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貞操逆転世界で、僕は希少な男子らしい  作者: きなこもち
第3章

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28/50

「残るもの」

 


 拒絶したら、それで終わるわけじゃなかった。


 終わらせるために言ったはずなのに、終わったあとには後味の悪い何かが残る。


 雰囲気。

 視線。

 沈黙。

 それから、自分の中に沈んでいく鈍い痛み。


 先輩が教室を出ていったあとも、僕はしばらく席に座れなかった。


 立ったまま、鞄の持ち手を握っている。

 指先には力が入っているのに、膝のあたりだけが少し心もとない。

 さっきまでちゃんと息ができていたはずなのに、今は胸の奥が変に固い。


 周りのざわめきは戻っていた。

 でも、それは“何もなかったみたいに”戻ったわけじゃない。


 誰も露骨にこっちを見続けたりはしない。

 ただ、視線が一度だけ僕を捉えて、すぐに外れる。

 その短い動きの中に、さっきのやり取りがちゃんと残っていた。


 聞こえていたのかもしれない。

 全部じゃなくても、それでも雰囲気は十分伝わったはずだ。


「…凪くん」


 ひよりがもう一度だけ小さく呼ぶ。


 僕はようやく席に座り、鞄を机の横にかけ直した。


「うん」


「帰れそう?」


 その聞き方が、ありがたかった。

 大丈夫か、じゃない。

 帰れそうか。

 今の僕に必要なのは、そのくらい具体的な確認だった。


「…多分」


「多分か」


「ちょっと、まだ変な感じするけどね」


「そりゃそうでしょ」


 ひよりは僕の隣の席の背に軽く手を置いたまま、少しだけ声を落とした。


「痛くないわけないよ」


「うん」


「でも、前みたいな痛さとは違うでしょ」


 その一言で、僕は少しだけ目を上げる。


 前みたいな痛さ。

 つまり、曖昧にしたあとで自分のずるさに気づく痛み。

 誰かを待たせたまま、結局泣かせたあとに来る痛み。


 今のこれは、たしかに少し違った。


 相手を傷つけたことは分かる。

 その顔も見た。

 それでも、前みたいに“何も決めなかったくせに全部後から傷つく”感じではない。


「…うん」


 小さく頷く。


「違う」


 ひよりは何も言わず、ただその返事を待った。


「きついけど」

「でも、変に引き延ばした感じはしない」


「うん」


「痛いのは痛いけど、前みたいに、あとで自分が嫌になる感じとはちょっと違う」


 言葉にしてみると、その違いがようやく自分でも掴めた気がした。


 ひよりはそこで、ほんの少しだけ口元をやわらげた。


「なら、ちゃんと前に進んでるってことだよ」


 その言葉にすぐ頷くことはできなかった。

 前に進んだ、なんて言い方をしていいのかまだ自信がなかったからだ。


 でも少なくとも、戻ってはいない。

 それだけははっきりしていた。


 ◇


 廊下へ出ると、夕方の雰囲気は少し冷たかった。


 教室の中より静かで、人の足音が少しだけ響く。

 窓の外は薄く赤くなっていて、グラウンドから遠くに声が聞こえる。


 ひよりは下駄箱の手前まで一緒に来て、それ以上はついてこなかった。


「今日はもう、ちゃんと帰って休みなよ」


「うん」


「変に一人で反省しすぎないようにね」


「無理かも」


「まあ、するだろうけど」


 ひよりは少しだけ笑う。


「でも、今日のは“失敗した反省”だけじゃないから」

「そこは忘れないでね」


 僕は靴を履き替えながら、その言葉を頭の中で反芻する。


 失敗した反省だけじゃない。


 確かに、傷つけたことは事実だ。

 そこから目を逸らすつもりはない。

 でも、それだけでもない。


 今回はちゃんと断った。

 自分で引き受けた。

 そこも事実なのだ。


「…分かった」


 立ち上がってそう言うと、ひよりは小さく頷いた。


「じゃあまた明日!!」


「うん。また明日」


 その“また”は、不思議と軽かった。

 期待とかじゃなくて、ただ明日も同じ教室で会うというだけの言葉通りの“また”。


 そういう言葉の軽さも、今の僕には少し心地よかった。


 ◇


 帰り道、駅までの人の流れの中を歩きながら、僕は何度もさっきのやり取りを思い返していた。


 先輩の顔。

「はっきり言うんだね」という声。

「前みたいにやさしい方が、まだ楽だったかも」という言葉。


 どれも、重たい。


 あの一言は、かなり心の中に残るだろうと思った。


 前みたいにやさしくするほうが心が楽だった。

 それはたぶん本音だ。

