みたいな自己嫌悪の沈み方とは少し違う。
前は、あとからじわじわ来る痛みだった。
自分が何をしたのか理解したあとで、遅れて自分に返ってくる種類の痛み。
今は違う。
その場で痛い。
でも、その場で引き受けてもいる。
その違いは、たぶん小さくない。
スマホが短く震えた。
手を伸ばして画面を見る。
通知は三つあった。
ひより。
しずく。
澪。
その並びが、少しだけ今の自分を表している気がした。
ひよりには
**今日はちゃんと休んでね**
しずくには
**最低限はできてた**
澪には
**つらかったら、いつでもおいで**
それぞれ全然違う。
でも、どれも僕を違う方向から見ている。
しずくの短い文を見て、少しだけ苦笑した。
最低限。
褒めてもいないし、甘やかしてもいない。
でも、それで十分だった。
ひよりの言葉には、肩の力が少し抜ける。
澪の言葉には、少しだけ危うい安心がある。
僕はしばらくその三つを見比べてから、ひよりにだけ先に返した。
**心が痛くなったけど、前よりはましになった気もする**
送信してから、自分でその文を見返す。
前よりまし。
たぶん、今の僕に言えるのは本当にそのくらいだった。
完璧じゃない。
胸を張れるほどでもない。
でも、前よりましだと思えたのは初めてかもしれない。
しずくには
**ありがとう。まだ全然下手だけどね**
澪には少し迷ってから、
**今日は大丈夫です。ちゃんと休みます**
と返した。
澪の部屋へ行けば、きっともっと楽になれた。
でも今日は、それをしない方がいい気がした。
痛みをごまかさずにすることが、今はたぶん必要だった。
スマホを机に置く。
天井を見る。
部屋の明かりは静かで、何も答えない。
「…前よりは、ましだ」
小さく口に出す。
その言葉は、まだ胸を張って言えるものではない。
でも、嘘でもなかった。
傷つけたことは事実だった。
でも、期待を残して待たせ続けたわけでもなかった。
それだけで、今日はもう十分だと思いたかった。
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