 相手にとっても、僕にとっても、その場だけならそうだったのかもしれない。


 前の僕は、終わらせなかったから。

 だからその場では誰も傷つかない。

 少し期待を残したまま、きれいに終わらすことだけはうまかった。


 でも、その先で誰かが泣く。

 誰かが勘違いしたまま時間を使う。

 僕自身も、いつまでもずるさを引きずる。


 それに比べれば、今日の痛みはまだましなのかもしれない。


 電車に乗って、窓際に立つ。

 揺れる景色をぼんやり見ながら、自分の手を軽く握る。


 拒絶したあとに残るものは、すっきりした達成感なんかじゃなかった。


 罪悪感は残る。

 雰囲気も少し冷える。

 言い方を間違えたんじゃないかと何度も考える。

 嫌われたかもしれないとも思う。


 でも、その中にもう一つ、前にはなかったものがあった。


 逃げなかった、という感覚だ。


 完璧じゃない。

 声も少し硬かったし、たぶんかなりぎこちなかった。

 でも、やわらかい嘘みたいな期待を残さなかった。


 それが、今日の僕にとっては大きかった。


 ◇


 夜、部屋に戻ると、さすがに体が重かった。


 制服を脱いで椅子にかけ、ベッドへ腰を下ろす。

 机の上には教科書とノートが積んだままになっている。

 スマホの画面は暗い。


 今日はすぐには何もしたくなかった。

 風呂にも入らず、着替えのTシャツのまましばらく天井を見ていた。


 静かだ。

 静かなはずなのに、頭の中はまだ少し熱をもってる。


 僕は目を閉じる。


 相手を傷つけた。

 それは事実だった。


 その事実は、たぶんこの先も軽くはならない。

 ちゃんと断ったからといって、傷つけたことが消えるわけじゃない。


 でも。


 待たせ続けたわけじゃなかった。

 期待をつないだまま、あとで傷つけたわけでもなかった。

 自分が気持ちよく好かれているために、相手の気持ちを保留にしたままでもなかった。


 そこは、前と違う。


「…痛かったな」


 小さく呟く。


 本当に、痛かった。


 相手の表情が変わる瞬間を見るのも。

 そのあと何も足さずに引くのも。

 教室の雰囲気が少しだけ変わるのを感じるのも。


 全部、思っていた以上に痛かった。


 でも、それでも、前みたいな自己嫌悪の沈み方とは少し違う。


 前は、あとからじわじわ来る痛みだった。

 自分が何をしたのか理解したあとで、遅れて自分に返ってくる種類の痛み。


 今は違う。

 その場で痛い。

 でも、その場で引き受けてもいる。


 その違いは、たぶん小さくない。


 スマホが短く震えた。


 手を伸ばして画面を見る。

 通知は三つあった。


 ひより。

 しずく。

 澪。


 その並びが、少しだけ今の自分を表している気がした。


 ひよりには


 **今日はちゃんと休んでね**


 しずくには


 **最低限はできてた**


 澪には


 **つらかったら、いつでもおいで**


 それぞれ全然違う。

 でも、どれも僕を違う方向から見ている。


 しずくの短い文を見て、少しだけ苦笑した。

 最低限。

 褒めてもいないし、甘やかしてもいない。

 でも、それで十分だった。


 ひよりの言葉には、肩の力が少し抜ける。

 澪の言葉には、少しだけ危うい安心がある。


 僕はしばらくその三つを見比べてから、ひよりにだけ先に返した。


 **心が痛くなったけど、前よりはましになった気もする**


 送信してから、自分でその文を見返す。


 前よりまし。

 たぶん、今の僕に言えるのは本当にそのくらいだった。


 完璧じゃない。

 胸を張れるほどでもない。

 でも、前よりましだと思えたのは初めてかもしれない。


 しずくには


 **ありがとう。まだ全然下手だけどね**


 澪には少し迷ってから、


 **今日は大丈夫です。ちゃんと休みます**


 と返した。


 澪の部屋へ行けば、きっともっと楽になれた。

 でも今日は、それをしない方がいい気がした。


 痛みをごまかさずにすることが、今はたぶん必要だった。


 スマホを机に置く。

 天井を見る。

 部屋の明かりは静かで、何も答えない。


「…前よりは、ましだ」


 小さく口に出す。


 その言葉は、まだ胸を張って言えるものではない。

 でも、嘘でもなかった。


 傷つけたことは事実だった。

 でも、期待を残して待たせ続けたわけでもなかった。


 それだけで、今日はもう十分だと思いたかった。




最後までお読みいただき、ありがとうございました!!

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